第三九話 二人の豊穣祈願祭
ヴィクター・ハートフォード少佐。
彼にも、かつては素直で無邪気な子ども時代があった。
ヴァルトニーニと亡命者の男の子、ノアのやりとりに、ふと幼い頃の記憶を重ねる。
レオン・ハートフォード
腹違いとはいえ、同じ血を引く弟。
だが、その存在を受け入れることはできなかった。
それでも……
今、この瞬間だけは、二人は同じ景色に思いを馳せていた。
列車がまだループを始める少し前のこと……
レオンが、静かにヴィクターの前に座った。
「兄さん、ここ、いいですか?」
ヴィクターは即座に顔をしかめる。
「兄さんではない。ヴィクター郷、それか少佐と呼べ」
レオンはその態度に慣れているのか、苦笑しつつも口を閉ざした。
ヴィクターはレオンと目を合わせようとはしなかった。
車窓の向こうに、巨大な風車が流れていく。
「懐かしいですね……あの風車」
レオンは遠い目をしながら、静かに言った。
幼き日の記憶……
風車観光は王国では定番だ。
特に『金色の大海』とも称される小麦畑の風景は圧巻で、秋の収穫祭は多くの人々で賑わう。
それと並んで有名なのが、春分の日に開催される『豊穣祈願祭』
『春の魔女』を懐かしむ儀式が起源ともされる祭典で、その頃は水路沿いに並ぶ桜が美しく、人々を魅了する。
ヴィクターがまだ8歳の頃。
ハートフォード伯爵が、一人の子どもをヴィクターに紹介した。
「いとこのレオンだ。仲良くしてやりなさい」
微笑む父親に反して、母の表情は曇っていた。
それでも、小さな男の子の笑顔が、ヴィクターの疑念を打ち消した。
6歳のレオンは満面の笑みで彼に抱きついてきた。
「わあぁ! 僕と同じ金色だぁ!」
ヴィクターは、戸惑いながらも彼の手を握った。
『豊穣祈願祭』
思い出の景色は美しい、
桜散る花びらが水路を流れいくさま……
満開の桜が水面に映る光景は、絨毯のように幻想的だった。
出店の甘いおやつを、二人で分け合った。
人混みの中、ヴィクターは、確かに弟を守るように手を引いていた。
あの頃、ヴィクターはレオンの兄だった。
今のヴィクターは「権威」を渇望している。
権威に溺れる者には、二つの欲がある。
一つは、人を従わせるという優越感。
二つは、人に頼られることで満たされる自己肯定感。
この時の彼は、まだ後者だった。
幼いレオンに頼られることが嬉しかった。
自分が 「必要とされている」ことに誇りを感じていた。
……だが、その幸福な時間は長くは続かなかった。
それから数度、レオンとは王都の屋敷で遊んだ。
しかし、楽しい記憶はそこまでだった。
ある日、レオンが一人で王都の屋敷に招かれた時のこと。
無邪気だったヴィクターは、何の疑いもなく両親に言った。
「ねぇ、父さん、レオンの母さんも呼んであげてよ!」
伯爵の表情がこわばる。
「……いや、それは……」
歯切れの悪い答え。
レオンも、父のそんな姿を初めて見た。
そして、次の記憶が、ヴィクターの 「兄」としての思い出を完全に上書きした。
母の涙……
ハートフォード夫人が父の頬を強く平手打ちにした。
「その子と一緒に住むのは耐えられないわ!」
母は、はっきりとレオンを指差していた。
その日、レオンが王都の屋敷に泊まることはなかった。
ヴィクターも、その時はただ悲しかった。
しかし……
その悲しみは「母の苦しみ」を知ると、別の感情へと変わった。
「呪い」となった母の言葉
母はヴィクターに言った。
「ヴィクター、あの子には負けてはダメ……」
「あの子の半分は、あの卑しい女なのよ」
「あなたが負けるはずがないわ」
その言葉が、ヴィクターの中で呪文のように刻まれていく。
「俺は負けない」
「母の血を引く俺が、あんな半端な者に劣るはずがない」
レオン・ハートフォード。
父親は、彼に 「ハートフォード」の姓を与えた。
それは ハートフォード夫人にとっての「裏切り」だった。
そして、ヴィクターにとっては……
「父の浮気」と「母の悲しみ」を思い出させる、耐え難い存在となった。
中世でもなく、王国は一夫多妻を認めていない。
それなのに、父は「正当な息子」としてレオンを認めた。
それは、母を捨てることと何が違う?
ヴィクターは、父を尊敬していない。
だが、伯爵という「地位」 だけは認めていた。
今この瞬間、護送列車の中……
ヴィクターとレオンの兄弟は、向かい合って座っている。
レオンの視線は、変わらず真っ直ぐだ。
「兄さん」
「少佐だと言ったはずだ」
ヴィクターは レオンの目を見ない。
かつての記憶が、自分の「誓い」を崩してしまうかもしれないから。
しかし……
車窓の向こう、巨大な風車が過ぎていく。
かつての祭りの記憶。
桜舞う水路。
ヴィクターは目を閉じた。
その景色は消えた……
トンネルに入る。
ミカエル・ダヴェンポートは事態の収拾に立ち上がった。




