第三十話 朝
ミカエル・ダヴェンポートの朝は早い。
彼は目覚まし時計の音は聞いたことがない。
なぜなら、自ずと決まった時間にベットから飛び出るからだ。
洗面所に向かうと、素早く歯を磨き髭をそる。
薄暗い部屋に戻ると、キッチンの蛇口をひねる。
そして、水をコップに注ぐと、それを飲み干した。
次に、壁に掛けてある上着をつかむ。
それをスウェットの上に羽織った。
まだ揺れているハンガーを背中に宿舎の扉を開く。
早朝の散歩だ。
ガチャリという音が外に響く。
小鳥たちが一斉に羽ばたいた。
通りに出ると自転車の音が遠くから響いてくる。
朝霞に覆われた街はまだ寝静まっていた。
ブレーキの甲高い音が彼の前で止まった。
新聞配達の少年だ。
彼から朝刊を受け取るとミカエル・ダヴェンポートは公園を目指して歩き出した。
これが官舎に住まう時の彼の日課になっていた。
狂うことなくそれをこなす彼。
ミカエル・ダヴェンポートの朝は早かった。
要塞攻略戦の終了と共に『悪夢』の面々は、常駐先であるベルファス前線基地に帰還していた。
軍人の仕事は戦争だ。
その先にある交渉は外交部に任せるしかない。
帰還して数日が経っていた。
夜明け。
小鳥たちが騒ぎ始める。
朝もやの中、自転車の音。
朝刊がポストへと配られていく。
やがて、活気に満ちるであろう静けさが広がっていく。
いつの間にか、官舎の窓枠に二匹の小鳥の姿があった。
小鳥たちは、互いにさえずり合うと首を傾げ合う。
その窓ガラスの向こう、部屋の中に少女がベットに寝ていた。
彼女は、ふわふわ毛布にくるまれ、もぞもぞと寝返りを打っていた。時節、眠気と戦っているのか「んん……」と小さくつぶやくも、顔を埋めるように毛布に潜り込んでしまう。
窓枠の小鳥がチュンチュンと心配そうなさえずり。
透き通ったスポットライトのような朝陽は、明るくベットを照らし、窓枠の影をそこに映し出す。
毛布の端から出た銀白色の髪が艶やかに光っていた。
もはや、ミカエル・ダヴェンポートの朝は早いとはいえない。
要塞での『夜のプリマドンナ』『終わりを告げる冬の魔女』の顕現。その後の彼女は、朝を迎えても姿は少女のままだった。
それは、ミカエルが力を制限したせいか……
それとも、彼女自身が彼を受け入れたのか?
その真偽は定かではないが……
ミカエルの姿は少女のままであった。
ついに目覚まし時計が鳴った。
やかましいベルの音。
窓辺の小鳥は慌てて羽ばたいた。
毛布から伸びてくる細い腕。
その手が枕元をまさぐる。
目覚ましを見つけると雑に叩いて止めてしまう。
静寂が戻る。
ミカエルは、しばらく目を閉じたまま微動だにしなかった。
それでも半開きの目でふわりとベットから足を踏み出す。そして、小さくあくびを漏らしながら歩き始めた。
歯磨き、そして髭剃りは手に取ったけど元に戻す。
そして、鏡……位置が高く、見えるのは寝癖がついた頭頂部。
昨日用意しておいた木箱をひっくり返し踏み台にする。その上に乗ると、ようやく自分の顔が鏡に映った。
ふんわりと垂れた眉。
潤んだ瞳が伏目がちになる。
改めて元に戻っていないという実感。
寝癖のついた長い髪。
これを整えるのがひどく面倒だと彼女は思っている。
フランシス准尉から借りたクシで髪をとかす。
ほほがピクリと震える。絡んだ髪にクシが引っ掛かったのだ。
ハサミで切ろうにも刃が立たない。
やわかそうで芯のある髪。
ある程度、髪を整え終えると髪留めゴムでまとめた。
寝巻代わりにしている袖が長すぎるスウェットの端を指先でつまみながら上着を無造作に羽織る。
首元が少しズレたスウェットのまま、上着の丈も大きすぎる。
それをミカエルは気にする素振りもなく官舎の扉を開いた。
外に居た兵士が驚く。
丁度そこに居ただけなのか、そうでないのかは、ミカエルに分からない。
その兵士は視線のやり場に困った様子でぎこちない敬礼。
「お、おはようございます。ダヴェンポート中尉でで」
兵士は舌を噛み、言い直そうとする。
そして彼の手には封筒があった。
ミカエルはわずかに眉をひそめ、吐息混じりに
「はぁ……」
とこぼす。それと同時に肩を落とすと彼女のうなじが少しだけあらわになった。
ミカエルが正気を取り戻すと目の前に兵士が封筒を差し出していた。
それは、正式なものに見える。
だが、彼女は、それを装っている可能性を否定出来なかった。
なぜなら、昨日、くだらない文章をいくつか読まされたからだ。
だから、ミカエルは
「軍務に励みたまえ」
と言うだけに止める。
差し出された封筒は放っておいて、玄関前に置かれた朝刊を拾う。
その間、兵士は棒立ちだ。
彼をチラリと彼女は見る。
「正式なもので基地にて受け取る。だから去りたまえ」
彼女は扉をガチャリと閉めた。
日課だった朝の散歩をする時間はない。
ただ、ここから準備を進めれば基地には定刻に顔を出せる。
ミカエルは着替えはじめた。
女性用下着は胸を包むものだけに止めた。
着用しなければ動きに支障が出てしまう。
それ以外は以前のとおり。
いつもとの姿になっても準備万端というわけだ。
その際、胸の下着は破れるだろうぐらいにしか考えてない。
制服の上着とズボン。
丈の合わないままではだらしがない。
どちらも、裾を折り曲げて巻くようにして丈を整えた。
腰に巻いた拳銃のホルスターのバックルを調整し固定する。
そして拳銃を手に取ると弾倉を引き抜き残弾を確認した。
弾丸は綺麗に収まっている。
ただ、一発だけ足りない。
この銃は帝国要塞司令官、リンツ・ベッカーの遺品だ。
あの最期、ミカエル・ダヴェンポートに託された拳銃だ。
弾丸には魔術刻印がエンチャントされている。
見たことない術式が刻まれていた。
要塞の大広間でミカエルがそれを見た時、思わず苦笑した術式だ。
『無限の冬』の中、絶対零度で守られていた『終わり告げる冬の魔女』ミカエル・ダヴェンポート。
その彼女の本能が、少し厄介な術式だと告げてきた威力。
リンツ・ベッカー。
彼がその気であれば、『悪夢』の部下の何人かはあの場で命を落としていたかもしれなかった。
弾丸には『撤退する部隊には手を出すな』というリンツ・ベッカーのメッセージが込められていたのだ。
それを読み取るであろうというミカエル・ダヴェンポートへの信頼も垣間見える。
「命を数えて軍を動かす奴が、情に訴えかけてきやがる」
ミカエルは、弾倉を拳銃にはめた。
結果、彼は、あの時、帝国軍の要塞からの撤退を何も邪魔するこおなく見送った。後から、制圧部隊を連れてきたステラにも追う必要もないと進言もした。
「リンツ……この貸しは、いずれ返して貰うぞ」
ミカエルは拳銃をホルスターに戻す。
そして彼は基地に行く。
ベルファス前線基地には片付けなければならない残務がたくさん残っていた。




