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僕が愛したあなたに、思い出の花束を

作者: 早乙女姫織
掲載日:2026/06/02

植物園は、もう何年も前に閉鎖されたはずだった。

けれど、門は開いていた。

鍵は錆び、誰の手にも止められないほど脆くなっていた。

そして、蔦が額縁になるかのように絡みついている。


僕は、そこに導かれるように足を踏み入れた。理由はなかった。

ただ、夢の中で何度もこの場所を見た気がした。花の匂いと、土の湿り気と、誰かの声。


温室の扉は軋みながら開いた。中は薄暗く、ガラス越しの光が、埃の粒を浮かび上がらせていた。

枯れた鉢植え、崩れかけた棚、そして――人影。


「……珍しいお客さんだこと」


その声は、籠った空気に溶けていった。驚きはなかった。むしろ、ようやく辿り着いた気がした。

そこにいたのは、少女だった。白いワンピース。袖口にラベンダーの刺繍。

肌は青白く、指先は土に染まっていた。目は開いていた。だが、瞬きはなかった。


「君は……」

「死んでるの。それも、ずっと昔にね」


少女は微笑んだ。その笑みは、どこか壊れていて、どこか優しかった。僕は、逃げなかった。

恐怖よりも先に、胸の奥に何かが触れた。


「鈴華。……この庭の花守よ。死んでからも、ずっと」


鈴華の声は、風鈴のように静かだった。揺れず、響かず、ただそこにある音。

ユウは、彼女の隣に腰を下ろした。自分の頬が熱を持っている。心臓の音がやけにうるさかった。

温室の中は、静かだった。花は咲いていなかった。彼女の存在だけが咲いていた。


「ここに来る人は、みんなすぐに帰ってしまうの。怖がって。汚いって言って。……でも、あなたは座った」

「……君が、泣いてるように見えたから」


鈴華は、少しだけ目を伏せた。その仕草は、生きていた頃の記憶をなぞるようだった。


「泣いてなんか、いないわ。……もう、涙は出ないもの」


何も言わなかった。何も言えなかった。ただ、彼女の手の近くに、自分の手を置いた。

触れない距離で。

それだけで、鈴華は少しだけ笑った。


「この庭はね、忘れられた花の記憶でできているの。咲かなかった花、誰にも見られなかった花、名前を呼ばれなかった花。そういう花たちが、私の身体を作ってる」

「君は……花なのか?」

「ううん。花の記憶よ。誰かが見てくれるまで、咲けなかった想いの、残り香」


僕は、温室の奥を見渡した。そこには、枯れた鉢が並んでいた。

けれど、ひとつだけ、土の表面が柔らかく、湿っていた。


「この庭に、花を咲かせたら……君はどうなる?」


鈴華は、少しだけ考えるような顔をした。そして、静かに答えた。


「たぶん、消えるわ。でも、それはきっと、悪いことじゃない。咲けなかった花が咲いたら、私はもう、ここにいなくていい」


ユウは、頷いた。それは、彼女の死を受け入れることではなかった。

彼女の在り方を、肯定することだった。


「じゃあ、咲かせよう。君のために」


鈴華は、目を見開いた。その瞳の奥に、微かな光が宿った。

それは、風のない庭に、初めて吹いた風のようだった。


「……ありがとう」


その言葉は、花の種のように、ユウの胸に落ちた。まだ芽吹かない。

それでも今、あなたのために、花を咲かせたいと思った。


それから、温室の扉が開くたび、鈴華は微笑んだ。

それは、風のない庭に差し込む光のような笑みだった。

ユウは、毎日ここに通うようになった。理由は聞かれなかったし、彼も答えなかった。

ただ、鈴華がそこにいる限り、彼は来るべきだと思った。


「今日は、どの鉢に水をあげる?」

「……あの子。左から三番目。名前はまだないけど、春に咲くはずだった花」


ユウは頷き、じょうろを手に取った。水は静かに土に染み込んでいく。

その音が、まるで呼吸のように感じられた。


「その花ね、ある女の子が植えたの。卒業式の日に、好きな人に告白するつもりだったんだって。でも、できなかった。だから、花も咲かなかったの」


鈴華の声は、記憶をなぞるように淡かった。ユウは、黙って水を注ぎ続けた。

その鉢の土は、他のどれよりも乾いていた。


「君は、どうしてそんなことを知ってるんだ?」

「私は花の記憶でできてるから。咲けなかった想い、忘れられた願い、誰にも見られなかった色。そういうものが、私の身体を作ってるの」


ユウは、彼女の手を見た。指先は土に染まり、爪の下には黒ずんだ影があった。

けれど、その手は、どこか優しかった。触れられないのに、温かさを感じさせる手だった。


「君は……苦しくないのか?」

「苦しいわよ。でも、忘れられるよりは、ずっといい」


鈴華はそう言って、目を伏せた。その瞳の奥に、微かな揺らぎがあった。

ある日、ユウは一冊のノートを持ってきた。表紙は無地で、ページはまだ白かった。


「これに、君が覚えてる花の記憶を書いてくれないか?」


鈴華は驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと首を振った。


「書けないの。私の指は、もう文字を描けない。でも……あなたが書いてくれるなら、話すわ」


ユウは頷き、ペンを走らせた。君の声は、風のない温室に静かに響いた。


ある男の子が、母親のために植えた花。でも、母親はその春を待たずに亡くなった。

花は咲かなかった。土の中で、ずっと眠っていた。


ある老婦人が、亡き夫のために植えた花。彼女は毎日話しかけた。花は咲かなかった。

でも、彼女が亡くなったあと、ひとりでに芽を出した。


ユウは、書きながら気づいていた。それらの記憶は、どこかで自分のものと重なっていた。

彼もまた、咲かせられなかった花を抱えていた。病気で失った弟。

言えなかった「ごめん」と「ありがとう」。

弟が最後に育てていた鉢植えは、枯れたまま、今も家のベランダにある。


「……君は、僕の記憶も見えるのか?」

「見えるわけじゃない。でも、あなたがこの庭に来たとき、風が少しだけ動いたの。それでわかったの。あなたも、咲かせられなかった人だって」


ユウは、ノートを閉じた。その表紙に、指でそっと触れた。


「君の身体が、花の記憶でできてるなら……僕の言葉も、君の一部になるのかな」


鈴華は、少しだけ笑った。それは、初めて見せた、生きていた頃の笑みだった。


「なるわ。あなたの言葉は、私の中で咲く。たとえ、誰にも見られなくても」


その日から、ユウは毎日一つずつ、鉢に水をやり、鈴華の語る記憶を書き留めた。


温室の空気は、少しずつ変わっていった。

湿り気が戻り、土の匂いが濃くなり、そして――ある朝、ひとつの鉢に、芽が出ていた。ユウは、鈴華を呼んだ。

鈴華は、ゆっくりと歩いてきて、その芽を見つめた。


「……咲くわね、この子」

「君の記憶が、咲かせたんだ」

「違うわ。あなたが、聞いてくれたから。忘れられなかった想いを、言葉にしてくれたから」


鈴華の声は、少し震えていた。それは、風のない庭に吹いた、最初の風だった。

ユウは、彼女の手の近くに、自分の手を置いた。触れそうな距離で。優しい温もりがあった。


鈴華の身体に、わずかに色が戻り始めていた。死んだような白い肌に、かすかな血色が宿る。

それは、彼女が生き返っているのではなく、忘れられていないという証だった。


その夜、ユウは夢を見た。花が咲く夢だった。

誰にも見られなかった花が、静かに、確かに、開いていく夢。

目覚めたとき、彼の胸には、鈴華の声が残っていた。


「ありがとう。あなたの言葉は、私の中で咲いたわ」


ユウは、そっとノートを開いた。そこには、鈴華の語った記憶と、彼自身の言葉が並んでいた。

そして、ページの隅に、小さな花の絵が描かれていた。

誰が描いたのかは、わからなかった。


朝の光が、温室のガラスを透かして差し込んでいた。僕は、鉢に水をやりながら、君の声を待っていた。


「芽が、増えたわね」


鈴華は、いつものように静かに現れた。その姿は、少しだけ薄くなっていた。

輪郭が曖昧で、肌の色も、以前より透けて見える。


「君の記憶が、庭を咲かせてる」

「違うわ。あなたの手が、咲かせてるのよ。私はただ、忘れられた声を語ってるだけ」


ユウは、咲き始めた花々を見渡した。白、青、淡い紫。

どれも、鈴華が語った、咲けなかった花の記憶だった。


ある少年が、遺される人のために植えた花。彼は病に倒れ、花を見ることなく逝った。

けれど、彼は毎年、同じ場所に種を撒き続けた。

その記憶を聞いた夜、ユウはその花の種を探し、土に埋めた。そして今、そこに芽が出ていた。


庭は、少しずつ人を呼び寄せるようになった。

閉鎖されたはずの植物園に、風が通い、鳥が鳴き、誰かが門の前に立ち止まるようになった。


「この庭、誰が手入れしてるの?」

「……僕です」


ユウは、そう答えるたびに、鈴華の声を思い出した。君は、誰にも見えない。

けれど、咲いた花々が、君の記憶を語っていた。


ある日、年配の女性が温室の前で立ち止まり、涙を流した。

彼女は、かつて亡き夫と訪れたことがあると言った。

そのとき咲いていた花が、今また咲いているのを見て、


「ありがとう」


と言って、そっと手を合わせた。ユウは、何も言わなかった。ただ、鈴華の方を振り返った。


君は、微笑んでいた。その笑みは、風の音のように、静かに庭に溶けていった。


夜、ユウはノートを開いた。ページは埋まりつつあった。鈴華の語った記憶、咲いた花の名前、訪れた人々の声。


「君の声は、もう庭に残ってる」

「そうね。私が語らなくても、花が語ってくれる」


鈴華の姿は、さらに薄くなっていた。僕たちは、気づいている。

庭が繁栄するほど、鈴華の存在は消えていく。


「……怖くないのか?」

「怖いよ。でも、咲けなかった花が咲いたなら、私はもう、ここにいなくていい」


彼女は目を閉じた。


「あなたに会えてよかった。私の記憶が、誰かの心に咲いたなら、それだけで、十分なの」


図書館の資料室は、午後の光に沈んでいた。窓際の埃を帯びた光が、古い新聞の縮刷版を照らしている。ユウは、ページをめくる手を止めた。指先が、ある見出しに触れた瞬間、胸の奥がざわついた。


「市立植物園温室内で少女の遺体発見」


昭和六十二年三月。それは、今ユウが通っている、あの植物園のことだった。

目を凝らし、記事を読み進める。


「市立植物園の温室内で、十七歳の女子高校生が倒れているのを職員が発見。死因は持病による急性発作。発見が遅れたため、通報は翌日となった。遺体は花の鉢に囲まれていた。名前は、鈴華。家族によると、卒業式の前日、庭に最後の花を植えに行ったまま戻らなかったという。」


「鈴華」


その名前を見た瞬間、ユウの視界が滲んだ。指先が震え、ページの文字がにじんでいく。

彼女は、本当は死んでいた。あの温室で、彼女は命を終えていた。

それでも、今もそこにいて、ユウと話していた。


その夜、ユウは植物園に向かった。門はいつも通り開いていた。


温室の扉を開けると、何も変わらず君はそこにいた。白いワンピース。ラベンダーの刺繍。

目があった。

けれど、何も言わなかった。


ユウは、静かに歩み寄り、彼女の隣に座った。

そして、新聞のコピーを差し出した。


「……君のことが、載ってた。君は、本当に……」


鈴華は、ページを見つめた。そして、ゆっくりと目を閉じた。


「そう。私は、咲く前に、枯れたの。誰にも見られずに、終わったの。だから、ここに残った。咲けなかった花の記憶として」


ユウは、言葉を失った。彼女の存在が、記憶ではなく、記録になった瞬間。

それは、彼女の死を確定することだった。


「でもね、ユウ。あなたが見てくれた。あなたが、私の声を聞いてくれた。それだけで、私は……少しだけ、咲けた気がするの」

「君は、どうして……あのとき、ひとりで?」


ユウの問いに、鈴華は少しだけ笑った。その笑みは、どこか懐かしく、どこか寂しかった。


「卒業式の前日だったの。私は、最後にひとつだけ、咲かせたい花があった。でも、持病のこと、誰にも言ってなかったから……倒れて、そのまま、誰にも見つけられなかった」

「……誰にも?」

「ううん。花たちが、見てくれてた。だから、私はここに残れたの。咲けなかった花の記憶として」


ユウは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。彼女は、誰にも見られずに死んだ。

けれど、今、僕は君を見ている。君の声を、聞いている。


「君は、もう……消えてしまうのか?」

「庭が咲けば、私は薄れていく。でも、それは悲しいことじゃない。咲けなかった花が咲いたなら、私はもう、ここにいなくていい」


ユウは、彼女の目を見つめた。その瞳の奥に、微かな光が宿っていた。

それは、風のない庭に吹いた、最初の風のようだった。


寝る前にユウはノートを開いた。最後のページに、彼女の名前を書いた。


「鈴華。昭和六十二年三月、植物園の温室で死去。咲かぬまま、枯れた花の記憶として、庭に残る。」


けれど、彼女の声は、確かに咲いている。ユウは、ペンを置き、目を閉じた。


 翌朝、庭に新しい花が咲いていた。それは、君が語ったことのない花だった。僕は嫌な予感がして、温室に駆け込んだ。君は、そこにいなかった。空気は静かで、風も止まっていた。


その日から、鈴華は姿を見せなくなった。けれど、庭は咲き続けた。訪れる人々が、花に語りかけるたび、風が吹き、君の声が微かに響いた。


 僕は、庭の守人となった。誰にも語らず、ただ花の記憶を綴り続けた。君は、もういない。けれど、声は庭に残っている。咲けなかった花が咲いたとき、それは、誰かの記憶が癒された証。



空っぽだった僕に水を注いでくれた君。君のもとへいきたい。僕の気持ちを今度こそ咲かせるために。それでも僕が君のもとにいけないのは、君の生きた証がここにあるから。君のことを忘れないために。君は僕の中で咲き続ける。いつか、君と思い出話に花を咲かせよう。

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― 新着の感想 ―
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