第五七話 理想
フランシス准尉の姿は、まだ救護テントの中にあった。
立て付けの悪い金属の細い棒に点滴が吊るされている。
地響きで、それが揺れる。
金属が金切り声をあげて泣く。
重体の帝国兵。
間近で診察すれば、彼女が思うよりも状態が悪い。
彼の血液型に合う点滴があったのは救いだった。
体内に残っている異物。
それよりも傷ついた血管。
何よりも火傷。
焼けただれた軍服が、彼の素肌に張り付いていた。
普段なら経験豊富な軍医。
この場なら、大尉が担当するような重体患者。
頼りなるはずの上官は、その患者をフランシス准尉に任せた。
彼女は、自らの知識の図鑑をめくる。
軍大学で学んだ医療知識と、戦場の救護テントで培った経験。
導け出される答えは、応急処置後、さらに後方の病院へ患者を送る。
これだ……
救護テントは手術をする環境ではなかった──
──しかし、この結論は患者の死を先延ばしにするに等しい。
なぜなら、彼は帝国兵。
つまり敵だ。
王国は、帝国との戦いで多くの犠牲を出している。
その犠牲は何故だ?
帝国が、王国に侵攻してきたからだ。
敵であり、侵略者。
ポートランド市街地戦では多くの民間人が犠牲になった。
そして、避難を助けた王国兵も……
彼は帝国兵。
客観視すれば、ただの一兵士。
命令に従う軍人。
テント内に漂う不穏な空気。
包帯を巻き寝台に横になる王国兵。
その内、何人かは視線を送る。
眉間のシワを寄せ、唇を噛む負傷兵たち。
彼らからすれば、帝国兵は──
──人殺しの悪漢だ。
軍人は敵にも敬意を払うべきであった。
だか、それを全ての軍人に求めるのは酷だ。
フランシス准尉は、自らの理想を声高に叫びはしない。
医者は、人の命を救うために存在する。
彼女の知識は、そのためにあった……
いずれにせよ、重体の帝国兵、その者に応急処置をして後方に運んでも死が待っているだけだった。
もちろん、善意に期待はできる。
重体の王国兵と同じように、迅速に後方の病院へ帝国兵を運ぶ。
その望みはあった。
あるだけだ。
きっと、輸送のどこかで遅れが生じる。
フランシス准尉には、そうとしか思えなかった。
だから選択肢は一つだ。
彼女は、ここで彼の傷ついた血管を縫い、異物を摘出し、皮膚を縫合しなければならない。
フランシス准尉は、必死に自らの知識を絞り出す。
胸部と腹部の傷口。
特に腹のあたりが酷い。
黒ずんだ血に砂が張り付いている。
「メイヨーを頂戴」
彼女は言った。
助手には同期の青年軍医がつく。
「フランシス、大丈夫か?」
彼は、医療用ハサミを彼女に手渡す。
厚い生地も切れそう、しっかりとしたハサミ。
持ち手は、彼女の手のひらにそっと置かれた。
「ええ……でも、きっと大丈夫」
帝国兵の軍服に切れ込みをいれる。
張り付いた彼の制服が厄介。
むりに引き剥がせば、傷口が大きくなってしまう。
フランシスは必死に記憶を探っている。
重体患者がここに運ばれるのは初めてではない。
何度も、何度も、彼女は助手として治療を手伝っていた。
こんな時はどうする?
火傷患者。
張り付いた衣服。
「生理食塩水……それと、ピンセット」
ピンセットは彼女に手渡された。
生理食塩水は、助手の青年が帝国兵の患部周辺へ。
これは、張り付いた衣服は、これによって癒着が弱まる。
彼女は慎重にそして、大胆に彼の制服を、帝国兵の軍服を患部周辺から取り除く。どうしても剥がれない部分は、ハサミで切り取った。
時間は貴重。
刻一刻と帝国兵の命は削れている。
傷口が見える。
肉の奥に破片。
裂傷は、止血鉗子で行う。
フランシス准尉は的確な位置を当てると、止血鉗子を助手の青年に預けた。
彼女は別の鉗子で異物を掴む。
患部の肉が脈打つ。
異物が揺れた。
明かりのランタンは、フランシス准尉の頭上。
影になると、異物は影と同化する。
少なくとも助手の青年には、異物は見えなくなっていた。
それをフランシス准尉の鉗子は的確に掴む。
そして取り除く。
熟練の医師の手捌きであった。
寝台の横。
鉛色の皿に、取り出された破片が置かれていく。
砲弾の金属片。
そして、コンクリの破片のようなもの、瓦礫だ。
人と通り終わる。
汗が視界の邪魔をする。
彼女は、白衣の袖でそれを拭いた。
衛生的とはほど遠い環境。
血管の縫合をしなければならなかった。
その手捌きに、助手の青年は奇跡を見た。
組織を縫い合わせる手際。
それは、まるで精密機械のようだった。
助手である青年軍医は知らなかった──
──フランシス准尉に魔導士としての適正があることを。
魔法は、人の傷を癒さない。
それは、誰もが知る常識。
それでも、魔導士の空間把握能力は常人より高いのが一般的。
物を立体に捉えることができる。
それは、見えない部分を補完するということだ。
全ての魔導士が彼女のようになれる訳ではない。
だが、この時のフランシス准尉は、的確に患者の血管に太さ位置、全てを把握できた。
手先の器用さが異常だ。
ただ、ただ、彼女は必死だった。
血管の縫合、そして傷を縫い合わせ、火傷の治療も終わる。
「これで、きっと大丈夫……」
彼女は言った。
帝国兵の身体は寝息に合わせ脈打っていた。
天幕が開いた。
オレンジの空が一瞬、覗いた。
兵士の声だ。
「負傷兵だ! 治療を頼む!」
前線からの負傷兵が、担架に乗せられ運ばれて来た。
直ぐに、ここは治療を必要とする患者たちで溢れかえっていく……
フランシス准尉たち、軍医の戦いは続く。
それから、夜の虫の泣き声に気がついたのは、夜半過ぎだった。
そして、夜遅くの客は、歩いてやってきた。
そのせいで軍医たちは眠りにつくことが出来ずにいる。
彼らは情報部を名乗り、彼女の上司である大尉と話し始めた。
「ほう、この男が重症だったとはな、良い腕だ」
「いえ、これは私ではなく彼女が」
と大尉は、フランシス准尉を見た。
少し離れた場所。
フランシス准尉は、眉を寄せて様子を見ていた。
帝国兵の容体は安定している。
それでも、患者たちの前で騒がしいことが、彼女には気に食わない。
「別に咎めるつもりではない。ただ、感心をしただけだ」
情報部の将校は、彼女の表情を勘違いしている。
「これは、情報部で預かる。今から移送をする」
将校は言った。
フランシス准尉が動く。
ガタッという物音。
「反論は許されない。これが、重大な情報を握っている疑いがある。邪魔をすれば、それだけ友軍が死ぬ。貴官なら理解出来るはずだ」
フランシス准尉も、もちろん理解は出来る。
だが、彼女は、納得が出来ない。
それでも反抗が出来ない。
だから、感情がぐちゃぐちゃになってしまう。
フランシス准尉の身体が少し揺れた。
情報部の将校。
その横で帝国兵は寝息をかいていた。
彼は悪夢をずっと見ていた。
帝国兵は、フランシス准尉に鎮痛剤を打たれた。
それから、意識を失い。戻っても朦朧としていた。
帝国兵は、知らない。
最初に打たれた注射が鎮痛剤であったと知らない。
彼は、ずっと、ずっと恐ろしかった。
彼は、王国兵を撃っている。
殺している。
砲弾が間近に撃ち込まれ、大怪我、生死をさまよう苦痛。
痛み。
痛みだ。
死を垣間見る痛み。
痛みとは、生きるために抗っている証拠。
帝国兵は、きっと殺されると信じていた。
王国が彼を許さない。
きっと殺す。
情報を聞き出す?
口を開けば、仲間が死ぬ。
友人が死ぬ。
家族が危険に晒される。
恐ろしい。
恐ろしい。
恐ろしいのだ!!
帝国兵は、ずっと悪夢を見ている。
情報部を名乗る将校がそばにいる。
彼は気がつく。
寝息をたてる振り。
隙をうかがう。
フランシス准尉が叫ぶ。
「患者を連れ出すことは、許可できません!」
彼女の同期。
青年軍医が、
「よせ! フランシス、頼むから逆らうのはよせ!
彼女の脇に寄る。
情報部将校は一歩前に出た。
腰にぶら下げた拳銃、その皮のホルダー、留め金を外す。
「貴君は、帝国の兵は救っても、友軍の命は救えないと言うのか!」
フランシス准尉が口を開く。
彼女は、何を言おうとしたのか、今でも思い出せない。
全ては、帝国兵がベットから跳ね起きたからだ。
重体だった帝国兵。
信じられない動き……
情報部の兵士たちの対応が遅れている。
不意をつかれた将校は、呆気なく拳銃を奪われてしまう。
帝国兵は恐ろしかった。
意識が朦朧とする中──
──いつも、目に前に彼女が現れた。
彼から見たフランシス准尉は、いつも無表情だった。
それが帝国兵には恐ろしい。
フランシス准尉は、ただ、ただ、真剣だっただけだ。
彼を救おうと必死だっただけだ。
それでも、彼にとって彼女は恐ろしい存在。
そして、悪夢の中で憎らしく、刷り込まれる。
帝国兵は将校から拳銃を奪った。
そして、銃口を向けた。
狙いは将校ではない。
遅れて銃を構えた、情報部の兵士でもない。
彼にとって、今、一番憎らしい相手。
フランシス准尉に銃口を向けた。
青年軍医が、フランシス准尉をかばう。
射線の間に、青年が立ちはだかった。
フランシスは准尉が叫ぶ!
「やめて!」
パン!
軽い音。
砲撃のように重みはなく、振動もない。
青年軍医の白衣が赤く染まった。
続けて響く銃撃音。
情報部の兵士たちの銃撃だ。
フランシス准尉が命を繋いだ彼が銃弾に倒れる。
帝国兵は、息を引き取る。
フランシス准尉は、青年に駆け寄る。
彼もまた、すでに死んでいた。
青年の瞳孔は閉じている。
だが、その瞳の中に彼女がいる。
フランシス准尉は、何も出来なかった。
それでも、彼女は生きている。




