【陸/日中】
今日はイヅナとサノスケが日帰りで、甲斐と越後の境にある神社の様子を見に出かけていなかった。
酒の調達をしなくて良し。
酒の相手をしなくて良し。
ユキトとセイジは甘味処へ行こうとしたのだが、ナギはあまり乗り気ではないようで、居館内で過ごすことにした。
身の回りのことぐらい、自分たちで。
馬屋の掃除をするため、ナギは井戸に水を汲みに行った。
甘味処に興味がないと言えば、嘘になる。
けれど、昨日の今日で、また騒ぎになるかもしれない、という不安がナギには渦巻いていた。
『胸を張れ』と言われたものの、実際のところ、よく分からない。
四方から注ぐ視線。
水面に映る、黄色い瞳。
なにもかもが鬱陶しくて、勢いよく手桶を持ち上げれば、右手が痺れて中身をぶちまけてしまう。
「ナギちゃんっ!!」
すぐさま駆けつけてくるセイジは顔面蒼白で、わなわな。
「ごめん、こぼしてしまっ……」
「謝ってる場合じゃないって!」
「そう、だな。早く汲み直すよ」
「違うっ、ストップ、すとぉぉぉぉぷ!!」
手桶の持ち手は、ナギの血でべっとり。力んだ拍子に、右肩の銃創が開いてしまっていた。
「俺、またイヅナさんにゲンコツもらうんじゃね?」
「もらえばよいのでは」
「ちょっとぉ、ユキトくーん、冷たくねー?」
深く焼けただれた傷口は、なかなか治らないようだ。
ユキトが止血を、セイジが布を。2人がかりで手当てをしてもらい、ナギは絶対安静を余儀なくされる。
「掃除は俺に任せてよ。ナギちゃんは、ユキトせんせーに読み書き教えてもらいな?」
「でもっ」
「読み書きだって立派なお勤めですよ」
「あ、じっとしてるの苦手なタイプ?」
「わからない、けどっ」
「じゃあ、チャレンジ☆チャレンジー♪ ユキトー、あとはよろしくぅ」
「承知仕りました」
とにかくやってみよう、という意味合いの強い言葉で押し通され、ユキトの指導の元、読み書きを開始する。
「ナギの由来でもある、凪の字を書いてみましょうか」
「なぎのじ……」
帯に差している小刀を見つめるが、ナギのしかめっ面がより険しくなるだけ。
「なら、この字は読めますか?」
ユキトが筆を執る。
「きょう、だ」
「では、これは?」
「……こうが?」
「甲斐と読みます。こちらはどうでしょう」
ユキトの書いた字を食い入るように見つめるが、お伽噺の『桃太郎』はピンとこないようだ。
うっすら読めて、まったく書けない。
ナギの識字具合を把握したユキトは、まず筆の持ち方を教えた。
「筆は手のひらで握るのではなく、指先で……」
言われた通りにするが、力配分がうまくいかず、ぷるぷると震える筆先から墨が落ちる。
利き手が違うのかと握りなおせば、どことなく不格好な上、違和感。
…………。
考えた結果、ユキトが後ろにまわり、ナギの手をやんわり握って、補助を。
ちょっと過剰な気もするが、腕に負担をかけないためだと割り切る、言い聞かす、心を無にするユキトがいた。
「……大丈夫?」
「問題ない、いつものことだっ……」
平然を装うも、忙しない鼓動はどうにもならず。ナギはそれを背で感じながら、手習い歌をなぞった。
いろ波耳本へ止。
とめ、はらい、を意識するようになって、漢字っぽくなってくる。
――読み書きなんてできなくても生きていけんだろ!!
――たわけ。
――痛ぇ!!
――できるに越したことなかろう。
墨の加減、筆圧……字を書く、と偏にいっても、考慮すべきことがたくさんあって。それでいて出来の悪い、ミミズが這ったような字を書いたことの羞恥心で、ユキトはイヅナにキレ散らかしたことがあった。
それに比べればナギは根気強く向き合っているほうだと、感心が勝る。
うるさかった鼓動も落ち着きつつあった、のもつかの間。
厠休憩のために立ち上がったナギに、足の痺れが襲う。いつもは胡座を組んでいる彼女も、今日は正座。経験したことのない痺れに、壮大に転びそうになったのだ。
ユキトは慌てて支えるが、真っ正面から受け止めてしまったばかりに、腰が砕けた。ナギが押し倒すような形となり、けれど退かすわけにもいかず。
「ごめん、ユキト。足に力が」
「ーー気にすんなっ。傷はっ……開いてねぇなっ……?」
丁寧な言葉遣いすらままならなくなったユキトは素に戻った。
「近いな」
「そりゃ、そうだろっ……」
「ほんとのユキトみたい」
「どっちも俺なんだよっ」
猫をかぶっているつもりはない。
イヅナの世話役として弁えてるだけであって。
「そっか。わたしは、今のユキトが好きだ」
「ちょっと黙ってろっ……!!」
次から次へと真っ直ぐに送られる言葉に、ユキトの心臓は持ちこたえられそうになかった。