【肆/ひねもす】
翌朝。
居館の庭で鍛錬をするユキトに気づいて、ナギは起床する。
腐っても鯛ならぬ、忘れていても忍である彼女に、素振りの音が耳障りだったのでは、と。ユキトは慌てて駆け寄った。
「起こしてしまって申し訳ないっ」
「目が覚めただけ、だから」
拙い答えに、ユキトの妄想は膨らむ。
「傷が痛むのかっ?」
「大丈夫。しっかりふさがってる」
程良い風が、ナギの前髪を撫でた。
色素の薄い黄色い瞳に朝日が反射する。
その色合いたるや、とても綺麗だ。
「起きたのは、自分だけ、だ。セイジもイヅナさまも、よく眠っている」
「……」
「ユキト?」
「い、いえっ……。た、体調さえ良ければ、これから出かけませんかっ?」
「……これ、から? 今?」
「えぇ」
*
「ーーーーってことなんで、ユキトとナギは出かけています」
二日酔いのイヅナと朝に弱いセイジは、昼に近い朝食を取りながら、サノスケからの報告を受けていた。
「あのむっつりが、自分からデートに誘うとか」
「私以上に、ここにいたくないのだろう」
「それでもですよ。昔やんちゃだったくせして、女の子とろくに会話もできない、あのユキトがですよー?」
「野暮なことを言ってやるな」
そう噂されている頃、城下にあるもの、ひとつひとつが物珍しいナギは質問を繰り返していた。
鍛冶屋、万屋、馬小屋、呉服屋……初めて見るものばかりだった。心底新しくて、どきどきして、眩しくもあって、不思議でならなかった。
けれど、朝から出かけるユキトとナギに、おにぎりを持たせてくれたサノスケーー『忍』というものに対しては、そういった感情はなく。
「……自分には、無縁なもの、だったんだろうな」
目の前に広がる城下が、より遠くに思えた。
途端に気落ちするナギに気づかないほど、ユキトも鈍くはない。その手を取り、彼なりに言葉をかけた。
「これから共に知っていけたら、俺は嬉しく思うーーーー……というのは、差し出がましいでしょうか……」
尻すぼみになりながら、それでも手は離さない。
「私も、まだまだ無知なことばかりですから」
真っ赤になりながら弁解していると、子どもがユキトにぶちあたった。
「こんなところであいびきすんなよっ」
「じゃまだろっ」
「あ、逢い引きでは……!!」
過剰に反応するユキトを無視して、子どもたちは走り去っていく。その先は広場で、人だかりができていた。
「ユキト、あれは?」
老人を子どもたちが囲う。
「紙芝居屋ですね」
「かみしばい?」
「せっかくなので、私たちも見ていきましょうか」
さては昔。
まだ物の怪蔓延る日ノ本は、鬼に苦しめられておった。
男は硬くて好かぬ。女、子どもを寄越さねば、里を襲うぞ、と。
男たちは力を合わせて戦った。
嫁さんのため、我が子のため。
しかし、鬼は強く、ずる賢く、苛烈に人々を追いつめていった。
そんなある日、ひとりの若者が現れる。
名は、桃太郎。
太古より鬼を避ける『桃』にあやかって、若者は鬼退治に向かうのだった。
ーー貴方だけでは心もとない。私も行こう。
道中、義理堅い犬に出会い、
ーーおまえさんと鬼を退治すれば、儂も一躍できようて!
野心家の猿と、
ーー上空から得られる景色を所望するおまえを、高く評価しよう。
自信家の雉を連れて、いざ鬼ヶ島へ。
ひとりと三匹の連帯は、それは見事なものだった。
俊足を生かした犬が場を攪乱し、猿が挑発役に、それにつられた小鬼たちを雉が上から突き、桃太郎が一網打尽に。
あっという間に、残すは人の何倍もある巨大な鬼のみ。
ーーおい、桃太郎。あいつは独活だ。図体だけの脳筋野郎は、儂たちを軽んじておる。
ーー攻撃は単調かつ短絡。我らに金棒を振り下ろした、その瞬間が好機ぞ。
ーー私が先駆けよう。
鬼は足下をちょろちょろする犬を踏みつぶそうと、片足を上げた。
そこへ雉が視界を覆うように滑空し、猿が叫ぶ。
ーーおまえのかあちゃん、でーべーそー!!
低俗な罵声に、鬼は猿めがけて金棒を振り下ろした。
地響きが、地面を割れるほどの衝撃を間一髪で避ければ、策は成る。
ーー行け、桃太郎!!
地面に突き刺さった金棒に気を取られていた鬼を、一刀両断に。
鬼は倒れ、桃太郎は成し遂げる。
日ノ本に真の平穏をもたらしたのだった。
「ーーめでたし、めでたし」と、語り手が物語を締めくくる。
場面場面を絵で表現することで、子どもを飽きさせるどころか引き込ませる手法に、ナギも夢中になっていた。
「おっちゃん、もう1本!」
「たぬきの話してくれよー!!」
「いっすん、いっすん!」
「今日はこれで終いだあよ。ささ、家さ帰って水汲みのひとつでも手伝いねえ」
まだまだ色んな話があるのだと思うと、ナギのわくわくは止まらない。
帰路につきながら、空を飛ぶ鳥を雉に重ねたり、商人の連れている犬の性格を考えたりと、想像は膨らむばかりだった。
それが『紙芝居』という初めて触れるものであっても、『とにかく面白い』が占めていて、鬱蒼とした気持ちはどこかに行ってしまう。
「亀を助けた男が老人になってしまう、なんて話もありますよ」
「かめ……を、助けたのに?」
ユキトの知るお話は、少し難解だ。
「お礼にと貰った箱を開けてしまったのです」
「……なぜ開けてはいけないもの渡すの?」
「そこは作中に色々あってですね。約束を破ると痛い目を見る、ということを伝えたかったのではないかと。紙芝居は、そういった教訓を子どもにも伝わりやすいようにしたものなんです」
「桃太郎も?」
「あれは、ほんの一部にすぎません。桃太郎の伝承は本来長編なんです。皆の言う〝鬼〟は、この鬼を倒したことで始まったと言われています」
「それは誰もが知っていること?」
「あ、いや……」
「ユキトは博識だな」
ナギの中では〝鬼〟はまだ曖昧なもの。純粋な賞賛でしかないのに、ユキトはあまりいい顔をしなかった。
「……私の一族は、物心がつく頃に全容を教わるんです。故に、『先見の明を持つ』と」
「せんけん?」
「この先、起こりうることを予見できるんです……が、俺には……俺だけには無くて」
兄や姉にはあるのに。
突然の疎外感と劣等感に、元服前のユキトは家を飛び出した。
ーーんだよ。ぶつかってきたのは、そっちだろうが!!
その挙げ句が、イヅナと知らずに喧嘩をふっかけ、返り討ち。性根から叩き直されて、今のユキトがあるのだ。
清廉潔白の身ではない。
でも、ありのままの自分を、ナギには知ってほしくて。
「こんな丁寧な言葉を使うようになったのも、イヅナさまの元に来てからなんです。城下の皆は悪ガキだった頃の俺を知っているので見違えたと、よく」
どこまでも純粋なまなざしに、ユキトは自分の浅ましさを恥じた。
「だから、朝から連れ出すような真似をして、本当にすまない。館にいるであろう父に未だ逢いづらくて、口実にしてしまいました」
金色の瞳がしきりに瞬く。
そこに軽蔑めいたものはなく、どう言葉を返したらいいのか、困惑のほうが大きかった。この日々ですら真新しいナギにとって、ユキトの過去は壮大で、自分が口を挟むべきではないことだ、と。
ただ、下心があったとしても、いろんなことを知れ、とても有意義な時間だったことには変わりはなかった。
「ユキトが気に病むことはない」
セイジのように振る舞うことは、ちょっと難しいけれど。
「わたし、は。とても楽しかった、から。連れ出してくれて、ありがとう」
ぎこちない微笑みを添えて、とにかくその感情が伝われと言葉を発する。それは鉄仮面だったナギが初めて見せた笑顔でもあった。