第五五話 トラウマ
ミカエルは廃坑の前に来た。
彼女に気負いはない。
やるべき事が決まっているからだ。
中に入り人を救う。
フランシス准尉と亡命者の子ども、ノアを二人を救出すること。
不思議と生きているという確信があった。
命を奪うのであれば連れ去りはしない。
それが、ミカエルが合理的に導き出した答えだ。
彼女は耳元から撫でるようにして髪を整える。
銀白色の髪が暗がりの中、ふわりと揺れて整った。
廃坑の入り口を見据え、ミカエルは口を結ぶ。
その穴は、朽ちた人工物の代わりに蔦の緑で飾られていた。
暗い穴が果てしなく続く。
奧の景色は、彼女ですら見ることは叶わない。
まつ毛の長い瞳は宝石のように美しい。
その縁を彩る二重に深く影を落とす。
彼女の瞳は、暗がりで輝く猫の瞳のように蒼く輝く。
そして、ミカエルは穴の中へと消えていく。
暗い闇に飲み込まれ、姿を消した。
迷宮は、久方振りに、客人を向かい入れた。
認識の扉が──
──今、開かれた……
廃坑の景色は想像と違う。
立っていた彼女は、コンクリに前のめりに寄りかかっている。
急激な変化。
夢から覚めた時、現実を認識するときの感覚。
ひどい耳鳴りが襲う。
風景が揺らぐ。
色が混じり合う。
耳鳴りは、やがて音となる。
聞き慣れた戦友たちの声、戦士してヴァール宮殿に旅立ったはずの者たちが、彼女を取り囲んでいる。
爆風で吹き飛んだガラス窓。
コンクリの壁には、幾つもの銃痕があった。
上の空だった心が、ここへと引き戻された感覚だ。
ミカエルは思い出した。
ここが、どこで、自分が何をすべきなのかを思い出す。
さっきまでの目標は彼方へと消えゆく。
ミカエルは夢から覚めた──
──全てが幻覚だと気がつくことはない。
なぜなら、全ては触れることができ、感覚がそこに存在していると伝えてくるからだ。
──ポートランドの戦場
ミカエルは、最悪な記憶の中、悲惨だった市街地戦の只中にいる。
唯一、本当の現実と違うのは、彼女は少女の姿のまま、ポートランドの戦火の中にいた。
「少尉殿、中隊長より、戦線死守の命令です!」
無線技師の顔は青ざめている。
建物の五階に陣取ったミカエルの分隊。
割れた窓の先、通りの先には、帝国軍。
それは歩兵ではなく、戦車の列。
ミカエルは、眉を寄せる。
「無線をよこせ!」
技師からマイクを奪い取ると、彼女は捲くし立てるようにして言う。
「本部、本部! こちら202陸戦歩兵小隊。敵戦力に戦車を視認、数は最低10両以上。規模、中隊規模以上と想定。戦線の後退許可を求む、応答せよ!」
無線スピーカーに雑音が入る。
砂嵐のような、嫌な音が一時続き、甲高い下手くそな笛の音が混じると応答が無情に響く。
「こちら本部。要請は許可できない。戦線を死守せよ! 繰り返す戦線を死守! これは、絶対だ……後退は許可しない」
「ばかな! 我らは陸戦歩兵小隊だ! 魔道小隊ではない! 一般兵も混じっているのだぞ!」
ミカエルの握るマイクが震える。勢いで床に投げつけるのを彼女は思い止める。
「本部! 本部! こちら202陸戦歩兵小隊。我らは歩兵小隊だ! 魔道小隊ではない! 繰り返す我らは歩兵小隊だ! 無駄死には容認できない! 後退を許可せよ! 友軍との合流の許可だ!」
ミカエルの無線。
彼女の小さな背中を仲間の兵たちは渇いた口を結びジッと見つめる。
無線からの応答、今度は早い。
「こちら本部……戦線を死守せよ! 戦線の死守……時間を稼いでくれ、民間人の非難が済んでいない。主力は民間人の保護を優先している。だから、すまない後退は許可できない。そこで、絶えて盾となってくれ……以上」
ミカエルの肩が震える。
彼女は。心の中で「クソクソくそ!」と何度も、何度も叫んでいた。
嫌な既視感。
隣にいる無線兵も、彼女を見つめる仲間たちも、みんな死んでしまう嫌な既視感が彼女を襲う。
軍隊とはなんだ?
国を守るために存在する暴力集団だ。
侵略軍と堂々と名乗る軍隊は、世界には存在しない。
軍隊とは国を守るため、そして国民の生命と財産を悪漢共から守るために存在しているはずだった。
少なくともミカエルは、そう信じている。
だからこそ、ミカエル・ダヴェンポートは、その命令に従うしかない。
彼女は小さくて可愛らしい口を目一杯開いて息を吸う。
そして、マイクと向き合う。
「本部。こちら202陸戦歩兵小隊。命令を受託した……」
「こちら、本部……命令の受託……了解。すまない……幸運を祈る」
「こちら202、生きて帰ったら酒をおごれ。以上」
「こちら本部、酒は中将におごらせる。だから、遠慮はするな、帰ってこい、以上」
ミカエルは、マイクを無線兵に返した。
そひて、また、彼女は命令を下した。
「小隊各位! 本部より戦線死守の命令を頂戴した。民間人避難の時間を稼げ! 我らが盾となって市民を守る。誇り高い任務だ! 心せよ!」
ミカエルが、小銃を構える。
脇にいるガトリング軍曹が、ミカエルの言葉を補完する。
「我らが小隊長殿は、作戦成功の褒美の確約を得たぞ! 中将殿が、全員にたらふく酒を奢ってくれるそうだ! だから、野郎共、ペラペラ装甲の帝国戦車を銃弾で穴だらけにしてやれ!」
隊員たちが盛り上がる。
それは、絶対にカラ元気だった。
強がりに違いなかった。
そんな馬鹿共がミカエルは、たまらなく愛おしく好きだった。
──アザゼルは書斎にいた。
クロノノート真教の筆頭、アザゼルは、かつての幻想の中にいる。
彼にとって、これは既知の体験。
現実ではないという強い認識はある。
それでも、この幻覚は強い。
テーブルに置かれた冷えたコーヒー。
その味が、とても懐かしい。
妻のコーヒーだ。
ケトルでお湯を沸かし、インスタントの粉を溶かしただけの安ぽい味……その味は、ここでしか味わえない唯一無二……
パソコン画面にはメールが開かれている。
抗議のメールだ。
「どうしたの? 難しい顔をして?」
妻が話しかけて来た。
時計を見ると正午が近い。
幼稚園に通う息子を迎えにいく時間だ。
これは幻覚だとアザゼルは知っている。
それでも、いつも同じ返事をしてしまう。
「発表した論文の指摘だよ。私の実験結果が捏造だというひがみさ」
妻は興味が無さそうだった。
「テレワークって不便よね」
彼女は言う。
決まってアザゼルは、言い返す。
「研究室にこもるよりはマシだろ」
「独りぼっちが嫌いな、あなたには無理よ」
と彼女は言った。
アザゼルはメールの返事に迷う。
彼の実験結果に捏造はない。
ただ、メール相手が根拠として示す実験結果が興味深い。
粒子の位置が、彼が示した理論予測値と見事なまでに違う。
まるで、メール送信者自身の悪意が、そのまま反映されているかのようだった。
彼は、いつのまにか研究に没頭していく。
人の意識と観測が、粒子の位置決定に影響を与えている?
その疑問は、たまらなく彼を夢中にさせた。




