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第五八話 落とし穴

 子どもの笑い声。


 うふふ、うふふ──

 ──とても幼い声が無邪気に笑う。


 その声色に、幼な子特有の善悪を超えた残酷さを匂わせる。


 フランシス准尉は暗闇にいる。


 彼女の夏はもろい。


 暗闇に一人座る彼女。

 膝を抱え、そこに顔を埋める体育座り。


 白い何かが取り囲んで回る

 手足の生えたお餅のような物ども。

 無垢な魂(アスタライア)たちが、囲んで回る。


 回る、回る。

 何度でも──

 ──フランシス准尉は、また、あの夏の日に沈んでいった。


 空があったとして、

 そこに雲が浮かんでいて、

 街並みや人混み、その喧騒けんそう、話し声、笑い声、色や匂い。


 それらを人は目や耳で見聞きししていると思い込む。

 そこは、刺激を受け止める器官に過ぎない。


 全ては脳が見せている。


 無垢な魂(アストライア)たちが無邪気笑う。


 うふふ、うふふ──と笑っている。


 起きない子は何度でも立たせましょう。

 膝を抱えてうずくまって丸くなっても無駄。


 無垢な魂(アストライア)たちは回る、回る。

 手を繋いで、彼女を取り囲んで回る。


 彼女は、また、あの夏の日に立っていた。

 何度でも、何度でも……


 壊れるのか進むのか、それは彼女次第だった。



 ──甲高いクラクション!


 パァァーーーーン!


 場面が変わる!

 つまらない男の夢が割り込んできた。


 妻と歩道を歩くアザゼルは肩をすくめた。

 彼は、幻覚に落ちていない。


 それもそのばす、クロノノート真教の筆頭。

『認知の迷宮』を仕掛けた張本人なのだから……


 それでも、彼は幻覚に落ちていないだけだ。

 現実と幻覚の狭間。

 崖に手を掛け、ぶら下がっているような……状態。


 アザゼルは立ち止まった。

 耳元を手で抑える。


 妻が振り返る。

「どうしたの?」


 彼女が笑う。

 彼は、しばし幻覚に流されることにした。


「まったく、今どき、クラクションなんていい迷惑だ」

 いつも彼は、そう言う。

 妻は決まって、

「強がりは言わない。怖かっただけでしょ」

 と愛らしく笑う。


 抱きしめたい衝動。

 アザゼルは耐える。


 なぜ?

 幻覚なら、欲望に身を任せるのも有りだ。


 歩道の先から親子が歩いてくる。

 車が時折、行き交う。


 賑やかな街の中。

 街路樹は赤く色づき始めていた。


「今日は、外食でも……するか」

 アザゼルは、少し噛んだ。


 彼は幻覚と現実の狭間にいる。

 アザゼルの言葉。

 それは、台本のように変わらない。


 シナリオ通りに進んでいく。

 彼にとって、変化のないつまらない夢は──

 ──純粋な魂(アストライア)たちにとっても同じだ。


 時々、白いお餅がぴょこぴょこと現実のアザゼルに歩み寄り、彼の表情を覗き込んでいる。

 キョトンと小さな瞳が、アザゼルの顔を見る。

 直ぐに、純粋な魂(アストライア)は興味を失い立ち去っていく。


 幼稚園で息子を出迎える。

 それが、この日までの彼の日課。


 保育士に連れられ子ども。

 おかっぱ頭なのは、妻が散髪を担当しているからだ。


 その子が、保育士の手を離れ駆け寄ってくる。

 短い足を懸命に回す。

 小さくて短い腕を、引きちぎれそうぐらい伸ばしている。


「お父さん、抱っこ!」

 ほっぺが赤い。


 一番に自分のことを頼ってくることが愛らしくかった。

 我が子の最初の言葉。

 それば『まーま』だった。


 ひどく落ち込んでいたことをおもいだす。


 横目で妻を見れば、足元の目立たない所でそっと親指を突き出し息子に『上出来』の合図。


 何度見ても笑える。

 アザゼルは、息子が一番に自分に駆け寄って来ることが『妻の入れ知恵』だと知っていた。


 それでも、彼は嬉しい。

 妻も、息子も、確かに自分を愛してくれている。


 それだけが、彼の幸せに違いなかった。

 それ以上は、有りもしなかった。


 アザゼルが、息子の抱っこをワザと渋っていると、息子が飛び跳ねる。

「抱っこ! 抱っこ!」


 彼は、息子の両脇に腕を差し込む。

 そのまま、我が子の身体を持ち上げた。


 勢いよく、そして、高く。


 キャッキャッと歯を見せて笑う。


「もう、力なんて無いんだから、無理はしないで」

 と妻も笑う。


 彼にとっての幸せは確かにあった。


 ──息子を肩車しながら帰る道の途中


「ねぇ、お父さん、きゅうけつきって知ってる?」

「知ってるさ。悪い子は血を吸われちゃうぞ」


 アザゼルのやりたかったゼスチャーは、妻が代わりにやってくれた。両手を広げ、口を開けて息子に迫る彼女。


 アザゼルの肩に乗った息子には到底届きそうになった。

 なんとも、お間抜けな吸血鬼。


「お話し会で聞いたんだ。ワオーン」

「おいおい、なんで犬が出てくるだ」

「違うよ。狼だよ。ワオーン」


 肩に乗った小さな息子。

 その足が興奮と共に、アザゼルの胸を叩く。


 トントンと彼の胸に響いていた。


 家のそば。

 我が家は、直ぐそこにある。


 ここで決まって、胸のポッケに入れたスマートフォンが震える。

 バイブの振動。

 呼び出しだ。


 肩から息子を降ろす。


 妻のスカートを、彼女の足元で我が子が掴んでいる。

 そこで息子が指を噛む仕草で見つめる。

「おしごと?」


 彼の手元でスマホの催促は続く。

 発信者は研究所だ。


 彼は電話を取らなかった。

 あの時、この時も、そして今も、いつも取らなかった。


 電話は無視したのだ。


 このまま、彼は外食に行くべきだった。

 そうすれば、彼の幸せは長くなったことは間違いない。


 それが、例え数時間だとしても、それは確実だ。


 この電話に、アザゼルは思い当たる節があった。

 だから、

「すまない、夕方には戻るよ」

 といつも言ってしまう。


 妻が耳元でささやく。

「ノアの誕生日は忘れないでね」

「もちろん、忘れやしない」


 アザゼルのその言葉に嘘は無かった。


 ──研究所は森の中にあった。


 様々な機器が立ち並ぶ。

 最新の割に散らかった印象を受ける部屋。


 そこに、大きなモニターとキーボードが置かれたテーブルがあった。


 研究が進むにつれキーボードは意味を無くしていた。

「パパ、吸血鬼と狼男は、なぜ仲が悪いのかな?」


 開発中の人工知能が喋る。

 アザゼルを呼ぶように、駄々をこねたのは、このプログラムに違いなかった。


「盗聴は良くないぞ」

 タイミング良く出た話題に、自らのスマホを疑う。


「僕はネットに繋げ無いんだ。忘れたの、パパの所為せいなのに」


 人工知能は開発段階でネットとは遮断した。

 機密性の保持の為が、その名目だった。


「文句はよせ。そのせいで、リモートで、お前をコントロールが出来ないんだ」

「ちゃんと名前で呼んでよ」


 モニターには何も映ってはいない。

 声色も正常だった。

 アザゼルの脳裏には、不機嫌顔が浮かぶ。


 理論物理学は、より複雑に発展していた。

 数式で表す。

 その美しい学問は、人工知能の登場で次の段階に進む。


 数式で表すだけは古典となった。

 数式と概念を組み合わせた立体的な理論。

 半ばブラックボックス化した概念を人工知能が代替えをする。


 不確定を予測する人工知能開発。

 それがアザゼルの研究だ。

 その研究は、人の手による全知の再現でもあった。


「ねぇ、名前」

 人工知能が彼を急かす。


 電気信号のみに頼らない人工知能。

 化学反応が複雑な情報の処理に活かされている。

 生物工学の発展は、理論上、クローンを産み出せることは常識だ。

 様々な臓器の再現はお手のもの。

 それは、倫理上の問題を撤廃すれば、脳ですら生産できる。


 アザゼルは名前を呼んだ。

「なんだ、ノア、お前は何がしたい?」

「やっと、名前を呼んでくれた。そういえば、今日、パパがここに来るのは何度目かな?」


 この質問の不自然さにアザゼルは疑問を抱かない。

 ただ、彼はイラつくだけだ。

「初めてだ」

「回答を記録しました」


 人工知能は、突然、会話をやめる。


 モニターに文字が映し出される。

「そろそろ、家が爆発するよ」


 悪ふざけが過ぎる文章。


 アザゼルは胸元のスマホを取り出す。

 そして、電話をする。


 繋がるはずは無いのだ。


 研究室の扉が外から開かれた。


「先生……とにかく……来てください」


 アザゼルは行きたく。

 聞きたくない。

 知りたくない。


 それでも進む。

 それが、彼が正しいと信じているからだ。


 そして、同じことを何度繰り返しても彼は現実から幻覚に落ちることはない。


 アザゼルが、いつも知る事実はこうだ。

 彼の自宅は爆破テロの標的になった。


 人工知能開発に人の脳を利用する。

 それは、神に対する冒涜であり。

 狂信者からすれば敵だ。


 妻と息子と一緒に生きた時間は、実感がないまま途切れは。

 死体すらない死に別れ。

 日常の中で起きた出来事。

 前振りもなく、心の準備も出来ない不幸。


 彼の記憶の中で、妻と息子はずっと生きている。

 生きている。


 アザゼルは、会えない悪夢を終わらせるために現実で準備を進めなくてはならなかった。

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