【陸/昼つ方】
足の痺れから解放されて、ナギは厠へ赴いた。
その帰り、サノスケを見つける。
「忘れ物?」
イヅナに付いていったはずの彼に声をかければ、すごく驚かれてしまう。
「なにしてんの、はお互いさまでしょ」
そう言いながら、サノスケはナギの左手を後ろ手にひねり、壁に追いやった。首筋に小刀の刃が当たる。少しの抵抗もさせない気だ。
「サノスケっ?」
「――ムオンだって」
薄情にも程があると、ため息混じりに言われるが、知らない名だった。
でも、ナギにはサノスケにしか見えなかった。
激似の域を超えていた。声もサノスケなのだ。
「誰っ?」
「はあ? ……別人、なわけないよな。金眼なんて、どこにでもいるもんじゃないし」
「……わたしを、知ってる?」
「知ってるもなにも――――」
彼の知るナギは、簡単に優位に立てる人物ではなく、演技ができるほど器用な忍でもなかった。
なにより、こんなに喋る、まるで人間のような彼女に、ムオンなりに記憶喪失を理解する。
「桶狭間で死んだって思ってたけど、おまえはこっち側の人間だから」
ここにいるべきではないと、ムオンは連れ去ろうとした。が、近付いてくる慌ただしい足音に、撤退するしかなかった。
ふっと背中が軽くなって、ナギはぺたんと床に両手をつく。
「ナギちゃんっ!!」
現れたのはセイジだった。
「血のニオイがしたから、なにかあったんじゃないかって!!」
「あ、いや……つまずいて、転んでしまっただけ、だから」
ふわっとした嘘にナギ自身もびっくりするが、押さえつけられたときに傷が開いてしまったようで、それ以上の言及よりも止血が優先された。
*
三角巾で吊された、ナギの右腕。
初日よりも手厚く、世話役2人の心配が顕著に。帰館したイヅナは、着替えもそこそこに、道中摘んできた薬草を摩り潰しにかかった。
「銃創に効くか分からんが、なにもせんよりはいいだろうと思ってな」
「あ、りがと、ございます」
酒杯片手に、ナギの傷を見る。
「痛むか?」
「すこし」
「ならいい」
壊死してない、生きている証拠だと。そこへたっぷり、色の白い綺麗な手で薬草を塗りたくる。
頭巾や法衣を脱いだイヅナは、セイジが言っていたように、とてもしなやかな人だ。指通りの良さそうな長髪は、肌よりも淡い。
「湯治といきたいところだが、いかんせん戦が始まるからな」
「確定ですか?」
「あぁ。ヨシトモの従属だったタヌキが、カズサに付いたようでな。そこに兵を集めておる」
ツツジはそれを迎え撃つべく、数日前から準備を始めて、あらまし整ったのが今日――――というのを、イヅナはどこで知り得たのか。
神社がある方向とは真逆な場所の情報に、ユキトとセイジは護衛のサノスケをひと睨み。
「また捕まりでもしたら、今度こそクビじゃね?」
セイジの、本意気の怪訝な眼差しに、サノスケは助けを求めた。
「イヅナ様ぁー……」
ナギの腕に布を巻き終え、酒をあおるイヅナは、自身の行動を説明する。
「今さら挙兵しろと騒ぐやつらが、きな臭くてたまらんかったからな。酒に惚けたふりして近付けば、裏で将軍サマが動いていた。アシカは己の野心のためなら、姑息な手も辞さんようだ」
用心するに越したことはない。
その一環で、サノスケを偵察に行かしたのだ。ツツジやカズサではなく、将軍・アシカの動向を窺うために。
「お前たち、心せよ」
凛としたイヅナの声色に、皆、気が引き締まる。
けれど、
――おまえはこっち側の人間だから。
ナギの頭の片隅には、暗雲がちらつき始めていた。