第五六話 うそつき
フランシス准尉は救護テントにいた。
遠くからは砲撃の音が聞こえる。
ミカエルとは別の戦場。
戦車の砲撃は、全てを俯して見れば─
──同じ時間。
それでも、二人は別の戦場。
そして、別の季節にいた。
ミカエルは冬の終わり頃。
そして、フランシス准尉は……夏だ。
帆布生地のテントは生成り淡い色で太陽の光を和らげる。
砲撃の振動。
ランタンが揺れる。
粗末な簡易ベットに寝かせられた大勢の兵士たち。
包帯の布が巻かれ治療の処置は終わっていた。
鎮痛剤の効果だろう。
さっきまでの喧騒が嘘のように、テント内には寝息が響く。
扇風機が首を振る。
テントの中。
汗と血、そして消毒薬の匂いが混ざり合う。
軍医がフランシス准尉の肩を叩く。
「お疲れさま、しばらく休んでなさい」
フランシス准尉は額の汗を拭いた。
テントの外から蝉の鳴き声が聞こえることに、この時、初めて彼女は気がつく。
「少し、外の空気を吸ってきます」
「そうしなさい、前線が少し騒がしい、他のみんなも今のうちにだぞ」
砲撃の地響き。
誰の足元もしっかりと、それを聞き取る。
負傷兵が次々と担ぎ込まれてくる光景。
そんな光景が皆の脳裏には浮かぶ。
ただ、この瞬間は、穏やかに違いなかった。
フランシス准尉が天幕の扉、布地のカーテンを開く。
夏空の青が深い。
新鮮な空気。
夏の熱気を帯びた空気。
暑い夏の太陽が、彼女の衣服に染みた汗を乾かせた。
彼女は、兵士と同じ軍服を着ている。
羽織る白衣が、周りに軍医であると知らしめる。
フランシス准尉の視界の片隅に動く影。
スチール缶が宙を舞う。
それは、彼女の胸元へ向けて放物線を描いていた。
手にとって見ると缶コーヒーだ。
キンキン冷えた缶コーヒー。
戦場では貴重な物資であり、軍医だから頂けるものではない。
男性の声。
「大尉殿の秘蔵の品だ。薬品冷蔵庫から頂戴した」
フランシス准尉と同期の青年。
彼女と同じ医師免許持ち軍医だ。
その彼が、自分の分の缶コーヒーをこれみよがしに見せてくる。
同じものが彼女の手元にもあった。
「軍役が終わるまではお互い辛抱だな」
フランシス准尉は苦笑い。
軍大学で医師免許を取った者は一定の軍役が課せられる。
とはいえ、軍医が銃を握ることはほとんどない。
命を救う。
それは、どこにいても医師の使命だとフランシス准尉は思う。
だから、
「ええ……でも、良い経験になるわ」
と答えた。
少し曖昧な返事。
ただ、理想を語りあって議論をすることを嫌った。
「人を助けることは一緒だからな……」
青年は、何かに勘づき、そして缶コーヒーを流し込むようにして飲んだ。
テントの遠くから声がする。
「軍医だ! 軍医を呼んでくれ!」
帝国の訛りの言葉。
それを阻止しようとする王国兵。
ちょっとした騒ぎが起きていた。
帝国兵の捕虜が王国兵に連行される途中だ。
「軍医を呼んでくれ! コイツの治療をしてやってくれ!」
「怪我人を連れて来たのはお前らだ。その義務はない」
フランシス准尉は見てしまった。
口論ではない。
帝国兵の怪我人を見てしまった。
榴弾による裂傷が酷い。
皮膚が黒いの火傷だろうか。
金属片が体内に残留している?
フランシス准尉の遠目での診断。
直ぐに治療をすれば助かる可能性が高い。
放っておけば……おそらく、日が沈む前に命を落とすだろう。
端的に言えば『助かる命』だ。
フランシス准尉は、付いて来た隣の青年に声を掛けた。
「ねぇ、少し手を貸して頂戴」
「帝国兵は放って置いても……奴らは、俺たちの仲間を殺ししたんだぞ」
青年は、彼女を咎めるも従った。
彼も、また医師だからだ。
助かる命であれば、助けたい。
青年軍医も、また、そう願う。
フランシス准尉が重症の帝国兵の側に駆け寄る。
捕虜たちの視線が彼女に集まる。
「軍医さん、どうかコイツを」
口々に捕虜たちは彼女に語りかける。
仲間たちの心配をよそに、重症の帝国兵は彼女をにらむ。
火傷の酷い顔。
目の白い部分がくっきり浮かび上がり、黒目が彼女を捉えて離さない。
「おまえら王国兵……」
彼の唇が震えている。声はか細い。
だからこそ呪文のように聞こえる。
「おまえらは敵だ……だから……助けなんて……いらない」
その先の言葉は彼女だけが聞き取っていた。
「だから……殺してやる……」
最早、呪いの言葉。
それを、フランシス准尉は、苦痛のせいだと思った。
生死をさまようほどの重症。
彼は、きっと、そのせいで乱暴な言葉を使っている。
そう違いないと彼女は確信していた。
「もう大丈夫よ。あなたは、きっと助かる」
帝国兵は、まだ、何かをつぶやく。
彼女は、白衣のポッケに手を突っ込むと注射器を取り出した。
それを帝国兵に刺す。
捕虜たちがざわつく。
それに反して、重症の帝国兵はぐったりと目をつむった。
「鎮痛剤よ。患者が暴れていたら、助けられないわ」
フランシス准尉は、腕を帝国兵の首元にいれる。腕枕のようにして、重症患者を抱く。白衣が血で汚れる。
「担架を持って来てください。救護テントにあります」
彼女は、連行任務中の王国兵に命じる。
王国兵たちは戸惑う。
青年軍医が、その戸惑いを打ち消した。
「私たちは、准尉だ。君たちより階級が上のはずだ。従わないなら、救護テントの大尉殿を呼んで来ようか?」
彼の一言。
その威力は絶大だった。
それから、担架で重症患者が救護テントに運ばれる。
大尉は苦い顔をした。
それでも、
「軍医の使命は『兵の命を救うこと』と教本に書いてあったな」
と言い、続けて、
「どこの国との記述は無かったと記憶している。本部には、私から伝えよう。『拷問で得る情報より、情に訴えて得た方が信頼にたるぞ』とね」
フランシス准尉に許可をした。
そして、フランシス准尉は、帝国兵の治療をはじめた。
──ミカエルの冬の戦場。
ポートランド市街地戦、その最前線の只中だ。
彼女は、部隊無線に向かって叫ぶ。
襟元につけたマイクを引っ張り口元に持ってきていた。
「ミカエルより命令! B分隊、後退だ! C分隊と合流せよ。我が隊が前進する! 以上!」
前線死守、その命令は辛うじて繋がっていた。
ミカエルが発した最初の『撃て!』の命令から10分程度。
戦死数3、戦車撃破1は優秀だった。
4分隊合わせて50名。
計算上、1時間程度は時間が稼げる。
言い換えれば、命を払って時間を買うような戦いだ。
その先の勝利を、ミカエル自身、描けてはいなかった。
ガガガと耳障りの音。
無線の音がミカエルの脳に直接に響く。
「少尉! 少尉! ……」
無線が途絶える。
ミカエルたちの分隊は、路地を進んでいた。
彼女の足元に喫茶店の看板、薄い鉄板のそれが落ちている。
ミカエルは看板を踏んで駆ける。
戦車の砲撃音。
振動でビルから瓦礫が降ってくる。
先程の無線。
その声から判断してD分隊が壊滅的な被害を受けた想像できる。
1分隊、12名。
最悪……ダース単位の命が消えたかもしれなかった。
ミカエルたちの進行方向に向かって10時の方向。
その方角が、D分隊の持ち場。
おそらく、彼女の左手に見えるビルの向こう側。
通りを超えたところだ。
障害の想定は、戦車数3と随伴する帝国歩兵。
彼女は魔導士だ。
以前のポートランド市街地戦の時よりも強い魔導士。
ミカエルは、悪夢を再現することは嫌だった。
多くを失いたくはない。
戦場で駆けるうちに実感が湧く。
以前より強いとの実感。
だから彼女はD分隊の方へ進路を取る。
「ミカエルより、B、C分隊へ伝達! 少し寄り道をする。D分隊が心配だ」
無線から陽気な返答。
「B分隊、了解! 姫さまの仰せのままに!」
C分隊もミカエルの容姿を茶化した返答をする。
「少尉殿は、人気がありますな」
などと、ガトリング軍曹も煽ってきた。
ミカエルが先頭に出る。
「バカどもは、少し口を慎め! 遅れるな! ついて来い! 道は開いてやる!」
路地裏が飛び出す。
交差点の先に戦車が見える。
いち早く気がついた帝国歩兵の射撃。
ここぞとばかりに大量に、そして浴びせるように撃ってきた。
射線は、ミカエルたちを捉えていた。
しかし、弾丸は途中で止まる。
帝国兵は驚きを隠さない。
続く銃撃が止まる。
ミカエルは防御術式で防いだ。
通常であれば、銃弾は弾けて射線をそらし、術者を守る。
術式の限界を超える衝撃が加われば、術が弾けてチリになる。
それが普通だ。
ミカエルの防御術式は違った。
それは、まるで蜘蛛の巣のように銃弾を絡めとる。
全ての銃弾が宙に絡めとられている。
帝国兵が浴びせるように撃った弾の数々が無駄になった。
戦車の砲身が慌てるように音を立てた。
砲口がミカエルを捕まえた。
地響き!
そして砲弾!
3台の戦車の同時砲撃。
それを成した帝国兵の練度は高い。
だが、それも無駄になった。
今のミカエルにとって銃弾も、砲弾も違いはない。
全ては、彼女の術中の中だ。
しばらくすると、推進力を完全に失った砲弾は、乾いた音を立てて道路に落ち、瓦礫の仲間に加わった。
ミカエルの仲間たちから口笛が聞こえる。
そのことに彼女は眉を寄せた。
「総員、銃を構え!」
ミカエルが銃を構える。そして、展開している術式を組み替えた。
身体が知っていた高度な術式だ、この先の戦いでいつのまにか使っていた術式。
「撃て!」
一斉に銃弾が走り出す。
その先で、ミカエルが編んだ術式を銃弾がくぐり抜ける。
そして、威力が格段に強化される。
貫通と爆裂、加えて属性までも、その属性は光、全ての術式の威力が増す。
戦車の厚い装甲を、ミカエルたちの銃弾が抜けていく。
蜂の巣になった戦車は、爆音と共に砕け散った。
帝国兵の生き残りが散り散りに退却していく。
その内、一人が無線で報告。
「司令部へ報告。市街地北東部に『魔女』出現!」
風が砂煙を流すころ。
帝国兵の姿は消えた。
ミカエルは、D分隊との合流を急いだ。
彼女の予想通りの場所に彼らはいた。
ガラスのないショーウィンドウ。
裸のマネキンが道端に転がる。
壁が崩れていた。
砲撃の跡だ。
瓦礫の隙間から赤い液体。
黒ずんだ赤。
人の血。
ジャリという音。
ミカエルは瓦礫を踏み、かつての衣料品店に入る。
店内は、とても物騒で商品はない。
陳列棚が乱暴に倒れていた。
入り口は潰れ、出入りはガラスのない大きなショーウィンドウからしか出来ない衣料品店。
そこに彼がいた。
無線でミカエルを呼んだ彼だ。
ガトリング軍曹が首を振る。
「少尉殿……手遅れです……」
ミカエルは知っていた。
すでに多くの兵が戦死している。
今の彼女は強い。
それでも、全てを抱えきれない。
抱えきれないのだ。
彼の片腕はすでにない。
残った右腕が、わずかに動く。
ミカエルは、彼の傍らによって顔をのぞく。
彼の声。
「少尉殿……敵は?」
ミカエルは、彼の頭にそっと手を置く。
「ああ、よくやった。貴官ら、D分隊は見事、敵を撃破だ」
彼女はウソを言った。
それは、彼のこの表情を見たかったからだ。
片腕を失い。
口元から血を流す彼が表情を緩め笑う。
「帝国の奴ら、油断しすぎですよ。そういえば、さっきから分隊長殿の姿が見えません。それに、他の奴らも」
「貴官の分隊長が小官を呼びにきた。寝ぼすけを連れて来いと、アイツは言っていたぞ」
「分隊長は酷いですよ。僕を置いていくなんて」
一時の間。
ミカエルたちは、ジッと待った。
「少尉殿、申し訳ありません。手を差し出したんで、起こすのを手伝ってください。どうも、腰が抜けたようで」
ミカエルには、とても動けるようには見えなかった。
どうやら、彼の痛みは限界を超えたらしい。
脳の防衛本能は、時に痛みが限界を超えると、それを遮断する……
「少尉殿?」
彼は不思議そうにしている。
身体の半分は、あの世に行っている状態。
彼の意識は、それでもハッキリしているように見える。
「少尉殿も意地悪はやめて下さい。右腕はどうも動かないようで」
彼の残る右腕は力なく垂れていた。
辛うじて、胴体と繋がっていた。
ミカエルは、しっかりと彼を見つめる。
「だから、早く左腕を」
「……!」
彼女には、彼の左腕は見えない。
見えないのだ。
ミカエルの仲間たちも彼の左腕は見えない。
それもそのはずだ。
彼の左腕は、もう無いのだから……
それでも、彼の目を見れば分かる。
彼は本気だ。
ミカエルは、彼の幻の左腕を掴んだ真似をした。
彼女はウソばかりつく自分が嫌になる。
それでも、彼は嬉しそうに笑う。
血の流れ出る唇が緩む。
「残念だな……」
彼がゴホッと嗚咽する。
「どうした?」
ミカエルは、幻の彼の左腕を掴んで離さない。
「どうも左は動いても感覚はない。せっかく美人の少尉殿の手を握れたのに……」
「ああ、いくらでも握れ……」
ミカエルは、彼の幻を手放し、そっと寄り添う。
「こんなもので良ければ、いくらでもだ……」
ミカエルの言葉に彼は返事をしない。
彼の開かれたまぶた……
彼女は、それをそっと閉じてやる。
唇から流れた血の後。
彼女は小さな綺麗な指で拭き取った。
そして、彼を抱きしめる。
「他の者もヴァール宮殿に旅立った。先にいって祝杯をあげておけ。小官もきっとそこへ行く」
ミカエルは、彼を抱きしめ、耳元でそうささやいた。




