【1】その時計は、僕の秘密を知っている。
僕の家には少し不思議な振り子時計がある。
様々な形の花と、まるで本当に生きているかのように美しい乙女の横顔のレリーフが刻まれたとても繊細なものだ。
カチ、コチ、カチ、コチ…
その時計は騎士である父の執務室に置かれ、僕達家族の時間を刻み続けている。
僕が生まれる、もうずっと前から。
まるでその時計は生きているかのように、ずっと僕達を見守っている。――そんな気がするのだ。
でも、不思議なことに、その時計がどうして我が家にあるのか、誰も覚えていなかった。
その時計は当たり前のように気が付くとそこに存在していた。
――僕の母、ヘレンは、僕が生まれてからすぐに亡くなった。
だから僕は母の温もり、というものを知らない。
母は子爵令嬢だった。本と刺繍が好きな控えめで大人しい人だったそうだ。
父の部屋には父と母が2人で並んで映っている肖像画がある。
大きな猫足の長椅子に腰掛けて、少し照れくさそうに口を無理矢理引き上げる父と、穏やかに笑う亜麻色の髪の女性。
直接会った事はないけれど、『優しそうな人だな。』と思った。
小さい頃、『お母さんに会いたい。』と何気なく父に言ったことがある。
すると父に困ったような顔で
「エドワード。…ごめんな。」
と言われた。
その顔がなんだかとても切なくて、凄く申し訳なく感じてしまった記憶がある。
だからそれ以降、僕は2度と『母に会いたい』と口にしなくなった。
父、ライオネスは、僕に凄く優しかった。
けれど、何故かいつもどこか遠くに感じた。
(…上手く言えないんだけど、父さんって心の中の『何か大切なもの』をなくしちゃったみたいに、たまに『空っぽの目』をする事があるんだよね。)
…本人はきっと自分がそんな目をしていることなんて、気が付いていないと思う。
その大切なものが、一体何だったのか僕にはわからない。
(母さんがいなくなってから、父さんは心のどこかが壊れちゃったのかもしれないな。)
父はそれを紛らわすようにいつも仕事ばかりしていた。
毎晩執務室でペンを走らせながら、時折振り子時計の乙女の彫刻をジッと見つめる父を覚えている。
◇◇
それはただの好奇心だった。
僕は父が遠征で居ない日にこっそりと執務室に忍び込んだ。
カチ、コチ、カチ、コチ…
時計の針は優しく、規則正しく時を刻み続ける。
(本当に綺麗な時計だなぁ。)
思わず魅入ってしまう。
その時、乙女の顔のレリーフが何故か僕を見つめて笑っているように感じた。
僕はそっと時計に触れてみる。
すると、不思議とほんのりと温かいような気がしたのだ。
僕は思わず目を見張った。
そして時計に向かって1人、ポツリと呟いた。
「また、来るね。」
――その日から僕は時々父の執務室に訪れるようになった。
学校で少し嫌な事があった日も、期末試験で高得点を取って得意だった日も。
同じ学年に初めて好きな女の子が出来て、どうしたらいいか分からなくなった日も。
本当は父のように騎士を目指していたのに剣の先生に『才能がない。』と言われて泣いた日も。
先生に『宮廷魔導士を目指してみたら』と言われて戸惑いつつ、認められて本当はとても嬉しかった日も。
どうしてかは分からない。
けれど、気づけば僕は時計に話しかけるようになっていた。
「…ねぇ、今日は学校で魔術訓練があったんだ。先生が僕の魔法の術式展開が早くて正確だって褒めてくれたんだ。」
「今日、隣のクラスの女の子がクッキーをくれたんだ。でもその子、僕の友達の好きな子でさ。…何だかちょっと気まずかった。」
「僕、駄目元で宮廷魔導士の試験を受ける事にしたんだ。父さんは驚くかもしれない。でも。…本気で頑張ってみようと思う。」
まるで、話す度に誰かが「わかってるよ」と言ってくれたような気がしたのだ。
勿論、時計が何も答える事がない、ということなんて僕にだってわかっていた。
けれど。
だからこそ、黙って全部受け入れてくれているような気がして。
イライラした日も、ちょっと嬉しかった日も、悲しい事があった日も。
どうしてだろうか。
馬鹿馬鹿しいけれど、この時計に話しかけると、心が落ち着いた。
そっと、時計に触れてみる。
カチ、コチ、カチ、コチ…
秒針の音は何故か心臓の音のような錯覚すらしてくる。
まるで、生きているかのように。
僕はジッと乙女の彫刻を見つめる。すると、少し目元が綻んだような気がした。
(…笑った?まさか。)
そう思いながらも、今にも言葉をかけてきそうに思えた。
(父さんもこんな気持ちでこの時計を見つめていたのだろうか。)
僕は誰にも話すことが出来ず、心の中に抱え込んでいたことを、全てこの時計にだけは話す事が出来た。
「…本当はさ。
子供の頃、母さんに一度でいいから抱きしめて欲しかったんだ。」
カチ、コチ、カチ、コチ…。
時計の針は、ただ黙って優しく時を刻みつづけていた。
僕は人知れず苦笑する。
(…僕の秘密を、誰よりも知っているのは
――きっとこの時計だろうな。)