第五四話 迷宮の入り口
事象の地平線──
──観測不可能な地平の彼方であり概念の到達点。
科学者たちは、そこに神を夢見る。
光ですら届かぬ事象の地平線に、概念のエネルギー、魔力がわずかに触れた。
クロノノート真教の裏法師たち。
かつての科学者の末裔は、それを極めて、
神の全能を信じて疑わない狂信者たちと化している。
彼らにとっての全知とは、全ての粒子の位置と運動量を把握しているということ──知識のあるなしではない。
ただ、神は全知全能であるべき。
不確定を確定させるだけでは足りない──粒子力学では粒子は観測されるまでは確率的な状態にあり、観測された瞬間に確定する。つまり不確定を確定させるだけは『神はただ見ている』になってしまう。
そして全能のパラドックスは──
──自身が持ち上げることが出来ない石を作れるのか?
……未だ解決されておらず、裏法師たちの前に神は全貌を現していない。
裏法師筆頭、アザゼルは他の底深くまで掘られた竪穴のそばに来た。生暖かい風が吹き上げてくる。
アザゼルの耳には、声が聞こえる。
理解できない言葉。
それは空耳。
「宇宙の果てを求め、地の深くに潜るとは皮肉だな」
彼がつぶやく。
概念のエネルギー、魔法が発見されたのは偶然だった。
先駆者たちは、事象の地平線の端に触れ、それを知った。
人の観測が結果に影響を及ぼしている。
その発見。
突き詰めれば、概念が粒子に影響を及ぼしていたのだ。
廃坑は、クロノノート遺跡だった場所。
神話以前の昔、クロノノート財団が放棄した研究施設だ。
「検体の転写を急げ。数を予定より増やすぞ」
裏法師たちは作業に勤しむ。
純粋な魂たち──手足の生えた饅頭たちを、器具に入れていく。
検体とはフランシス准尉のことだ。
容姿がそっくりなアストライアの準備は整っている。
裏法師たちは、声や仕草まで彼女を真似た複製を増やすつもりだ。
『無限の冬』の五度目の顕現。
ミカエルは、より一層『終わりを告げる冬の魔女』に近づくはずだ。
絶対零度は宇宙の最果てを再現する。
そこで、出来損ないとはいえ『狼男』をぶつける。
観念が支配する人工の事象の地平線で、『狼男』と『終わり告げる冬の魔女』の出会わせ、戦わせる。
はるか太古に信じられていた神話の再現──
──なぜなら『終わりを告げる冬の魔女』の素体の概念の元には吸血鬼があるからだ。
クロノノート真教の裏法師たち、彼らは神の具現化を目指す。
筆頭の横に亡命者の子どもノアがいる。
その瞳に感情はない。
まるで機械だ。
筆頭は、ノアの手を繋ぎ奥に消えた。
彼らは、犠牲を厭わない。
むしろ犠牲は多いほど良いと考える。
大陸全土の戦禍は歓迎だ。
その先に神が具現化するのであれば、必要な生贄にすぎない。
神を手の内に収めれば、失った命を蘇らせることアザゼルの理論であれば可能だった。
アザゼルの記憶の奥深くに眠る楽園。
クロノノート真教創設以来、筆頭を務める彼にとって、その楽園の再現こそが最重要だった。
アザゼルは失った家族を取り戻すことしか興味はない。
利己的な幻想が彼をずっと支配している。
信者を騙すことに躊躇はない。
楽園を再現すれば、この悪夢は終わることに間違いはないのだから……
──フランシス准尉は監禁場所に閉じ込められたままだ。
脱出口は一つしかない。
その扉を中からこじ開ける術はなかった。
ここでの魔力は無効化されるようで、身体強化すらままならない。そうなれば、彼女はか弱い女性に過ぎなかった。
「あの子たちに頼んでみるのも……」
フランシス准尉は、椅子に座ったままテーブルにうつ伏せになった。
何もしない。
それでは変化は期待できない。
彼女は、もう一度、壁を調べることにした。
可能であれば、魔力が無効になってしまう手がかりだけでも探すつもりだった。
壁をじっくりと見る。
隅々まで……じっくりと……
指先で角をなぞる。
「ほこり一つない……」
呆れるほどの潔癖ぶりにフランシス准尉の膝が崩れた。
出入り口が一つしかない部屋。
その壁に亀裂が入る。
すぅーっと直線が引かれる。
亀裂の影が線となって現れた。
それはやがて繋がり四角を描くと穴となる。
そこから、1匹のお餅が現れた。
純粋な魂と裏法師たちが呼ぶ存在。
フランシス准尉にとっては、手足の生えたコミカルな動きをするお餅だ。
空いた穴から、彼らがヌゥーと出てくる。
そして、床に尻をついて座るフランシス准尉の手を取ろうした。
得体の知れないお餅たち……
その顔はまるでのっぺらぼうで、目は豆粒ほど小さく点でしかない。
残虐性とは遠いルックス……
「出してくれるの?」
フランシス准尉は聞いてみた。
彼女は、お餅の顔を覗くようにして見上げた。
お餅の方は、小さな口を丸くする。
豆粒の目が少し大きくなった。
そして、顔をかしげる。
だから、フランシス准尉もつられてしまう。
彼女も首を傾げた。
「助けてくれる?」
彼女は言葉を変えただけ、お餅たちは、その言葉に頷いた。
フランシス准尉が立ち上がる。
彼女の見る風景は、前と少し違う。
部屋の出入り口は、一箇所ではない。
もちろん、お餅たち──アストライアが入ってきた穴がある。
それ以外にも……もう、一箇所あった。
フランシス准尉は、念入りに壁を調べたはずだった。
実際には、この部屋に出入り口は三箇所あったのだ。
白い壁に見える薄い線。
新たに色の濃淡が違う四角い枠を彼女は目で捉えている。
その違和感を、フランシス准尉は、お餅たちが入ってきたから起きた変化と理解した。
新たな入り口を白いお餅のようなアストライアが開く。
入り口の先は、彼女には見えていない。
フランシス准尉は、アストライアたちについて行くことにした。
ここに居ても、可能性は広がらないからだ。
そして、彼女は監禁場所から移動を始めた。
そして、この部屋にあった出入り口は、最初から三箇所であったことをフランシス准尉も、裏法師たちも知らなかった。
クロノノート真教の筆頭ですら認知していないことだ。
フランシス准尉に見えた三箇所の出入り口。
その出入り口は、彼女が認識出来なかっただけ──
──アストライアたちが出てきたことで、仕組みを知り認識出来た扉だ。
フランシス准尉は、クロノノート財団が、かつて築いた認知の迷宮に足を踏み入れた。




