【漆/東雲】
永禄25年 6月19日 旧駿河領・長篠にて
尾張領当主・カズサは、その日、三河の地から兵を進めた。
攻めるは、甲斐領。
狙うは、ツツジの首。
ーー鬼をも屠る力、見せてやろう。
かの戦国最強と謳われた騎馬隊も、隊列を成した鉄砲隊と馬防柵に完全停止する。
「ツツジ公、側面の歩兵部隊に増援は見込めないのでしょうか」
正面突破が無理なら、側面から攻めるしか手はない。相手方でも容易に想像でき、そこにいくら兵を投入したところで、消耗戦になるだけだった。
ツツジは動かない。
動きようがないのではなくーー
まわりの家臣が先行きを案じていると、即席の物見から鐘が鳴った。
「単騎掛けだ!」と、同時に本陣に押し入ってくる。
白馬と、見慣れた狐のお面と僧兵の着衣、そして付き人4号のナギに、一同は安堵した。
「ご、ご隠居っ」
長篠の地はヨシトモの家臣が守っており、駿河領を存続させるべく甲斐に協力していた。
不参加のイヅナは長篠城で待機していたのだが、「城の中はつまらん」と。
ご立腹、酒がまずかったーーーーではなく。
「城主の兵たちが城に戻ってきておるぞ。あやつら、補給のためと抜かすが、物資なら南砦のほうが近かろうになぁ」
不穏な動きを察知して、イヅナは一役買う。目には目を、予想外には予想外を。
そのせいで、サノスケがへとへとで本陣に来る羽目となるが。
「なんでっ……城に、いないんですかっ……」
本陣でくつろぐイヅナは、あおっていた瓢箪を掲げた。
「『旨酒求めてぷちょへんざ』」
「『まじ、ぱねぇっす』」
なぞのやりとりを挟みつつ、
「このセイジっぽい確認、意味あります?」
「おまえがサノスケだと確信がもてる。で?」
「いますよ。敵本陣、カズサ公が」
その報せにツツジたちも反応する。
この布陣を引っ張るのは、ヒュウガでも三河の若君でもない。
「ーー戦らしい戦じゃないか」
関心するイヅナは実に楽しそうに。
「ご隠居お待ちくださいっ!!」
まわりが止める間もなく、白馬に跨がり戦場を駆けていってしまう。
「嘘だろ、イヅナ様ぁ!!」
側面にも鉄砲隊はいるのだ。突破するにしても、あまりにも無謀で。現役の頃の血が騒ごうが腕は生えてこないのだと、サノスケはすぐさま後を追った。
ナギを、置いてきぼりにして。
「……なんて緊張感のない」
「あいつらしいな」
ツツジだけは寛大だった。
ご隠居の戯れは戦場をかき回し、別働隊の活路を開く。片腕であっても猛将には変わらない。この人なら鉄砲隊も馬防柵も突破できてしまうんじゃないかと。
そんなカリスマ性のあるイヅナが参戦し、いざ騎馬隊が機能ーーしかけたところで、城から攻められでもすれば、今度は本陣が危なかった。
鬼どうこうの前に、戦に負ける。
動くなら、今。
ツツジもムラマサも、この期を逃さなかった。
ムラマサは長篠城の対処に、ナギを連れて本陣を離れた。黒なら叩く。ナギがいることで、帰城する口実もできた。
「ナギ殿、貴女の俊足を見込んで、伝令を頼みたい」
「わたしに役立てれることがあるなら」
本陣の南側、木々が生い茂る森林を突き進む。
「城の監視役がこの先で待機しているのだ。本来は彼が報せる役目だったんだが……」
別の者が報せた場合の指示はしておらず、どう動いていいか戸惑っているはずだ。
「彼には、城門に先駆け、閉門されないよう手をまわしてほしいのだ。お願いできるだろうか?」
「城門にさきがけ、閉門されないよう手をまわす」
復唱したナギに、ムラマサは大きく頷いた。
「伝え終えたら、貴女はそこで待機を。兵を従えて、すぐ合流するので」
教えてもらった方向へ、ナギは急いだ。
自分と自然だけになると、五感が研ぎ澄まされていくような。風に乗ってくる微量な血、火薬、土の匂いは、南砦の方角から。
今、ここで襲われても、周囲にある物を使えば大いに反撃できる想像が、不思議と容易にできてしまう自分が恐ろしくもあった。
見知った人影を見つけ、手にかける想像が頭を駆けめぐる前に、ナギは声をかけた。
「サノスケ!」
「ん?」
「ムラマサさんからーー」
その続きはサノスケに止められる。薬草が染み込んだ布で口をふさがれ、意識が遠退いていく。
「『戦の際、ナギを連れ出す』から、ここで引き取るよう待ってたんだ」
昨日の男がナギを担いだ。
誰にも見られることも知られることもなく、戦場から消え去った。