第五九話 記憶
──春だ。
茂みの中に丸まって眠る白狼。
ふわふわの白い尾。
そこにあごを置き、静かに眠る。
朝日。
そして、草むらの葉は、露で化粧している。
それが真珠のようにキラキラと輝いていた。
蝶々が彼の立派な鼻で羽を休める。
ムズムズと鼻へしわを寄せると白狼は大きなあくび。
すると、蝶は慌てて去っていく。
子どもの狼たちが、よちよち歩きで寄ってくる。
彼のつがいのメスが、いつの間にか座っていた。
そこに話し声はない。
春の風がそっと吹く。
彼らにとっての言葉は感情だ。
吠え方や仕草といった単語はある。
だが、それに頼ってはいない。
賢いばかりで、知力を誇る人間たちとは違う。
感情のまま生きる。
後悔はしない?
将来の心配は?
彼はしない。
誇り高き白狼。
最先端の生物工学。
神のみわざに迫った人の業。
人間たちは言う。
言葉も喋れない知力の低い失敗作と断定している。
それがなんだ!
言葉とは──
──知力とは!
そんなくだらぬ物に興味はない。
彼から見れば、鈍感な人間の方が憐れであった。
それよりも、もっと憐れなのは……
夜狼と化した同族を弔ったことは感謝していた。
それでも彼女は憐れに見える。
『終わりを告げる冬の魔女』
彼にとっての憐れ──
──そして、憎い存在。
家族が暮らす縄張りを荒らす敵だ。
青空に、ふわふわと浮かぶ雲。
それが太陽を隠すと地上に影が落ちる。
──夏の太陽は、容赦なく地上を刺すように、くっきりと照らすしていた。
深い青。
全てを吸い込むような魅力的な色。
その色を背景に、缶コーヒーが回りながら宙を舞う。
ゆっくりと、スローモーションで放物線を描きだしていた。
遠くからの砲撃音。
続く地響き。
そこに、微かに混じる無邪気な声色。
直ぐに近くに公園があるかのような笑い声が混じる。
無垢な魂たちが、そっと覗く。
無邪気に楽しそうに──
──それは、公園でありを踏み潰して遊ぶ子どもたちのように……
フランシス准尉は、まだ、ここにいる。
また、ここに戻って来ていた。
彼女にとって何度目の夏だろう。
両手足の指の数を超える回数。
それ以上の回数。
思考は時に光の速さに迫るという。
遠く離れた想い人への気持ち。
宇宙の果てを思考するロマン。
それらは、きっとそうだ。
無垢な魂たちにとって、全ては同義。
フランシス准尉は、あの夏にいる。
それは、悲しい思い出。
罪悪感、
そして後悔。
懺悔と無力──
──それが全て、彼女自身の存在を否定する。
夏の太陽。
踏み潰されたアリが、体液を流しながら手足をばたつかせ、もがいているようだ……
そろそろかな?
そろそろかな?
無垢な魂たちが胸を躍らせている。
太陽が地平線の彼方へと消えた。
夜空に満天の星々が輝きはじめる。
ミカエル・ダヴェンポート。
彼女が暗闇の中に立っていた。
『昼のマエストロ』
『夜のプリマドンナ』
昼と夜を表す二つの異名。
彼女の軍服は丈が合っていない。
手足の裾は折り曲げてあった。
銀白色の髪色が月明かりに照らされた。
夏の太陽と違い、夜の明かりは柔らかく幻想的だと思い出させる。
ミカエルは、ここに居る理由を思案していた。
さっきまでの記憶が曖昧で分からない。
照明弾が天空へと舞い上がった。
人工の太陽が、落下しながら辺りを照らす。
白地のテントが、ミカエルの目に入る。
王国の軍人であれば、それが救護テントであると、直ぐに知れた。
パァーーーーン!
乾いた銃声?
軽い音だ。
ミカエルは、小口径の拳銃を思い浮かべる。
発砲音は、彼女の目の前。
救護テントだ。
駆ける!
ミカエルが、そこに向かう。
続く発砲音。
複数人の応戦?
そして静寂……
ミカエルが天幕を開く。
そこには、白衣を着た兵士が既に倒れていた。
寝台の横には、怪我人?
そして将校……
血の海が広がっていく。
女性の軍医をミカエルが見つけた。
「どうして? わたし……わたし……」
彼女が膝から崩れ落ちていく。
とても弱々しく地に吸い込まれていくように、ゆっくりと、ゆっくりと崩れていく最中だ。
ミカエルには、彼女の背中に見覚えがあった。
ずっと、ずっと探していたような記憶……
とても、危うく見えた。
それは危険で──
──とにかく、彼女は濁流の中、溺れてあがき、力尽きて水中に吸い込まれていきそうな状態。ミカエルは、そう思う。
そう思った。
見覚えのある白衣を着た女性兵士。
ミカエルは、膝から崩れ落ちていく彼女を背後からそっと支えた。
振り返るフランシス。
ミカエルと彼女の視線が交差する瞬間。
彼女らは、まだお互いを知らない。
ただ、ミカエルは、一つ思い出した。
彼女の部下の兵士のこと。
誰だったかをミカエルは何故か思い出せない。
しかし、記憶にあることがある。
その部下の資料に記述されていたこと──
──要約すれば、こうだ。
軍医時代に敵兵を救った。
救った兵士が、拳銃を奪い彼女を狙った。
庇った同僚が犠牲になった。
救った命が仲間の命を奪ってしまったという事実。
彼女が、魔導士としての適正を隠していたという事実──だ。
「貴官は正しい」
ミカエルは言った。
それは、部下にいつか伝えようと思っていた言葉だった。
ミカエルは、彼女を見つめている。
フランシス准尉は、口を開き、彼女を見ている。
もう一度、言う。
「貴官は正しい。なにも間違っていない」
ミカエル・ダヴェンポート。
彼女は、軍人だ。
今も昔も、これからもずっとそうだ。
以前の彼の身体。
少女の姿となった彼女の身体。
どちらであっても、彼女が彼であることには違いはない。
「でも、わたしは……」
フランシス准尉は、戸惑っていた。なぜなら、彼女には『正しい』と思える結果が何一つ無いからだ。
「貴官は軍医だ。命を救うために戦場に来た。だから、間違っていない」
ミカエルは言う。
可愛らしい大きな瞳。
頼らない少女の姿。
それ以上に、力強く。
誰よりも自信を持ってフランシス准尉に言い切った。
「彼は亡くなったわ……」
「彼も軍医だ。貴官の命を救うのは正しい。そして、軍医であっても兵士であり軍人。仲間を助けるのは当然の義務だ」
「でも、でも……」
ミカエルはため息をつく。
子どもをあやすように、彼女は、フランシス准尉をゆっくりと地に座らせる。
そして、向かい合う。
「帝国兵を救うのも正しい。敵に敬意を払うのは当然。そして、帝国兵が撃ってしまったのは……敵であれば当然。銃を奪われたのが迂闊だったな……」
様子を、何故か黙って見ていた将校が吠える。
「貴官は、私のせいだと言うのか! そもそも」
「黙れ!」
ミカエルの一喝が鋭い。
情報部の兵士たちの銃口が、一斉にミカエルを狙う。
「小官は、誰も間違っていないと言いたい。誰もが任を真っ当し起きた事だ」
「そんな、はずないでしょ!」
フランシス准尉の激昂!
激昂だ!
ミカエルの論理が、いい加減に聞こえる。
屁理屈ででたらめ。
論点がずれているように、フランシス准尉には思える。
「わたしが、見捨てれば、起きなかったことなのよ!」
「それは、貴官には出来ないはずだ」
ミカエルは言った。
助けられる命。
それを、軍医の立場で彼女が見捨てることは出来ないとの確信……
何度でも、何度でも、
辛くても、苦しくても、ミカエルがよく知る彼女は、救うに違いなかった。
そう、何度でもだ。
なぜ?
なぜ? そう言い切れる??
それは──
──ミカエルとフランシスの目があった。
遠方の粒子がもつれ合うように、
二人の記憶と感情がもつれ合い、絡み合う。
「……フランシス准尉?」
「中尉……ダヴェンポート中尉……」
フランシス准尉が、ミカエルの首に手を回して抱きついた。
ミカエルが慌てる。
彼女の耳が赤くなる。
「とにかく貴官は間違っていない。ずっと前から」
「もういいです。中尉なら、そう言うと思ってました」
ミカエルが、頭をかく。
「その癖、変わりませんね」
フランシス准尉は、ミカエルの小さな両肩に手を置いて言った。
距離が近い。
いつの間にか、二人しかいない。
「我々が為すべきことは」
フランシスが涙を拭くような仕草で笑う。
「任務の遂行? それとも、前進ですか?」
ミカエルが、また頭をかいてしまう。
節目がち、長いまつ毛がよく目立つ。
とても可愛らしい仕草。
それでも、フランシス准尉にとっては、以前となんら変わりないミカエル・ダヴェンポートだった。
「前進だ。軍人の務めは戦争を終結させること……可能であれば、勝利の方が後味が良いだろ?」
フランシスは何故が、つまらなそうに、ほほを膨らます。
それでも、
「はい!」
と力強い返事をした。




