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第三四話 ヴィクター・ハートフォード

「ほう……こんな娘が叙勲とはな……王族の方も随分と暇なようだ」


 黒いスーツ姿の男がミカエルを一蔑いちべつする。その視線は、粘つく糸に絡めとった獲物を見下ろしながら、じわりと迫る蜘蛛のようだった。


 彼は銀の懐中時計を取り出し、ちらりと確認しただけでパチンと無造作に閉じる。


 男は先頭に立つ憲兵に言う。


「ヴィクター殿、用件を早く伝えたまえ」


 言い終えると彼は、口元を冷たくゆがませ、作り物のような笑みを浮かべる。


 それが挑発であることをミカエルは疑う余地なく理解した。


「ハートフォード副隊長、そこの憲兵と身元不明の御仁を直ちに小隊本部から退出させろ」


 レオン・ハートフォード副隊長は「はっ!」と返事をし、敬礼をした。だが、いつもの教科書通りの敬礼ではなくどこかぎこちない。


 ヴィクターという名の憲兵が彼を見て明らかに笑った。


 ミカエルは、ハートフォード副隊長を憲兵を恐れるような臆病者だとは思えない。


 しかし、直ちに行動に移さない副隊長にミカエルは苛立ちを覚える。彼女のほほが、ほんの少しだけリスのふくらむ。


「急げ! 副隊長! この御仁方は、どうやらエスコートなしでは部屋を出ることもままならぬ御様子だ」


 その言葉に憲兵たちが含み笑いをもらす。


 そして、ヴィクター・ハートフォードがあざけるように言った。


「卑しい血を引く者が、正統なる後継者たる私に命令できるなどと、本気で思っているのか?」


 彼は、わざとらしくゆっくりとレオン・ハートフォード、ミカエルの大切な部下であり評価もしている優秀な部下をあざ笑いはずかしめた。


売女ばいたの息子が、ハートフォードの姓を許されているだけでも、有り難く思うことだな」


 憲兵のヴィクター・ハートフォードは、ミカエルの大切な副隊長、レオン・ハートフォードと血が半分繋がった兄である。


 さっきまではしゃいでいた男の子は、すっかり怯えてしまいミカエルの細い腰を両手でしっかり掴み背中に隠れてしまっていた。


 ミカエルは、その子の頭を撫でてやる。

 不思議と気持ちが落ち着く。


 男の子の腕が小刻みに震えているのが分かる。だが、その子の両親はジッと静かに冷静を装っていた。


 レオン・ハートフォード副隊長も握った拳を振り上げることなく、ただ唇を噛み、うつむいていた。


 軽率な行動は取らない。それは理解できる。


 だが……


 ミカエルは、かたわらでじっと成り行きを見守るマクレガー准将に、わずかに苛立ちを覚える。


()()()副隊長、この憲兵が血縁とは本当か?」


 あえて名前を呼ぶ。


 レオン・ハートフォードは一瞬驚きを見せたが、直ぐにうなずいた。


「はい、私の兄です」


 兄のヴィクターの口角がいやらしく吊り上がる。


「ほう、身分をわきまえている者はたすかる。では、亡命者をこちらに引き渡してもらおう」


 ミカエルは、マクレガー准将を見る。

 すると、この中年の准将は片目をつむってウインクをした。


 中年男の気持ち悪いウインクにグランツ中将のような愛嬌は無い。


「……つ!」


 ミカエルは驚いた猫のように身体を強張こわばらせ、鋭い視線で睨み返した。


 どうやら、この場の責任は准将が全て負うらしい。

 いや、負わせてやる……と、彼女は決意する。


「貴官は、お父上にそっくりのようだ」


 ミカエルは静かに言った。


 彼女の姿は、軍服を着ていても可愛らしい。


 だが、彼女を良く知るフランシスは、ミカエルの表情を見てギョッとした。


 ……出撃前、訓示を述べる際の作り笑い。


 フランシスはそれを知っている。


 ミカエル・ダヴェンポート


 彼女が戦う姿を後方勤務の憲兵であるヴィクターは見たことがない。


 ヴィクターには、少女の微笑みがただの「可愛らしい作り笑い」にしか見えなかった。


「そうだ、私はハートフォード伯爵の血を引く男だ」

 そう言ってミカエルへ一歩近づくヴィクターの顔には、恐れの色など一切なかった。


 そしてあろうことか、ヴィクターはミカエルに握手を求めるような格好で手を差しだす。

「軍にいるんだ、酒ぐらい飲めるだろ。今度、良い酒を振る舞ってやろう」


 ヴィクターの視線には下心が見え隠れしている。


「あーあ」

 フランシス准尉はため息を吐き出し、ひたいに手を当てた。

 それでも、飼い主を守るような忠犬の動きをするヴァルトニーニの肩に手を置くことで制する余裕があった。


 フランシスは准将の顔を伺う。

 中年の准将は、素知らぬ顔だ。


 パチン!


 乾いた音が小隊本部に響く!


 ミカエルの手がヴィクターのほほを打っていた。


 フランシスの肩がびくっと動く。

 枢密監察部の黒服たち、そして憲兵隊は口をあんぐりと開けた。


 ミカエルは、ヴィクターのほほを叩く。その手つきは、おねだりをしてきた野良犬をしつけるような毅然とした厳しさがあった。


「貴様! 小娘の分際で……」

 ヴィクターは顔を真っ赤にしている。


「クソだな」

 ミカエルは上目遣いで冷たくヴィクターを見据えた。


「今、なんと言った!」

 ヴィクターは拳を振り上げる!


「貴官もお父上同様にクソだと断じた」

 ミカエルは声は冷え切っていた。


 ヴィクターの拳が振り下ろされる。

 その勢いに手加減はない。


 だがミカエルは、ひらりと身をひるがえし、それを軽々とかわす。


 彼女の腕には怯えた男の子がしっかりと抱えられていた。その子をダンスのエスコートをするかのように優雅に誘導しながらかわしていく。


 二度、三度と殴りかかるヴィクターを男の子と社交ダンスを舞うようにしてかわしてみせる。


 見かねた憲兵仲間がヴィクターを取り押さえた。


こらえを知らぬ軽率さは、民間人以下だな」

 ミカエルは静かに言った。


 大立ち回りのダンスが楽しかったのか男の子の目に少し輝きが戻る。ミカエルが頭を撫でてやると、その子は小動物のように目を細めて喜んだ。


「大人しく亡命者を引き渡せ。これ以上の暴挙は枢密監察部として見逃せんぞ! 素直に従うなら子どもは見逃してやろう」

 黒服は上着の内側に手を入れた。拳銃をそこに忍ばせているのは明らかだ。


 それよりも、この黒服の言葉で初めて動揺した男の子の両親たちが、ミカエルには気にかかる。両親の動揺に、自分が信頼されてないと悟り、それが彼女を悲しめる。


 ポートランド市街地戦で一度、民間人の母親と父親の救出に失敗している経験が、ミカエル・ダヴェンポートにはあった……


「軍人に銃を向けるのはよせ」

 ミカエルが言うまでもない空気が小隊本部には漂っていた。


 レオン副隊長は腰の銃に手をかけている。

 新兵のヴァルトニーニの腰に銃は無かった。


 この事実は「後で叱ろう」とミカエルは心のメモ帳に刻む。


 だが付き合いの長いフランシス准尉は違う。

 彼女は既に拳銃を構えていた。


 静かに、そして的確な位置に、その銃口は向いている。

 誰もが、ミカエルの仕草一つで彼女は発砲すると確信ができる構えをしていた。


 黒服は上着からゆっくりと手を出す。

 そして、手を挙げるようにして何も持っていないことを示した。


 彼以外の憲兵たちは唖然としているだけだ。


 黒服は戦闘行為に対しては降参の意を示すも、今度は論戦をしかけたい様子だ。


 彼の表情は厳しい。


 視線を動かしミカエルの軍服に縫い付けられている階級を再確認する。


「中尉の行動は軍規違反だ。亡命者の処遇に関する管轄は憲兵隊支部にある。この事案が緊急時だとしても判断できるのは佐官以上の階級だ」


 黒服の男は一度は降参の意味で上げていた両手を下ろした。


 彼の言葉は軍規に照らして間違っていない。


 だかミカエルは、憲兵隊や枢密監察部とやらが、この亡命者たちをまともに扱うとは思えなかった。


 子どもと親を引き離す提案を堂々する者たちだ。

 とても信用出来るとは思えない。


 彼らの必死さから推測すれば、亡命者が何らかの重要な案件に関わっていると知れる。

 そこは、ミカエルには重要ではなかった。


 孤児院で育った経験からか、それともポートランド市街地戦の記憶なのか、とにかく彼女は、親子を引き離すという一点が許せない。


「御仁は、枢密監察部だったか? 部外者の口出しは許されない。ここは小隊本部、軍隊の施設だ」

 ミカエルは凛と立つ。


 黒服は、引き下がる訳にはいかなかった。

 枢密監察部の影響力は軍隊にも及ぶ。

 それは、あくまで彼らと法的に繋がっている憲兵隊を通してのことだ。


 それすら、厳密に法に従うなら憲兵本部の書面が必要だった。

 黒服が軍規を盾にするなら、結局、この場で軍人を従わせることはできない。


 だから、彼は渋々、頼るしか無かった。

 この場にいる憲兵隊。

 その中で一番階級の高い者。


 ヴィクター・ハートフォード少佐に頼るしか無かった。


「ヴィクター殿、手はず通り、法に従った行動をしたまえ」


 黒服は言った。

 わざわざ「法に従え」と強調したのは、先ほどの幼稚な振る舞いを注意したかったからだ。


 目の前に少女。

 ミカエル・ダヴェンポートは手強い軍人だった。


 ヴィクターは「ちっ」と舌打ちをした。

 黒服は顔をしかめる。

 それでも「ヴィクター殿」と言うに留めた。


「中尉、軍規に従い、自称、亡命者であるスパイの身柄を引き渡したまえ」

 ヴィクターはアゴを上げて偉そうに言った。

 黒服の小声……「余計なことを」とつぶやいたのをミカエルは聞き逃さない。


「嫌だね」

 ミカエルの一言は単なる意地悪だ。


「貴様! 上官に対する態度か!」

 顔を紅潮させるヴィクター。


 ミカエルはわざとらしく彼の制服、そこに縫い付けられた階級を確認した。


「少佐殿、失礼いたしました。ただ、小官は、司令官殿の『小隊本部に亡命者の身柄を預ける』との命を受けております」


 彼女は敬礼をしながら、マクレガー准将を見た。その時の彼女の表情、その心中はテレっと舌を出している。


 ミカエルは、責任をマクレガー准将に投げつけることにした。

 元々、彼女を巻き込んだのは准将だ。


 マクレガー准将が亡命者を憲兵隊に渡さないとの信頼がある。


 ヴィクターは「くそ!」と言う。

 そして、彼はマクレガー准将に言った。

「司令官殿に憲兵本部の権限を代行する憲兵として要求致します。そこの、亡命者を直ちに引き渡せ」


 マクレガー准将の返事は短い。

「嫌だね」

 この場をずっと見守ってきた准将は、ヴィクターを揶揄からかってみたかっただけだ。


 ヴィクターの顔は茹でタコのように赤い。タコ好きならたまらない赤さだ。


「司令官殿!」

 流石のヴィクターも准将には敬礼を忘れない。


「司令官殿! 理由なく命令を拒絶されますと、嫌疑を枢密院に報告いたしますよ」


 ヴィクターの言葉に威厳はない。


 なによりも言葉に正確さを求める軍人なら、こう突っ込むだろう。


「ヴィクター少佐、嫌疑とは何かね?」

 マクレガー准将の更なる意地悪。


 ヴィクターの赤さは食べ頃を超えて茹ですぎだ。


「少佐は放っておこう」

 ついにヴィクターは准尉に無視される存在になってしまった。


 准尉は黒服と向き合う。

「ダヴェンポート中尉には、亡命者の王都への護送を命じる予定だ。その身柄は、王宮にて審議される」


 准将は命令書を出した。

 驚くべきことに、王宮承認の印がそこにはあった。


「手際が良すぎる!!」


 この場にいる者たちの感想だ。


 皆が驚いている中、ただ一人、ヴィクターだけは、「命令書?」とつぶやき何やらふところを探っている。


 書類が王都と行き交うには、どんなに急いでも三日はかかる。

 亡命者拘束から、まだ半日も経っていない。


 黒服が准将が見せびらかした命令書を取ろうとする。

 それを、ひらりと准尉はかわす。


「命令書を渡すのは君じゃない」

 マクレガー准将は、命令書をミカエル・ダヴェンポートに手渡した。


「命令書ならここにもあるぞ!」

 勝ち誇った大声!


 ヴィクター・ダヴェンポートは、鍋から出たタコのように大喜びだ!


「憲兵支部発行『亡命者を憲兵隊に引き渡せ』と命じる書面だ!」


 フランシス准尉は、ミカエルから子どもを引き取るとベンチに座った。その子の相手をヴァルトニーニもする様子だ。


 レオン副隊長の「兄さん……」と言うつぶやきはとても悲しそう。


 ミカエル・ダヴェンポートは吹き出して笑うのを堪えた。


「命令書とは深刻だな……まさか、そこにハートフォード伯爵代行のサインが……」

 ミカエルは笑いを堪えているので目に涙がたまる。それを隠すようにうつむくから迫真の演技になってしまった。


 黒服の男の子たち、枢密監察部はお互いが耳打ちをすると小隊本部から出ていった。


 ヴィクターは、すっかり調子を取り戻すと、お高そうな万年筆を胸のポッケから取り出した。


 そしてサラサラとサインを入れる。憲兵仲間たちは、それを心配そうに見ているだけだ。


「ハートフォード伯爵代行のサイン入りの命令書だ。さあ、亡命者を寄越せ!」


 ヴィクターが堂々と差し出した憲兵支部発行の命令書。

 それを、ミカエル・ダヴェンポートは受け取った。


「本当にサインが入ってる」

 彼女の命令書を持つ手がワナワナと震える。


「中尉……あまり、意地悪しては可愛いそうです」

「兄さん……」

 見かねたフランシス准尉がミカエルから命令書を取り上げ、ヴィクターに返した。


 ミカエルの笑顔が弾けた。細い指で涙まで拭いている。


「貴官に説明をしてやる。准将の命令書は、王宮承認だぞ」


 憲兵仲間達が寂しそうに小隊本部から出て行った。


「この命令書の何がいけない」

 ヴィクターは諦めが悪い。


 ミカエル・ダヴェンポートは可哀想な彼に言った。


「……貴官は王宮承認の命令を取り消すのか? それが本意なら、その命令書を王宮に差し出してやろう……ハートフォードの名が入った命令書だ……さぞ、お父上もお喜びになるだろう……」


 ミカエルはお馬鹿な子を叱るようにヴィクターの肩に手を置いた。


 ヴィクターは取り敢えず命令書を破り捨てると肩を怒らせながら小隊本部から消えた。


 散らかった命令書を片付けたのはレオン副隊長だ。

 彼はとても寂しそうに「兄さん……」とつぶやいた。

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