バイト仲間に告白されたら、幼馴染が急に距離を詰めてくる。
「俺、椎名さんのことが好きです。付き合ってもらえませんか」
菜乃花はその日、バイト仲間に告白された。学校から2駅離れている大きな本屋で高校に入ってすぐバイトを始め、そろそろ半年。目の前の彼は菜乃花とは別の高校に通っており、同時期にバイトを始めたことと同い年であることから少しずつ話すようになった。男子と話す機会があまりなく、緊張しやすい菜乃花だったが彼は柔和な雰囲気を纏い話し方も穏やかで、威圧感というものがなかった。人見知り気味の菜乃花が普通に話すようになるまで時間はかからなかったのだ。
菜乃花としては貴重な男友達という印象だったが、彼は違ったようだ。真剣な顔、眼差し、全てが冗談ではなく本気だと伝わってくる。男子から告白されるのは初めてだ。そして彼は顔立ちが整っている、イケメンに分類される人間だ。その上物腰柔らかで性格も良い。平々凡々を地で行っている菜乃花には勿体なさすぎる人である。普通なら断らないであろう。しかし。
「…ごめんなさい。私好きな人いるから…高橋君とは付き合えません」
頭を下げて断りの言葉を口にする。やがて頭を上げた菜乃花が見たのは男子…高橋のショックを受けた顔だった。
「…好きな人、いるんだ」
「…うん」
「どんな人か、聞いても良い?」
「どんな人…雲の上の人、かな」
少し考えた菜乃花の口から発せられた言葉に高橋が怪訝な顔をする。菜乃花は詳しく説明した。
「知り合いなんだけどね、格好良くていつも人に囲まれてる人気者なんだ。私なんて片思いすることすら烏滸がましい相手なんだよ」
高橋は菜乃花がその相手に告白すらする気がないと察して、気遣わし気な視線を向けてくる。が、そのことに関しては触れなかった。言葉を飲み込んだ高橋は敢えて明るく笑いかける。
「…そっか。ごめんね色々聞いて」
「ううん」
「それと、ありがとう。ハッキリ振ってくれて」
そう告げると高橋は「じゃあ、またバイトで」とこの場から去って行った。残された菜乃花は高橋の後ろ姿をずっと見ていた。
次の日、登校した菜乃花は友人の桜と話している時、ふと彼女に尋ねられた。
「菜乃花、何かあった?」
「え?なんで?」
「いや、何となく浮かない顔してるからさ」
桜とは中学からの付き合いだ、流石に彼女の目は誤魔化せないらしい。言うつもりはなかったが、このまま隠していても桜は納得しない。菜乃花は小声で言う。
「実は…」
「え?バイト仲間から告白された?」
微妙に大きな声で桜が言うので菜乃花は慌てた。
「声が大きい!」
「あ、ごめん。でもこの程度の声聞こえないよ、クラスうるさいし」
ほら、と桜は窓側を見るように目で促す。視線の先には机に座る1人の男子を囲むように男女5人が賑やかに話している。彼らに口々に話しかけられている男子は話を聞いているんだが、聞いてないのか分からない無表情で頬杖をついた窓の外を見ていた。周囲の喧騒など、知ったことでは無いと言わんばかりに自分の世界に入っている。相変わらずだな、と菜乃花は思った。
「まあ、確かに聞こえなさそう」
「でしょ?気にしなくて良いよ。で、告白されてどうしたのよ」
「どうしたって、断ったよ」
「えー、何で?その人ってバイト先で良く話す人でしょ?結構カッコいいって言ってたじゃん」
桜にはバイトのことも高橋のことも話していた。だから菜乃花が高橋に対し好印象を抱いていたことも知っている。だからこそ、断った理由が分からないのだ。
「…好きな人いるから」
そう告げると桜は驚きを露わにした後、呆れたように息を吐いた。
「…好きな人って彼でしょ」
桜の視線は再び窓際に向かう。菜乃花の好きな人へと。
「確か小学校一緒で、それからずっとだっけ」
これは嘘。桜とはいえ彼との関係性を知られる訳にはいかない。心苦しいが仕方ないことだ。
「彼はねぇ、高嶺の花過ぎるし。菜乃花も可愛いけど、レベルが違い過ぎる」
桜は優しいからハッキリ「釣り合わない」とは言わない。だからやんわりと忠告してくれる。
「分かってるよ、でも…諦められないんだよ」
「それなら尚更、例の男子の告白受ければ良かったのに。引き摺るより別の相手見るのも一つの手だよ」
桜の言い分も一理ある。望みのない片思いを延々続けるよりずっと良い。碌に話したこともない男ならまだしも、普段から話す間柄なら断る理由はない。高橋と付き合ったら、毎日楽しく過ごせただろう。それでも…。
「…好きな人がいる状態で付き合うなんて、不誠実な真似出来ないよ」
「真面目だねー」
「…正直、ほんのちょっぴり断ったの後悔した」
「したんだ」
本心を暴露した菜乃花に桜は呆れたように呟く。
「だって、告白されるなんてこの先2度とないかもしれないんだよ」
菜乃花は自分の容姿を良く理解している。そんな菜乃花に告白した高橋を物好きとまでは言わないが「変わった趣味の持ち主」だと思っている。菜乃花の人生で相手の方から告白されるなんて、一生に一度あるかどうかの事件なのであった。
「そんな大袈裟な、てか『不誠実な真似出来ないキリッ』って言った側から撤回するな」
高橋の告白を保留することなく断ってしまったことを後悔している素振りを見せる菜乃花。勿体無いことをしたー、とやや冗談混じりで嘆く菜乃花をじっと見ている者がいることに、誰も気づかなかった。
その日の放課後、菜乃花は真っ直ぐ帰路についた。バイトは週3なので今日は休み、基本的にインドア派なので友人との約束もないのである。菜乃花が住んでいるのはごく普通のマンションで、鍵を開けて部屋の中に入る。菜乃花の父親は単身赴任、母も仕事で毎日遅いため基本的に菜乃花は1人である。
菜乃花が帰ってからやることは母と自分の分の夕飯を作ることだが、手の込んだものは作れないしバイトがある場合はスーパーの惣菜で済ませていた。今日はバイトが無かったから何か作るつもりだが、まだ時間が早いので取り敢えず自室で着替え、その後リビングのソファーに寝転がった。
サブスクで映画を見始めて1時間、時間は18時近くになっている。お腹も空いて来たことだし、何か作るかと重い腰を上げようとしたらインターホンが鳴る。
「誰だろ、宅配便?」
菜乃花に覚えはないが母の荷物かもしれない。玄関に向かい、「今開けまーす」と何の警戒もなくドアを開けた。
「…ん?」
ドアの先には宅配便の配達人ではなく、紙袋を持った若い男が立っていた。菜乃花が見上げるほど背が高く、まるで彫刻を思わせるほどの整った顔立ちをしている。男は紙袋を掲げると、こう言った。
「…菜乃花もう夕飯食った?」
クラスメートであり、常に人に囲まれている人気者であり…菜乃花の片思いの相手でもある幼馴染がフラットな態度で話しかけて来たのである。
「…食べてないけど」
「そう、今日作り過ぎたからさ。お前も手伝えよ、おばさんの分もあるから」
幼馴染…高峰睦月はごく自然な流れで、菜乃花が呆気に取られてる間に部屋の中に入って行った。久しぶりのはずなのに遠慮するそぶりは全くなく、そのままリビングへと直行した。
(…え?何で?)
ラインでのやり取り以外碌な交流の無かった幼馴染の突然の訪問に、菜乃花は呆気に取られていた。
睦月は菜乃花が保育園に通ってた頃、隣の部屋に引っ越して来た。当時から睦月は美しい容姿で目立っていたものの、人見知り気味で表情に乏しい子供だった。そんな睦月に菜乃花は自分も人見知りの癖に、通じるものを見つけたのか積極的に話しかけていつの間にか仲良くなっていった。
しかし、睦月が成長し女子のみならず男子の視線も集めるようになって来るとまとわりつく菜乃花の存在が快く思われるわけが無い。冗談抜きで身の危険を感じたり、直接忠告されたことがあったことからやんわりと睦月と表立って交流することは無くなった。とはいえ没交渉になった訳ではない。ラインではやり取りをしている。2人の関係は当然ながら学校では伏せていた。知られた日には誇張ではなく命の危険に晒されるからである、菜乃花が。睦月はとにかく女子に人気がある。どんな美人の告白も断っており、それでも人気が衰える気配は全くない睦月に自分のような幼馴染がいることが知られたら騒ぎになってしまう。こんなにも住む世界が違う男と幼馴染であること自体、何かの間違いではないかと今でも疑うことがある。
そんな睦月とは互いの近況を報告していたものの、直接話すことは久しぶりなのである。久しぶりのはずなのに、前日も会っていたかのような自然な雰囲気で睦月はやって来た。
菜乃花の頭の中には疑問符ばかり浮かんでいたが、取り敢えずリビングへと向かった。
睦月は紙袋からタッパーを3つ取り出し、「米炊いてる?」と菜乃花に聞いて来た。
「まだ、だけど」
「分かった」
短く答えると「キッチン使うぞ」と睦月はやはり当たり前のようにキッチンへと行き、手際良く準備していった。米が炊けると持ってきた料理をテーブルに並べていく。
睦月が持って来たのは野菜炒めと肉団子だった。健康的で美味しそう、と涎が出そうになるのを堪える。彼の両親も仕事人間、というか仕事に生きている人達で菜乃花ですら碌に顔を見たことがない。中学までは家政婦を雇い、高校からは全て1人でやるようになったと聞いているが、ここまで料理が上手いのは初めて知った。
「すごく美味しそう…」
「冷めるから早く食え」
睦月は茶碗を渡すとぶっきらぼうに言い放つ。しかし頬がほのかに緩んでるのを見逃さない。褒められて嬉しいのだろう。せっかく温め直したのだから、と菜乃花は早速食べ始めた。
(…うま)
肉団子は外はカリっとしていて中はフワッとしてジューシーで甘酢の餡に良く合う。野菜炒めは塩味だが濃すぎず、キャベツの甘みを引き立ててくれてご飯が進む。
「美味しいよ、睦月こんなに料理上手くなったんだ」
「田中さんが色々教えてくれたんだよ」
田中さんとは高峰家に長年通っていた家政婦だ。子供の頃、睦月の家に行くと彼女が大体居た。睦月の両親が家のことと彼の世話を頼むために雇ったようで、菜乃花は最初彼女のことを睦月の親戚か何かだと勘違いしていた。正直睦月の親より田中さんの顔を見た回数の方が圧倒的に多い。
「田中さんて高校入る前に辞めたよね」
「あの人も年だったからな」
辞める前、既に交流もほぼ無かった菜乃花に態々挨拶に来る義理難い人だった。睦月が何処か寂しそうに見えるのは気のせいではない。
菜乃花は特に言葉をかけることはなく料理に舌鼓を打ち、ご飯はお代わりした。
何かもやってもらったので片付けは菜乃花が引き受けた。母の分の料理を皿に盛りタッパーも洗って睦月に返す。しかし、受け取った睦月はまたソファーに座りテレビを見始めた。
(帰らないの?)
菜乃花は別に帰って欲しい訳ではないが、余った料理をお裾分けして食べると言う目的を達した彼がここに残る理由が分からない。かといって聞く勇気もないので、菜乃花は黙ってソファーに座った。
20時を過ぎると母が帰って来た。リビングに入って来た母はソファーに座る睦月を見て驚いている。
「あら、睦月君?」
「お久しぶりです」
「本当久しぶりね、ちょっと見ない間にすっかり格好良くなっちゃって」
母は久々に会う睦月にテンションが上がっている。完全に親戚のおばさんのテンションであり、若干鬱陶しい。当の睦月が嫌がっていないのが救いだ。母はテーブルの上に置かれた甘酢餡の肉団子と野菜炒めの存在に気づく。
「あのテーブルに置かれてるの、菜乃花、が作ったにしては手が込んでるし…もしかして睦月君が作ったの」
睦月は照れ臭そうにしながら「…はい」と答えた。
「すごく美味しそう、睦月君料理上手ね。あれ私の分?」
「はい、今日作り過ぎたので。俺と菜乃花はさっき食べました」
「菜乃花と私の分まで、態々ありがとうね。もうお腹ペコペコなのよー」
母は着替えるために自室に戻って行った。10分くらいすると戻って自分でご飯を盛ったり準備をする。母も菜乃花と同じく睦月の料理にご満悦だ。菜乃花はカレーとか煮込み料理とか、そういったものしか作らないし母と平日は手の込んだものは作らないので尚更である。
「睦月君、料理は独学?それとも田中さん?」
「田中さんに教わりました。料理は出来ておいた方が良いと」
「田中さん流石ね…あの人確か辞められたのよね」
「はい、高齢なことと息子さん夫婦と同居することになったとかで」
「そういう理由なら、仕方ないわね」
母はそれから黙々と食べ進め、「美味しかったわ〜」と満足気に笑うと真剣な顔で睦月の顔を見る。
「睦月君、普段夕飯は1人で食べてるの?」
「そうですね」
「ご両親は相変わらずお忙しい?」
「…だと思いますよ、荷物は取りに帰って来てるけど顔合わせることほぼ無いんで」
母が睦月の両親について語る時昔から妙に語気が強い。睦月も自分の両親についての話題が出る時、声に諦念の感情が透けて見えている。菜乃花も何となく察しているが、口に出したことはない。
「偶に友達とご飯食べてくることもあるけど、菜乃花も基本的に1人なのよ。睦月君さえ良ければ夕飯うちで一緒に食べない?」
とんでもないことを言い出した母に菜乃花は思わず立ち上がる。
「ちょっと、お母さん勝手に」
「勿論断っても構わないわ。1人より2人で食べた方が寂しくないかなっていう私のお節介だから」
そうは言っても、幼い頃から知っている菜乃花の母に勧められれば睦月の立場からは断りづらいだろう。菜乃花としてはやや疎遠気味だった睦月と関わる機会が出来て僥倖ではあるが、睦月は偶々料理を分けに来てくれただけだ。なのにこれからも菜乃花と夕食を一緒に摂るなんて、迷惑ではないか。
「俺は良いんですけど…菜乃花の意思も聞かないと」
菜乃花が内心緊張していると、拍子抜けするほどあっさりと睦月は母の提案を承諾した。衝撃で固まる菜乃花に母が「菜乃花はどう?睦月君は良いって言ってるけど?」と尋ねてくる。母は菜乃花が睦月に片想いしていることを察しているので、今回の件は母なりにお膳立てしてくれているのだろう。
ありがたいという気持ちと、余計なことをという気持ちが菜乃花の中で葛藤している。展開が早すぎてついていくのがやっとである。しかし、菜乃花は自分が思ってる以上に欲望に忠実だった。
「私も…別に…良いけど」
しかし妙なプライドが働いて、「睦月が良いって言うのなら」と自分はそこまで乗り気ではないという態度を取ってしまった。感じが悪い、と後悔するももう遅い。母は変に意地を張る菜乃花に呆れた眼差しを向けて来たものの、睦月の前で触れることはなかった。
こうして何故か、睦月と夕食を一緒に摂ることが決まった。夕飯作りは日によって分担するのかと思いきや、睦月は自分が作ると言い出す。曰くバイトも部活もやってなくて暇、料理が趣味みたいなものだから是非、と。母は流石にそれは、と難色を示したものの睦月と菜乃花の料理の腕の差は一目瞭然。
話し合った結果、食材費プラス手間賃(バイト代)を払うと母は提案したが睦月がバイト代はもらえないと固辞した。睦月は中々に頑固なので最終的に折れたのは母の方。食材費だけ払い、礼として睦月が好きな食べ物を渡すという方向に決まった。そしえ、用事があって夕飯がいらない場合は必ず連絡することも約束した。
昨日までの自分に言っても決して信じないだろう。睦月と夕飯を一緒に食べることになった、なんて。菜乃花は当事者なのに何処か他人事のように考えていた。だが、次の日の午前中、睦月から「今日何食いたい」というラインが届いたことから、夢ではなく現実だとやっと自覚したのだ。急に何が食べたい、と聞かれると悩むものだがそれと同時に高揚感を感じている。
(美味しい料理食べられる上に睦月と一緒なんて)
告白されたことといい、菜乃花に運が向き始めているとしか思えない。菜乃花はスマホを手に取って、気づかれないように教室でヤニヤしていた。
菜乃花は正直料理が苦手だった。しかし毎日惣菜、コンビニものというのは健康に悪いしお金も馬鹿にならない。メニューを考えるのも簡単ではない。母の提案はまさに渡りに船であった。
何故睦月が母の提案を受けたのか菜乃花には分からない。もしかしたら1人で食事を摂るのに飽きてしまったとか、1度作ったらそればかり食べないといけないのが面倒になったとか色々理由は思いつくが、根っこが意気地無しな菜乃花に聞く勇気はない。そんな勇気があればとっくに玉砕覚悟で告白している。
夢のような状況になったからといって、菜乃花は睦月との距離を縮めようと行動は起こさない。時間になると睦月がやって来て、料理を作り一緒に食べてすぐ帰ることもあれば勉強をしたりテレビを見たりして時間を潰す。それだけだ。
「菜乃花、これ面白い?」
「いや、あんまり」
「なら映画でも見ようぜ」
「いいよ」
ソファーに座り、こんな会話をする。この時間が菜乃花にとっては心地良い。血迷って告白なんてした日には、この時間は一瞬で壊れてしまう。睦月だって告白して来た奴と食事をするなんて気まずいに決まっている。だから、菜乃花は何もしない。現状維持を望んでいる。いつか睦月に恋人が出来たら、優先したい事が出来ればこの関係も終わるのだ。期限付きの幸福を菜乃花は味わっていたい。
と、思っていたのに。
「俺、菜乃花のことが好きなんだけど」
それは睦月と夕食を摂り始めてから1ヶ月ほど経った頃。食事を終え、片付けをしダラダラとリビングでくつろいでいる時のことだった。
「ふーん…ん?今なんて?」
菜乃花は耳を疑い、睦月の方を勢いよく向いて聞き返す。全く、そんな雰囲気は微塵もなかった。いつものようにテレビを見て、時折言葉を交わす。菜乃花は今さら睦月に良く見られようという気はなかった。はなから諦めていたとも言える。それでもそこそこ可愛い部屋着を着て、化粧も必要最低限はしていた。しかし、大凡告白されるのに相応しい雰囲気ではない。
「お前のこと、好きって言った」
「好き…??」
「言っとくけど、友達としてじゃねぇ。女として好きって意味だからな」
頭の上にハテナマークを浮かべて動揺している菜乃花に睦月は容赦無く逃げ道を塞いでくる。
(なる程…いやなんで?)
睦月の性格上、こちらを揶揄うための冗談を言った線はほぼ無い。告白が嘘でないことは信じざるを得ない。それはそれとして、何故今なのか。繰り返すが全くそんな雰囲気はなかったのである。話についていくのに精一杯な菜乃花は、困惑を滲ませながら諸悪の根源に尋ねた。
「…なんで今言う…?」
「おばさん今日飲み会で、日付変わるまで帰って来ないだろ。丁度良いタイミングだと思ったんだ」
睦月の言う通り今日母は飲み会で居ない。だからいつ母が帰って来るのか、ソワソワする必要がない。別にやましいことはしてないが、親の目を気にするのは当然である。確かにタイミングとしては最適ではあるが。菜乃花は訝しげな眼差しで睦月を見た。
「…あんた、私のこと好きなの?」
「おい、人の告白疑うんじゃねぇ」
「いや、全くそんな素振りなかったし」
「下心なかったら飯届けにこねぇよ」
「ん?あれ偶々じゃないの」
「態とだよ。悠長にしてたらヤベェって危機感覚えたんだ」
「だから何で?」
「…バイト先の背が高くて話しやすい、温厚な男に告られたんだろ」
「へ?」
何故それを知っている。唯一知っている桜が言いふらすとは考えられない。残る可能性は、あの日の会話に聞き耳を立てていたということだ。
(周りの人の話は聞いてない癖に、何で私の話は聞こえてんのよ)
地獄耳かコイツは、と菜乃花は少し引いた。そんな菜乃花を尻目に睦月は語る。
「断ったけど、少し後悔してるって言ってたし気が変わったらその男と付き合うかもしれない。それに、そいつ以外に菜乃花に懸想する奴が出て来ると思ったらいても立ってもいられなくなった。だから無理矢理、きっかけ作ったんだ」
「付き合わないよ、一度断ってるんだから」
振った癖に気が変わったと、交際を迫るような恥知らずで無神経な真似はしない。高橋にも失礼である。だが、あの日ポロッと口にした言葉を睦月は酷く気にしていたのだ。それがあの日に繋がるのである。睦月はススス、と急に距離を詰めてくると手を握った。
「好きな人いるの知ってるけど、諦められない。そいつのこと忘れなくても良いから、俺と付き合って」
睦月は菜乃花に好きな人がいると思い込んでおり、切な気な瞳で懇願するように見つめて来る。見たことのない睦月の熱っぽい表情に菜乃花の心臓は高鳴った。
「…好きな人って…睦月のことだけど」
「…マジ?」
恥じらいながら告げられた菜乃花の言葉に睦月は目を丸くした。菜乃花が気づかなかったように睦月も気づかなかったのだ。
「…私も睦月のこと、好きだから」
あんなにビビっていた癖に睦月の気持ちを知ってしまうと、あっさりと口をつく。言った、言ってしまった。まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。今の菜乃花はとても浮ついている。そしてそれは睦月も同じだった。睦月はゆっくりと顔を近づけて来る。女より綺麗な肌、長いまつ毛に涼し気な目元。圧倒的な美が眼前に迫った。
唇が重なったのは当然の流れだった。菜乃花にとってのファーストキスだ。ふわふわとした幸せな気持ちになっていく。体感1分ほど、重なった唇が名残惜しそうに離れて…。
(…っ!!!)
いかなかった。ぬるりと睦月の舌が入って来た。突然のことに驚き唇を離そうとするが、後頭部に睦月の手が回ってきて抑えられる。そこから先はされるがままだ。口の中を生き物みたいに舌が動き回り、菜乃花の呼吸と正常な思考を奪っていく。
(…おい!手加減して!)
(あ?無理に決まってんだろ)
と、2人は目だけで会話しつつもキスを辞めることはなく。やっと菜乃花が解放されていた時には息も絶え絶えだったが、睦月の目は妙にギラついていた。そんな睦月はグッタリしている菜乃花の手を取り…耳元で何かを囁く。菜乃花は顔を真っ赤にするが、満更でもなさそうな素振りを見せる。
そして…
************
(…やっちゃった…)
目を覚ました菜乃花は薄暗い自室のベッドに居た。裸で。隣には当然のように睦月が気持ちよさそうに寝ている。彼も裸で布団から引き締まった身体が見えており、散々見たのにドキッとしてしまう。
睦月は用意周到に準備をしていた。計画的だ。母の不在時に告白し、そういう雰囲気に持っていったのだ。菜乃花が睦月のことを何とも思ってなければ使うことはなかっただろう。
盛り上がって、あれよあれよという間にこういうことになった。睦月は当然菜乃花の意思を確認したし、無理強いはなかった。菜乃花も後悔はしていない。しかし恥ずかしいものは恥ずかしいので、モゾモゾと布団に潜る。その時隣で寝ている睦月が動いた。
「…ん?菜乃花起きた?」
寝起き特有の掠れた色気を孕んだ声が鼓膜を擽る。さっきの睦月を否応なく思い出してしまいそうになり、誤魔化すために素っ気なく答えた。
「さっき起きた」
「ふーん、今何時?」
「…多分2時くらい?」
「…まだ寝れる」
睦月は徐に菜乃花に抱きついて来た。当然菜乃花は驚き、腕から逃れようとする。しかし睦月は許してはくれない。腕の中に閉じ込められ、そして身体に触れる手つきが怪しい。
「ちょっと、くっつきす…どこ触って…!」
「くっついたって、どこ触ったって良いだろ。付き合ってるんだから」
「…付き合ってるの、私達?」
付き合って欲しいと言われたが、答える前に部屋に引っ張り込まれた。しかし、お互い好き同士でやることやったなら、付き合っているといって差し支えないだろう。だが睦月の視線が急に鋭くなっていき、菜乃花は困惑した。
「…何?俺の童貞奪っておいてヤリ捨てようってか?そうはいかねぇぞ」
「いや奪われたの私のほ…童貞?睦月が?」
衝撃的な言葉に菜乃花は目を瞬かせた。睦月はあっけらかんと答える。
「童貞に決まってるだろ、ずっとお前のこと好きだったんだから」
「その顔で?」
「顔関係ないだろ」
ごもっともである。そして時間差で「ずっと好きだった」と告げられたことがじわじわと菜乃花に効いてきて、茹蛸みたいに顔を真っ赤にして布団に顔を隠した。だが睦月は許してくれず「恥ずかしがってる顔が見たい」と無理矢理布団を引っ剥がされて散々な思いをした。
どうやら睦月は出会った時から菜乃花のことが好きだったようで、長年片思いを拗らせていたらしい。そして晴れて両思いになると、嫉妬深く執着心が強い本性を隠そうとしなくなり、菜乃花は結構苦労することになるのだった。