第三六話 日常の影
駅前通りは朝から活気に満ちていた。
荷馬車が石畳をゆっくりと進み、その横をエンジン音を響かせながらトラックが追い越していく。
軍服を着崩した男たちが、肩を組みながら笑い合い、通りの角では警官が目を光らせている。スーツケースを引く旅人は宿を探し、宿から出てくる者は、これからの旅路に備えていた。
駅前には、人々の営みが凝縮されている。
通りに面した店舗の軒先では、客引きたちが声を張り上げ、競い合っていた。
「お嬢さん、王都で話題の美容クリームはいかが? これを塗れば、意中の殿方もイチコロですよ!」
客引きの前を、ひとりの若い女性が颯爽と歩く。
流れるような足取りで通りを進み、客引きの声には軽く愛想笑いを浮かべるだけ。
それだけで、男たちは一瞬、言葉を詰まらせた。
背筋を伸ばし、長い脚をしなやかに運ぶ。
流行の装いを身にまとい、ハイヒールの音を心地よく響かせながら歩く姿は、まるで舞台の上を進むモデルのようだった。
陽の光を受けて輝く艶やかな黒髪。
まつ毛の長い大きな瞳が、街並みを悠然と見渡す。
口元には深紅の口紅が引かれ、さりげなくも意志の強さを感じさせる。
美しく着飾った彼女に、通りの視線が無意識に集まる。
しかし、誰も彼女の本当の正体に気づく者はいなかった。
彼女はベルファス前線基地に潜入していた密偵だった。
すっかり別人のように変装しているが、あの基地で給仕として働いていた若い女……
商用トラックの運転手に亡命者の情報を売った女……
彼女の名は、アンナ。
今日、駅前に来たのは買い物のためではない。
仲間と落ち合うためだった。
駅前の高級喫茶。
オイルランプの淡い光が店内を照らす。
趣味の良い木製の丁度品の数々。
ニスの厚みのあるしっとりとした輝きが店内を反射し、光と影、濃い濃淡がテーブルと椅子を浮かび上がらせていた。
珈琲の香りが室内の色を染めていく。
丸テーブルに座る青年実業家の紳士。
広げていた新聞を脇に置く。
彼はガラス越しにアンナの歩く姿を捉えた。
すると興味が無さそうにカップを手に取り珈琲を口に運ぶ。
アンナが入り口のドアが開く。
扉の鈴が静かにカランと響いた。
彼女は当たり前のように青年実業家の前に座った。
「ねぇ、ちょっと聞いてちょうだい」
アンナはメニューをボーイに指差しで注文をした。
頭を下げて去るボーイ。
彼女が話しかけた青年実業家は返事をしない。
「女の子の話は聞かないとモテないわよ」
「あいにく、君には仕事以外の興味がなくてね」
アンナは美人の顔をあどけなく歪ませた。
「仕事の話よ。だから聞きなさい」
「ほお」と青年実業家は短い相槌を打つ。
彼女はわざわざ胸の谷間に仕込んでいた紙幣を取り出す。
容姿には色気がある、だが、その仕草に躊躇はなく、どこか健康的。
「どーん!」
紙幣で扇を作り、青年実業家に見せつける。
彼は新聞を広げなおし、無関心を装いながら視線の端で彼女をとらえた。
「端金だな」
「つくづく残念な人……素直の方がモテるのよ……?! 顔は好みとか、そういうのはないから! で、で、これは、やっすい端金よ。これ、誰から頂いたと思う?」
青年実業家は、アンナを無視して新聞を手に取った。
喫茶店の時計が気になる素振りを見せた。
ボーイがテーブルにアンナの珈琲を配る。
「昨日、トラック運転手のおじさまとお話ししたのよ」
「身体を安売りするのはよした方がいい」
「あら、ヤキモチ、かわいいわね」
青年実業家は珈琲が入ったカップを乱雑に置く。
飛び散った液体が、数滴、天板を濡らす。
ボーイが、慣れた手つきで布巾を使い拭き取る。
アンナは、胸の谷間を強調するようにボーイを覗き込んだ。
「男女の話を盗みきくのは良くないわ」
彼女は悪戯な瞳でボーイを抗議した。
ボーイの耳が赤くなる。
「申し訳ありません」と声を震わす。
そして逃げるようにボーイは立ち去った。
アンナ、その背中を追うように見ながら
「基地に、商国家連合の探りが入ったわ。一応、方針通りに亡命者の情報をククルース教の信者を強調して売っといたわ」
誰が見てもボーイの悪口をヒソヒソと言っているかのように青年実業家に耳打ちをした。
「それで?」
「下ごろ丸出しでおじさまが間抜けだったからお小遣いをせびったのよ。大切なものは売ってないわ。鼻の大きな作業帽をかぶったトラック運転手のおじさま。きっと、あのおじさま、髪が薄いのよ……そうに違いないわ」
この時、丁度、駅の荷捌き場で、彼女のいう鼻の大きなおじさまは商談を装って潜入をしていた。情報を買った若い給士の女の子、その子に素性を言い当てられたとは知らず、朝の冷たい風に当てられて大きなくしゃみをしていた。ツバがかかった商談相手はいい迷惑だ。
そんなことはをアンナは知るよしもない。
話をして満足したのか彼女は肩の力を抜いて満足していた。
そして、喫茶店の時計を見た彼女は、まだ少し時間があると確信をした。
青年実業家は新聞を畳む。
「これで終わりか?」
「いいえ、乗りたい汽車が決まったのよ。ちゃんと切符を手に入れてよね」
アンナはカップの取っ手を回す。
一枚の切符が青年実業家から彼女へ差し出された。
その切符を見てアンナは、珈琲を喉に詰まらせた。
切符の時間が、彼女が苦労して入手したミカエルたちの予定。それがドンピシャだ。
「そろそろ時間だ」
青年実業家はシルクハットをかぶり、ステッキを手に取った。
「必要な荷物は、汽車に乗せるよう注文も済ませた」
「なによっ! 気取っちゃって! そういうトコがカッコ悪いわよ!」
彼女の珈琲カップは空になった。
一組の男女二人が、駅前の高級喫茶から姿を消した。
ミカエル・ダヴェンポート。
彼女の可愛らしい容姿、その似合わない軍服と相まって人目を引いてしまう。
出発前、その様子を伺うため、駅前を散歩がてらにフランシスをお供に練り歩く。
商店の売り子が、可愛らしい少女を見つけた。
「お嬢さん、王都で話題の美容クリームはいかが? これを塗れば、意中の殿方もイチコロですよ!」
驚いたフランシスはミカエルの表情を見た。
ミカエルは考え込むように、そっと、ちょこんとしたお顔の先に小さな手を当てる。
「なるほど、怪しい気配はないな……だが、一網打尽だ……」
彼女のつぶやきは小さく、そよ風がかき消してくれる。
売り子はミカエルの表情に言葉を失う。
少女には似合わない容赦ない気配が漂う。
ミカエルは、汽車の予定を調べれば分かるようにしていた。
最高機密を強調しながら戦時下に散見されるずさんな情報管理を演じていた。
せっかく頂いた許可証の数々。
王国に潜む不穏分子を、ミカエルは可能な限りあぶり出すつもりだった。
彼女の目論みどおり、甘い蜜に誘われて、各国の諜報機関が駅には集結している。




