第五一話 超人
フランシス准尉が連れ去られた。
その事実が──
ミカエル・ダヴェンポートの胸をつらぬく。
車両の上に立つ彼女。
夜狼の屍の山が足元にはあった。
ヴァルトニーニは、彼女に落ち度はないと知っている。
状況報告は彼の義務だった。
ヴァルトニーニは言葉を失っていた。
ミカエルの立ち姿。
見たことのないダヴェンポート中尉の姿だった。
ミカエルの瞳が大きく見開かれていた
瞳孔が広がり、黒目が異様に膨張していた。つられた眉は吊り上がり、口は僅かに開いたままだった。
愕然としている亡命者の両親
後を追うのをヴァルトニーニが止める。
「離して下さい!」
両親は口々に懇願する。
彼らが行ってもどうなるとは思えなかった。
ヴァルトニーニ自身、自分を責めたかった。
出来れば彼自身、ミカエルに怒鳴られた方がマシな気分でもあった。
ミカエルがヴァルトニーニを怒鳴ることはない。
彼女は肩が震わしている。
その小さな肩が震えていたのだ。
ヴァルトニーニは、両親を引き留めることしか出来なかった。
彼は、
「申し訳ありません……気配を感じられませんでした……」
と言う。彼はミカエルの目を見ることは出来なかった。
うつむきながら目を逸らすようにして言った。
ミカエルの耳に彼の言葉は入らない。
彼女は状況を理解出来ていた。
冷静に頭が回る自分が許せなくもある。
ミカエル・ダヴェンポートは手のひらを見つめた。
手がとても小さいから、救い上げても、救い上げても、手のひらからこぼれ落ちる。わずがに残った希望すら指先の隙間をすり抜けしまう
いつも手のひらは空っぽで何も残らない。
彼女は手のひら握りしめる。
「後は任せる。他の隊員との合流を優先せよ」
彼女は言った。
そして、車両の上から飛び降りた。
ミカエルは、この先の指揮を放棄した。
軍人としての優先順位は状況把握と数的判断。
戦闘力の高い彼女はここに残るべきだった。
さらわれた人数は二人。
残った人数の方が多い。
生き残りをを合わせればもっとだ……
感情がそれを許さない。
許さなかったのだ。
森の中をミカエルは疾走する。
僅かな痕跡を見逃すな。
草木に不自然はないか?
土の一粒に至るまで──
──見逃すな!
探せ!
──5号車周辺の戦況は膠着している。
シルクハットを被り青年実業家に扮していた、『紫電の使徒』ヴィクトール。
ステッキから抜いた剣は雷光が浴びていた。
夜狼の数が増えている。
その数、4匹。
戦える人数の多かった5号車。
各国の諜報機関が偶然揃って乗車していた車両。
ミカエルの部下。
『悪夢』の精鋭四人も合わせれば、その戦闘力は、ミカエルに次いで高いと評価できる車両だ。
夜狼との乱戦は続く。
1匹に掛かる人数は7、8人と数は十分。
それでも木々が邪魔をして、数の有利を活かせない。
数の振りを嫌い夜狼が横に飛ぶ。
『紫電の使徒』ヴィクトールから見れば、真っ直ぐに並ぶ木々の間を抜けて、目の前に夜狼が現れた格好になる。
彼の狙いは、魔物の口の中、もしくは、その瞳。
夜狼の表皮は硬く、彼の剣を持ってしても通用はしなかった。
雷撃ですら、奴らの獣毛は、電気を散らし威力を半減させてしまう。
僅かな希望は、生物の構造上、柔らかいであろう場所だ。
跳ねた夜狼は、地に伏せるよう低い姿勢になった。
その魔物の姿勢が低すぎる。
瞳や口を狙う突きを放つには低すぎた。
それでも、ヴィクトールに飛びかかってくる瞬間なら……
魔物が身体を柔らかくしならせて鞭のようにヴィクトールに飛び掛かる。
正面からだ。
その残酷な顎は、大きく開かれている。
鋭い牙が覗く、その先にはどす黒い喉の奧があった。
雷光が轟く。
剣が閃光となって突きを繰り出す。
その突きが喉の壁で止まった……
ヴィクトールは手の感触でそれを知る。
ならばと電撃を喰らわせた。
体内に近い、喉からの電撃!
夜狼の獣毛に稲光が走り回る。
体内が透けて見えそうなぐらいの閃光が魔物を覆う。
焦げた匂い。
この戦いが始まって、ヴィクトールの相棒、言霊使いのアンナは小さくガッツポーズをした。
「やるじゃない、ヴィクトール!」
「そうでもないさ」
ヴィクトールは眉を寄せる。
彼の目の前にある夜狼の目が笑う。
喉の奥に突き刺した剣。
彼の腕の半分は、魔物の顎の中にある。
喉に突き刺した剣。
そこからの雷撃ですら夜狼は耐えてみせた。
アンナも異変に気付く……
「やだ……やめて……」
彼女が膝から崩れ落ちる。
その隙を狙う別の夜狼。
彼女の背後から迫る夜狼は、筋肉ダルマと化して戦っていた老人が拳を払って飛ばし事なきを得る。
それを見ていたヴィクトールの口元を緩めた。
彼にとって守るべきは彼女だったからだ。
しかし、老人に感謝を述べる間はない。
ヴィクトールは、自身の腕を諦める覚悟を決める土岐だ。
その瞬間。
腕を喰いちぎられるはずだった瞬間だ!
彼の目の前から夜狼が消えた。
5号車の戦いに別の戦力が加わってきたのだ。
その男の名は、カイ・モリス──
──『死神』(自称)モリスが現れた。
「忍法、護身正拳突き!」
モリスが高らかに述べる言葉。
そして憲兵姿で仁王立ちをした。
その身なり、容姿にミカエルの部下たちは見覚えがある。
モリスは偽憲兵として、一度、全ての車内を歩いて姿をさらしていたからだ。
モリスへの発砲許可はミカエルから出ていた。
「ヘンタイは撃って良し」との許可はあった。
各国諜報機関が共闘している戦場だ。
『悪夢』の精鋭たちは、その命令は保留とした。
ヴィクトールは、モリスの背中に語りかける。
「助かったよ。で? 君の名前は?」
モリスは一瞬躊躇した。
「名前を言えば、君を殺さなくてはならない」
『死神』モリスと告げた相手は殺す。
これが、彼の流儀だ。
ただ、名前を名乗らないの失礼でもあった。
彼の師匠は礼儀にうるさかったのだ。
だから、
「そうだな、モリスという名前だけなら別にいい」
と言う。
ヴィクトールからすれば、何が「別にいい」が分からないが、
「一緒に戦ってくれるなら歓迎だ」
と剣を構える。
誰もが、戦いの終わりは見えていなかった。
カイ・モリス、『死神』モリスがこの場にいなければ、戦いが終わる前に、彼らの命運が尽きるのが先に違いなかった。
全滅。
その更なる絶望が、ミカエルを襲うはずだった。
大爆発の際、彼は列車が大空へと高く舞うのを目撃した。
彼にとって、それは衝撃だった。
初恋相手のミカエルから言われた「ヘンタイ」を「たすけて」と記憶を改ざんすることに成功した直後の出来事だ。
ミカエルを助けると決めた直接。
だから、彼は森の中を駆けて来たのだ。
そこで、夜狼に苦戦する彼らを見かけ助太刀をしている。
それは、ミカエルを助けるという当初の目的を忘れて──
──ただ、感情のままに、彼は動いた。
襲われて苦戦している人々への助太刀。
それは、とてもカッコ良くて、彼が憧れた忍者、そのものだった。
「忍法! 護身正拳突き!」
で飛ばされた夜狼が再び襲いくる。
モリスは仁王立ちで待つ。
忍者は静寂を支配すると師匠から教わっていた。
だから、落ち着いて待つ。
そして殴る。
拳が硬い獣毛にぶつかる。
二度目の正拳で、拳に傷が入る。
浅い傷だ。
三度目も同じ。
何度も殴り、そして蹴る。
打撃で夜狼を圧倒した。
1匹、2匹とモリスが倒していく。
誰かが言った。
「『超人』モリス……」
暗黒街でカイ・モリスの名が『超人』モリスとして広まったのは、彼の戦い方からだ。
助けた相手には「モリス」とだけ告げていた。
だから、彼は『超人』モリスと呼ばれている。
夜狼との戦いに決着がつく。
命運尽きるはずだった者たちは救われた。
モリスは知らない。
それが、ミカエルの絶望を防いだことを……
それからすぐ、5号車の者たちが落ち着いた頃。
ヴァルトニーニが、亡命者の両親を連れてやって来た。




