第四話 初恋──それは奇跡?(姫井 星光作)
彼氏、どころの騒ぎじゃない。深町は子持ちだったのだ。
「マジ、かよ……」
俺の心の風船が急に萎み出した。ぷすぅ、と情けない空気を漏らしながら。
ああ……。
つい先ほど学校で誓った、深町への告白。あんな誓いを立てた自分が馬鹿らしく思えてきた。
勿論、それは彼女が子持ちだったという事実のせい。けれど、それだけじゃない。
俺は彼女について何にも分かっていないじゃないか――
今日から新任した我が校の教師。とても小さくて、愛らしい童顔で、守ってあげたくなるくらいに可愛い先生。
そう。ただ、それだけ。
電車の窓に顔をぶつけ、鼻血塗れの俺にハンカチをくれた――それだけなんだ。
俺の脳内の悪魔が「お前、何に期待して告白しようとしたんだよ。バーカ」と鼻で笑っている。庇ってくれる天使なんて、いやしない。
「あれ……君………」
ハンドベルのような心地よい音色。深町の声だ。ボーっとしていたため、俺は園門から娘を連れて出て来た深町に気がつかないでいた。俺は即座に我を取り戻し、平然を装った。
「えっと、梶村君……だっけ?」
深町は俺に笑顔を見せた。桜色の唇が、かなり可愛らしい。俺が今の今までプチストーカー行為に勤しんだことを知れば、一体彼女はどう思うのだろう。そう考えると、急に後ろめたくなってきた。俺は本当に情けない奴だ。
「こんなところで会うなんて、奇遇ねぇ。君、家この辺りなの?」
その童顔に屈託のない笑みを浮かべながら、深町は首を少し傾げた。下で娘が「だあれ?」と、深町の手を、両手いっぱいに掴んで揺らした。
「………あ、いや、その。ちょっとその先の本屋に用があって」
咄嗟に言い訳をした。道路の遥か向こうに大手チェーンの本屋の看板が見えたからだ。
「そうなの。勉強熱心なんだね」
何を勘違いしたのか、深町は納得したように頷いた。本当に用があるのは深町なのに………。本屋に並ぶつまらない参考書に用などないのに………。俺は下唇を深町に分からないように噛んだ。
「あっ。とか言ってイケナイ本買おうとしてたんでしょ?」
上目遣いで彼女は言う。そして「ダメよ」と唇を窄ませた後、「ねー」と娘の方に顔を降ろした。
「違います!」
それに俺は素で否定してしまった。深町はどこまでも無邪気だった。大人の女性、あろうことか教師にこんな印象を持つことなんて、きっと今の俺は普通じゃない。
「……フフ。冗談よ。じゃ、先生はこれで。気をつけるのよ」
深町はにっこりと微笑み、至近距離にも関わらず大袈裟に手を振った。娘も真似をして手を振り出した。
まるで風が景色に溶けていくかのように、深町は俺の目の前から去ろうとした。
「さ、さようなら……」
便乗して……という意識などなく、俺も自然と手を振っていた。深町は小さく頷いた後、身体をかえして歩き始めた。
何だこれは………? 何なんだ、この悔しさ。俺を一人残して、深町親子はどんどん俺から遠ざかって行くけれど。
いいのか、俺――?
虚しくも、自問。
いや、これでは駄目だ。絶対に。
俺の今までの人生――くだらない十数年間だった。だから、これほどまでに胸を揺さぶられたのは、当然初めてな訳で………。今までは、恋? 愛? 何だそれは? 食ったら美味しいの? そんなつまらない揚げ足取りで精一杯の、つまらない人生だった。それが変わろうとしている瞬間。それが今。
すなわち、深町との出会い――
だったら、答えは一つだろう。俺も男だ。やるときはやる。少なくともこの瞬間からはそういう男になった。
だから――
「先生っ! 深町センセーイ!!」
俺は大声を張り上げた。
十メートル位向こうで、華奢な後姿を見せていた深町が振り返る。
「本当は先生に用事があって――。だから、少し時間を」
深町はさぞ驚いたことだろう。ここからでもその鳩が豆鉄砲を食らったような様が見てとれた。ほんの少しの間の後、深町も俺に負けず劣らない大声で、「いいよーっ!」と返してきた。
子持ちがどうした――
知らないことの方が多いのなら、知ろうとすればいいじゃないか――
簡単な答えに、今になってやっと気が付いた。そんな自分が、とてつもなく恥ずかしい人間に思えた。
俺と深町親子は近くのファミレスに入った。チープなこの店ならば気兼ねせず話せそうだと思ったので、俺が選んだ。娘は「クリームソーダ食べたい」とうきうきしていた。
俺たちは店の角、ソファ席に腰をおろした。俺はコーラ、深町はアメリカンコーヒー、娘はクリームソーダを頼んだ。深町はどっちかというと、カフェオレ、みたいな感じがしていたので、少し驚いた。
「話って、何かな?」
深町は軽く笑いながら、幼げなフェイスをちょっとばかし傾けた。
「えっと、その……」
引き留めたはいいが、正直策などひとつもなかった。俺は深町から顔を反らし、幾何学的な床の模様を無意味に観察。
やばいな。緊張する。
「ママぁ、クリームソーダまだぁ?」と娘がままならない発音でいう。深町は「もうちょっと待ってね」と娘をたしなめた。
はあい、と娘はメニューカタログを手に取り、楽しそうに眺めだした。彼女にとって最高に面白い内容の詰まった絵本なのだろう。
「あ……あの、噂なんですけど………」
「ん?」
「先生って、うちの高校出身なんですよね。それで、聞いた話によると――」
「――私が昔いじめられっ子で、いじめの犯人を屋上から突き落としたって話?」
「……はい」
俺がいい終わる前に、深町はいった。それから「もうそんな話が出回ってるのかぁ」と溜息をついた。
「言っとくけど、本当よ?」
深町はさらりと言ってのけた。
「確かに私は彼女を屋上から落としたわ。……でも、もう昔の話」
深町は運ばれてきたコーヒーを冷ましもせずに飲み込んだ。しかし、やはり熱過ぎたのであろう、熱っ、と舌を出した。
「ママ、あたしがふぅふぅしてあげる〜」
「ありがと。優しいのねぇ、ユミちゃんは」
深町は娘――ユミちゃんの頭を愛おしそうに撫でた。ユミちゃんは嬉しそうに、はにかんだ。
「その人は……無事だったんですよね?」
「その人?」
「いじめっ子の……」
「うん、生きてたよ。死んじゃえ、って突き落としたのにね。しょうもない傷とか、両足の骨折で済んじゃった。……あ、今のは教師としてあるまじき発言だったね。さらっと流して」
「先生……」
深町は笑顔で壮絶なことをいった。きっと、自身で既に割り切っている話なんだろう。
俺はもうその件については触れないことにした。深町の過去を詮索するのは、いけないことだ。とても悪いことだ……。
「彼女、落とされた後私に何ていったと思う?」
しかし深町は続ける。
「……何て、いったんです?」
「ごめんね、っていったの。何でだろうね。私には、未だに分からないよ」
俺は生唾を飲み込んだ。
「私泣いたわ。めちゃくちゃ泣いた。それからね、彼女とは物凄い勢いで仲良くなったの。今では、そう、マブダチって感じ?」
不思議よねぇ、と深町は呟いた。それからまた微笑んだ。本当に笑顔が似合うな、深町って。
「この子、彼女の子供なのよ」
「え?」
俺は一瞬耳を疑った。
深町の娘じゃない、だって――?
「この子には母親が、二人、いるの。……ねぇ、ユミちゃん。ユミちゃんには『お母さん』と『ママ』がいるのよねぇ」
ユミちゃんは「うん!」と元気よく頷いた。
「どういうことですか?」
「……うん。ユミちゃんにとっては、私も本当のお母さんである彼女と同じくらいなんだろうね」
俺には分かった。きっと、深町はとうの昔に自覚していることだ。
深町は尽くしたのだろう。いじめっ子に逆襲したのはいいものの、残ったのは虚しい罪悪感だけ。深町自身、やり方はまずかったと自覚したはずだ。
だから、いじめっ子に尽くした。現に、ユミちゃんの世話を大儀せずにやっているではないか。
逆にいじめっ子側も同じくらい、いや、それ以上の葛藤があったんだろう。こういった「いじめ」の結末もあるのか。俺はしみじみ思った。
「何か暗い話、ごめんね」
「いや。こっちこそ、何か……」
すいません、という言葉を寸前で飲み込んだ。それをいってしまえば、危うくダンボールのように軽い人間になり下がるところだった。
「それで、話ってのは……私の過去話について聞きたかっただけ?」
「……いや」
どうしようか。
とても告白には漕ぎ着けそうもない雰囲気だ。深町は過去も含めて、複雑な女――
いや、けれど決めたはずだ。現に、過去の話を聞いても、深町に対する想いに揺るぎはない。
「先生、晩ごはんとか色々支度あるし、あんまり長居は出来ないのだけれど」
決めた。
そう簡単には逃がさないぞ、深町。
「梶村君も、帰って勉強しないと――」
「――先生」俺はそういって立ち上がった。
深町は驚き、俺を見上げた。
俺は息を大きく吸った。
「俺、深町先生に一目惚れしました」
沈黙。
ファミレス店内の俺らが陣取るこの席だけ、時間が止まったようだった。
「え……?」
「だから、今朝のハンカチはもらっときます」
俺は机の上に小銭を出した。百九十円。すっかり炭酸の抜けてしまったコーラの代金だ。
それから、
走った――
ファミレスから逃げ出すように……尻尾を巻いて逃げ出す臆病な番犬のように。
「あ、ちょっと!」
後ろで深町の声がした。
俺は、一人にやけた。
よく分からないが、嬉しかった。多分、自己満足とかそんな感じ。
ファミレスの店員が驚いている。俺は「あの人が払うんで」といい、レジから飛び出した。
ああ。そうだ。
やっぱりハンカチは返そう。その時一緒に、ちゃんと告白しよう。「好きです。付き合ってください」って。ありふれた告白をしよう。今、深町がどう返事をするのかは想像しないでおこう。
行くあてもなく、見知らぬ町を走った。
爽やかな風が頬撫で、景色は目まぐるしく変わっていく。この景色の先に、深町と手を繋いで歩く未来を見つけられるだろうか。
「あー。明日学校生き辛いなーっ!」
俺は走りながら、そして笑いながら大声を出した。初恋というのは、こんなにすがすがしいものなんだな。
不意に、ふわりとした香り。
深町の――健気な花のような香りが、風に混じっているような気がした。