【壱/昼つ方前】
『鬼、取るに足らず』
桶狭間の奇襲から一夜明け、日ノ本の中部に領地をかまえる甲斐の当主・ツツジの元に文が届いた。
「あのうつけめ。我らが攻めてこないと、高をくくりおって」
「戦国最強の騎馬隊を保持し、越後の龍と讃えられた軍神・ナガオと長きに渡って対峙してきたツツジ公に、なんと無礼な」
居館に集まった家臣が口々に不満を垂れる。
「これ以上ヤツを野放しにしておくことは、甲斐にとっても良くありませぬ」
「今こそ出陣、上洛のときかと」
「早まるでない。この15年、各地の守護に努めてきたのだぞ」
「そうとも。此度もまた駿河をーー」と、意見も真っ二つ。
「上洛したとて、万一に〝鬼〟まで宿した先のことはお考えか?」
ツツジのそばで傍観に徹していた家臣・ムラマサが、挙兵派に質疑した。
「自分はツツジ公を斬らないーーそんなこと、〝鬼〟となれば関係なくなる。ただヒトを殺すことだけに、末代まで囚われ続けるのです。だから、相模や越後も壊滅したのではありませんか。まさか、お忘れになったとでも?」
やいのやいの言っていた挙兵派は、ぐうの音も出ず。
「ーー勝つことは、前提なのだな」
そんなところに、狐のお面をつけた僧兵、もといご隠居のイヅナがやってきた。
「古の軍略がうつけに通じるとでも?」と、ツツジに小石を投げつけ、家臣たちの反感を買う。
「遅れてきた上に、なんたる!!」
「まあまあ。甲斐の僻地から、片腕でおいでになられるのだ。多少のーー」
擁護の声もちらほら。
彼らが言うように、ご隠居にはご隠居たる所以が、右腕が肩からごっそりないのだが……。
小石を投げ、空いた左手には瓢箪が握られていた。
お面を器用にずらして、ぐいっと煽り酒。
さすがに憤慨される。
「限度というものがありましょうぞ、ご隠居!!」
「墓を作っていた。上流から流れてくる仏様をこの初夏に放置するなど、バチ当たりにもほどがあろう」
裾だけではなく、いたるところに泥が付着していた。
「この場で酒をあおって良い理由にはなりませぬぞ!!」
「ええい。かたいことを申すな」
無類の酒好きでもあるイヅナがお面を付けているのは、急な呼び出しの際に赤ら顔を隠すためではないかと、まことしやかに囁かれていたりする。
「これは鉛か?」
イヅナVS家臣(複数)になりかけたところで、ツツジが呟いた。
「ヤツは新しい玩具を手に入れたようだ。これで戦国最強も名折れだな」
鉄砲伝来の噂を確かなものにすれば、当面の方針は従来どおり・自領の防衛ということでまとまった。
解散する家臣の顔は暗い。
「ーーで?」
部屋に残るツツジとムラマサに、イヅナは尋ねた。
「〝鬼〟はどこにいるのだ、懐刀」
「……」
「ふん、どうした。視えぬわけあるまい。おまえのその『先見』、今さら虚言だとーー」
ムラマサは2人に頭を下げた。
「見失い、ました……。〝鬼〟は確かに桶狭間に。しかし、その後が……全く……」
さきほどの威勢のイの字もないムラマサに、イヅナは別の可能性を述べた。
「なぁ、ツツジよ。背後から攻めてこないと知った田舎侍は、易々と上洛を果たし、周囲の領地を落としたそうじゃないか。中でも、近江と越前は苛烈を極めたとか。実妹の嫁ぎ先を根絶やしに、当主アサイの頭蓋骨で茶器を作った、作らなんだ、とかーーーーヤツの猟奇性に〝鬼〟が同調したとは思わんか? あるいは〝鬼〟を屠った者の子の中で眠っているだけ、やも。どちらにしろ、前者の場合なら日ノ本は滅ぶぞ」
「分かってるさ。それぐらい俺にも」
ムラマサが視えない今、動きようがなかった。
下手に出れば、鬼よりも先に鉄砲でやられてしまうだろう。
「だから、そばにいてくれ」
「断る。なにを好き好んで、ひげも満足に剃れん初老のそばにいなければならんのだ」
「美味い酒を用意しよう」
「……」
「あてもある」
「……2日。それ以上は無理だ」
御役目もあるしな、と仕方なくを装うイヅナだが、完全に胃袋を掴まれていた。