第六二話 秋と冬
廃坑の奥深く、歴史から忘れ去られた場所。
過去の遺物。
そこに、まだアザゼルはいる。
彼が誰かに話しかける。
「神話は歴史を具象化したもの、だが、そこに真理が見え隠れもしている。大勢が信じてしまう、伝説やお伽話といった空想は、より濃く真理を語っているものだ」
フランシス准尉は、無垢な魂たちに囲われたまま。白いお餅に取り囲まれた様は、保育士に群がる園児のようにも見える。
フランシス准尉が、動こうとすると無垢な魂たちが、じゃれつき邪魔をしていた。
裏法師たちは機器をいじっている。
何かの実験? を観測するような動き。
アザゼルの横にノアが指差した。
その方向に、囚人服とも検査着ともとれる服装の青年。
アザゼルが『園エデンの純粋な魂アストライア、クロノノートの遺物……そして、狼男ワーウルフのなりそこね。憐あわれな失敗作』と称する『白狼』だ。
白狼の眼はうつろ。
そして、アザゼルは、大きく目を見開く。
「無限の彼方、絶対零度はすぐそこだ。伝説の再現で事象の地平線が姿を現すぞ! 見逃すな! 記録しろ!」
アザゼルは歓喜し、両手を天高く突き上げた。
彼の周りに広がる影は深く黒い……
その奧の、ずっと奥から、足音がフランシス准尉には聞こえるような気がした。
クロノノート真教の裏法師、筆頭、
アザゼル。
彼は、現実と幻覚の狭間に住んでいる。
喜びの感情。
それは苦痛の裏返し。
真実の神を求めた日々とその記憶……
──秋の陽射し。
柔らかな陽の光が公園を照らす。
滑り台で遊ぶ子供たち。
ブランコが子供を乗せて大きく揺れた。
すぐそばには、父と母が並んでいる。
休日の穏やかな昼下がり、公園は親子で賑わい笑顔が溢れる。
アザゼルは研究室にいた。
あの日、以来ずっと……
鉄の扉を助手が叩く。
食事が乗ったトレー。
それは、片手で器用に運ぶ。
「……あの」
助手が研究室に入る。
暗い。
ひたすらに黒が支配する部屋。
研究室に置かれたデスク。
そこにあるスタンドライト。
その明かりがスポットライトのようにアザゼルの白衣の背中を浮かび上がらせている。
「食事を置いて置きます」
正しくは、食事の交換。
朝食は手をつけられていなかった。
「珈琲……いや、なんでもいい、飲み物をくれ」
アザゼルの背中が言った。
助手が水の入ったコップを持っていった。
アザゼルは、ただ、
「置いといてくれ」
と言う。
書類で埋まったデスク。
文字は、音声かキーボードで入力する時代。
アザゼルは、骨董品とも言えるボールペンを仕切りに紙に走らせている。
トントンという音。
助手は察した。
そこにコップを置けということだ。
電子機器のない研究室。
アザゼルは、そこにこもっている。
研究室の扉が閉められた。
まだ身体を持たない人工知能のノアは、地下室に厳重に閉じ込められていた。
クローンを作ることは技術的に可能だ。
それは、脳でさえも……僅かな遺伝子情報があれば……
ボールペンを走らせる手が止まる。
銀の指輪が光を反射した。
記憶の再生は?
性格や個性……それに感情……
絶対に無理だ。
なぜなら、人の心は、神の不可侵領域だからだ。
アザゼルは、ふと狼と吸血鬼の話を思い出した。
ボールペンを置く。
両手を上げ、大きく背伸びをする。
そして、首元を触る。
彼の子ども、ノアを肩車した場所。
風呂に入っていない素肌は、ぬめっとしていた。
そのまま、手のひらを頬に置く。
「吸血鬼と狼男か……」
彼は、目をつむる。すると、愛する者たちの姿が鮮やかに蘇った。
「不死……」
彼は、ボールペンを握る。
永遠は存在しえない。
なぜなら、宇宙に終わりがあるからだ。
なら、時間の外に立つ存在ならどうか?
物理学は、その存在を否定する。
だが、物理学の届かない、無限の彼方、事象の地平線に、その手がかりがあるのではないかと彼は考えた。
そして、全能に至るためには、全知が必須なのだと悟る。
部屋の影は濃く暗い。
アザゼルの幻覚は余韻。
無垢な魂たちにとっては、周知のつまらない記憶。
彼らの新しい玩具は、ミカエルだった。
彼女の強靭な精神力は、まるで超合金の玩具のように興味をそそられる。
頑丈で壊れない玩具。
硬い壁に何度、ぶつけても壁の方が傷つくほど頑丈。
ならば、もっと高い場所から、低い場所へ、地の底に向けて落としてみよう。
それが、無垢な魂たちの純粋な好奇心だった。
──ミカエルは、まだ『認知の迷宮』を彷徨っていた。
ピーー!
高い電子音。
「本部より北東7ブロック、各隊へ通達。残存民間人の捜索と保護を優先せよ」
何度も繰り返される定型句。
軍の上層部は、民間人の犠牲を恐れている。
人道的な観点から、
そして、王政の維持という政治的な思惑もあった。
屋根が吹き飛んだ建物。
そこのコンクリの壁に、ミカエルたちは身体を預けていた。
日陰の中。
冷たい壁。
軍服に白い粉が付く。
「中尉!」
フランシス准尉が指差す方向、人影を発見した。
数は二つ。
大人と子供。
母子と推定できた。
ポートランド市街地戦。
繰り返しの戦場。
ミカエルが、母親が生きて歩く姿を見たのは初めてだった。
彼女の判断に躊躇はなかった。
「私が出る」
その一言だ。
フランシス准尉はうなずく。
仲間の兵士たちは「姫さまの護衛は任せてください」と銃を構えた。
ミカエルには確信がある。
何度も繰り返してきた幻覚。
無防備な民間人。
それは、おとり。
王国兵を釣り出すエサ。
狙撃兵は、その瞬間を待っている。
だから彼女が出た。
狙撃の銃弾。
防御術式で、それを無効にする。
だから、こそだ。
地吹雪のようにコンクリの塵が舞う。
銀白色の髪が流される。
長いまつ毛に守られた大きな瞳、そこにさえ塵が飛び込んでくる。
ミカエルの眉間にしわが寄る。
視界は、閉ざされていなかった。
子を連れた母親が、ミカエルを見つけた。
口を開く。
言葉は、ミカエルには届かない。
銃弾が貫通した。
その時、真っ赤な血飛沫が飛ぶ。
母の頭が撃ち抜かれた。
子は、その血をかぶる。
「……これは、なんだ?」
ミカエルは、怒りを通り越して戸惑う。
この惨状が、彼女の理解を超えた。
兵士がいる。
遮蔽物のない開けた場所に──
──しかも、無防備に、立って歩いて……
いるのだ。
民間人を撃つ理由が、ミカエルには理解が出来ない。
出来なかった……
過去の繰り返し、
倒れた母の姿……
それは、流れ弾が崩れた瓦礫か……と思い込んでいた。
いたのだ。
そして、油断。
防御術式が、火花を散らす。
ミカエルの頭が大きく揺れる。
視界が一瞬とぎれる。
直撃だ。
鉄パイプで殴られたような強い衝撃。
フランシス准尉が叫ぶ。
「中尉!」
彼女は飛び出す。
「来るな!」
ミカエルの小さな身体が大きく揺れる。
再びの直撃。
今度は、肩。
フランシス准尉が駆けてくる。
ミカエルは叫んだ。声が裏返る、そして、かすれる。
「もどれーー!」
次の瞬間。
フランシス准尉が倒れた。
ミカエルは見てしまった。
フランシス准尉の頭の中身が、弾けて散らばる瞬間を──
──見てしまった。




