【発端】
永禄25年 6月12日 桶狭間にて
雨上がりの尾張領の山道を、駿河領の兵が闊歩する。
その数、2万5千。
兵力の劣る尾張は、濃霧にまぎれて奇襲をしかけたーーーー。
……。
そのはずが、肝心の兵士たちが見当たらない。
本陣は当主のカズサが。要所々々の部隊を家臣たちが。その先駆けを担うヒュウガは、奇襲失敗かと身構えた。
あたりは真っ白だ。
人の気配は、ある。
かすかな息遣いだけが聞こえて、足音ひとつない。
2万5千の兵が動いているというのに。静かすぎる。
「おっとぉ!?」
ぬかるんだ地面に足をとられた家臣のトウキチが、ヒュウガの横で派手に転んだ。
やけに鉄臭い泥が大いに跳ねてくる。
「トウキチ殿、大丈夫か?」と、ヒュウガは手を差し伸べた。
「へへっ。すまねえなぁ、ヒュウガの旦ーーッ!!」
緊張感のなかったトウキチの声色が、悲鳴めいたものに変わる。泥にまみれた自身の手に驚愕して。ぬかるんだ地面ではなく、躓いたモノに対して。
同時に、霧が晴れていく。
視界が開けていけばいくほど、ヒュウガたちは目を疑った。
自軍のざわめきも大きくなる。
季節は初夏。
なのに、桜が一面に咲き乱れている。
淡い桃色の花びらが舞い、その幹に寄りかかる駿河の兵士たち。
しかし、彼らは襲ってこない。
否。
襲って、こられなかった。
いたるところに転がる部位。
脚や腕のない者。
頸動脈を斬られた者。
深手を負う彼らは、すでに虫の息だった。
おびただしい量の血が絶えず流れ、雨よりも粘着質な泥濘がヒュウガたちの足にまとわりついてくる。
確かな地獄絵図なのに、この凄惨な場面に不釣り合いな、咲き乱れた桜が非現実感を誘う。
ーー奇襲は失敗し、すでに黄泉送りになっているのではないか、と。
そんな幻想から、静かに現実に引き戻される。生首を小脇に抱え、火縄銃を携帯する男に。
「これが、鬼、か」
関心しているのか、そうでないのか。死屍累々を横目に鼻で笑う彼こそが、尾張領の当主カズサだ。うつけと揶揄されようが我が道を行く男に、戸惑いの色はなかった。