第二九話 戦争のラブレター
要塞の結界は凍りついている。
それが、遠目にはレースカーテンのように見えていた。
そばにくると霜の結晶が絡み合って蜘蛛の巣のようになっている。
天井に向かうほどそれは濃くなり、地上は薄く、人が通り抜けるのに支障は無いように見えた。
渓谷に挟まれた地形……
要塞のすぐそばまでミカエルたちは来ている。
そこは、本来であれば射線が集中する絞殺点だ。
『無限の冬』の到来で帝国要塞は沈黙している。
前に立つと感じることがある。
これは、誰しもが『狙われている』という実感を持つ。
要塞を覆う容赦ない沈黙、そこから息を殺して獲物を狙うヘビのような視線を周囲から感じる。
そしてここが絞殺点だと思い出させるのだ。
『夜のプリマドンナ』『冬の魔女の顕現でミカエル・ダヴェンポートの背中は、小さく華奢になっていた。だが、その背中の後ろで隊員たちが彼女の血が刻印されているロザリオをギュッと握りしめていた。
丁度、その頃、帝国の要塞の司令室に『天眼』のクライブの姿があった。
飾り気のない室内。
部屋の中央の作戦台には地図が広げられている。
冷たいコンクリの壁。
蛍光灯の灯りが揺らぐ。
暖房の効いてない部屋。
外の寒さそのままだ。
帰還したクライブを皆が注視した。
司令官は座ったまま背中で彼を出迎える。
「理由がなんであれ、生還した兵を貶める趣味は私にはない。よって、まずは賞賛をしよう……クライブ大尉、無事の帰還を喜ぶ」
司令官が立ち上がる。
青白い肌が不健康に見える。
「司令としてではなく、リンツ・ベッカー個人として意見を述べよう」
要塞司令官、リンツ・ベッカー、彼は立った。
よく手入れされた靴は、蛍光灯の光を反射する。
そこから広がる影は、足元の影は幾つにも広がり形がぼやけていた。
司令官はクライブと対峙すると拳を握る。
それに歴戦の勇士の雰囲気はなく、骨ばった小さくて固い拳だ。
「話は後だ……まずは、拳を受けてもらおう」
驚いたマリーがクライブを見る。
『天眼』のクライブは覚悟を決めていた。
彼は口を強く結ぶ。そして、要塞司令官、リンツ・ベッカーから目を逸らさない。
リンツはクライブの頬を殴った。
鈍い音。
マリーの表情がクライブの痛みで歪む。
司令室で動じたのは彼女だけだった。
クライブの配下であるイズモは、主人が殴られた事実を前に動く気配はない。
そして、司令室にいる者たちも平然としていた。
クライブの唇から血が流れる。
それを彼は軍服の裾で拭いた。
「済まないが、俺は貴官を殴ってはやらないぜ」
「礼はいらん。責任の所在を明らかにしただけだ」
クライブが口角だけをわずかに上げて「ふっ」と短く笑ったのに対して、司令官は片眉を上げて応えた。
彼らは互いに多くの犠牲を払いすぎていたのだった。
リンツ・ベッカーは教師ができの悪い生徒を鼓舞するようにクライブの肩を軽く叩く、そして……
「次は勝てそうか?」
と言った。
クライブの返答は、たった一言。
「時間が足らない」
「それは承知している……時間は確保してやる。その程度の手土産は用意しているのだろう?」
要塞司令官、リンツ・ベッカーは、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
クライブがうなずく。
この光景を最初から眺めていたトウノ少佐は、司令から渡された封のしてあるメモを思い出した。
そのメモは、彼のポッケに入っている。
要塞攻略戦、その決着は、リンツ・ベッカーとミカエル・ダヴェンポートの双肩にかかっていた。
要塞の通路は意外なほど狭い。
足音は壁に吸われて響かなかった。
窓一つない通路を抜ける。
案内役の帝国兵士。
最初こそ
「こんな……子どもが……」
とミカエルを見た感想を漏らしていたが、その後は一切の言葉を発することはなかった。
先頭を歩くミカエル・ダヴェンポート。
少女が歴戦の猛者を引き連れるさまは、騎士団に守られている姫のように見えないこともない。
だが、丈の合わないぶかぶかの軍服を着ていたとしても、
また、美しい銀白色の髪が柔らかく揺れる様が、どんなに幻想的だったとしても、
彼女の確固たる自信が彼女の中にいる彼から滲み出て誰も侮ることはない。
姿や仕草がなんであれ、彼女は軍人であった。
帝国兵が彼女を鋭く見る。
そして扉が開かれた。
その先は、大広間だ。
帝国軍人たちが居並ぶ、その奥に司令官、リンツ・ベッカーは座っていた。
ミカエルの可愛らしい顔が歪む。
それは不快を示したのではない。
場の空気。
そこには確かな圧がある。
居並ぶ帝国軍人たちの覚悟が垣間見える。
圧倒的な力を前に恐怖し逃げ出す人は確かに存在する。
それが普通だと断言してもいい。
生きることこそが命の本質だからだ。
だが、ここに人はいない。
彼らは、生きることより使命を果たすことを優先する軍人だからだ!
大広間には死を覚悟している者たちが居並んでいた。
ミカエルは、優雅な手の仕草で、背後の仲間たちを抑えた。
それを、ガトリング軍曹たちが小銃を構える前にしてみせた。
『悪夢』の隊員たちは、ここに来る際、銃火器の携帯を許されていた。
その時からミカエルは、それが気に入らなかった。
要塞の結界の外。
『無限の冬』の顕現と、その影響下にあった銃火器の類は、その性能を失っている。
それを知ってか知らないでか、どちらにせよ銃火器の携帯を許した。その判断が、ミカエルには気に食わない。
その判断を下した男が、ミカエルの前に鎮座している。
長テーブルの端の上座。
そこで天板に肘をつけ、両手の指を組みアゴをのせる男。
要塞司令官、リンツ・ベッカーだ。
「『悪夢』、貴官とは士官学校での交流会以来だな……ミカエル・ダヴェンポート中尉……」
素っ気ない白いメラミン樹脂板が天板に貼られた長テーブル。
そこに、机上模擬戦の軍略地図の幻覚がミカエルには見えた。
「リンツ・ベッカーだったか?」
実際、ミカエルはリンツのことは忘れていた。それよりも社交的なカサラギのことは良く覚えている。ダヴェンポートのことを良くからかってきた社交的でムカつく奴だと彼女は記憶していた。
「どうやら、あまり覚えていないようだな。模擬戦は、すべて私の勝利だったはずだ……では、カサラギのことなら覚えているか?」
「ああ、ムカつく奴だ」
「そうだ社交的なアイツだ。そして私の親友だ」
リンツ・ベッカーは、丁寧な手つきで、駒を一つテーブルに出した。
それが、作戦地図に配置される駒だとミカエルもすぐに分かった。
リンツは、せっかく立てた駒を指でコツンと倒す。
「今頃、ヴァール宮殿は大盛り上がりだ。貴官の国、王国兵とて宮殿で満足していることを保証しよう。なぜなら、ヴァールにはカサラギが逝っているからな……」
リンツの指で弾かれた駒は倒れたままだ。
それを立つことは、もう決してない。
「カサラギはこの戦いで戦死した……貴君は、相変わらずだな。出世が遅いのも、その短所のせいだろう。兵士は数だと……認識をすることだ」
長い沈黙。
無音の中、ミカエルの脳裏に士官学校時代、帝国との交流会の風景が浮かぶ。
確かにリンツとの模擬戦は全敗だった。
冷徹な戦い方。
犠牲を計算しながら確実に削ってくる戦法。
徹底した戦場の数値管理。
コラテラルダメージを念頭に置きつつ交換比で常に優位に立つ戦略は、正に軍事教本通りで冷徹だった。
「そんなに気に病むことはない。あの老ぼれ、グランツ中将も戦死したのだろう?」
リンツ・ベッカーは姿勢はそのまま、指を組んだまま笑う。
要塞司令官はグランツ中将を『老ぼれ』と言った。
挑発だ!
ミカエルの頬がふくらむ。
だが、それも一瞬。
グランツ中将は要塞攻略戦の総司令官だ。
軽々しく生死を口にしてはならない存在。
ステラが二回目に放った『天雷』
そして、その暴発と後に続く惨事に巻き込まれてグランツ中将は戦死をしている。
王国軍内では『死亡推定』扱いだが、ミカエルの中では戦死だった。
総司令官の戦死。
その時点で王国軍は敗戦していたと論じることもできる事実。
確かにその後の指揮を引き継いだステラの平文無線の最中、口にしたグランツ中将の『死亡推定』を帝国側が傍受していてもおかしくはなかった。
しかし、なぜ、今頃、そこにこだわる?
ミカエル・ダヴェンポートは疑問に思った。
「『悪夢』……沈黙は肯定だぞ」
要塞司令官、リンツ・ベッカーは念を押した。
ミカエルには、これ以上、付き合う必要はなかった。
彼女は、小さなアゴをわずかに上げ、凛とした瞳で要塞司令官を見据える。その仕草こそ愛らしいが、銀白色の髪が、魔力をわずかに帯びて輝き始めていた。
「無駄な抵抗は許されない。直ちに降伏することを勧告する」
彼女は冷たく言い放った。
要塞司令官も負けていない。
「『グランツ中将戦死』至急、電報を本国に打て! 一刻の猶予もないぞ!」
その言に事務官が走る。
ついて行こうとするトウノ少佐を司令官が「預けたメモが必要だ」と言い、引き留める。
「何を今更……」
ミカエルは、要塞司令官のこだわりに呆れた。
「重要なことなのだよ……ダヴェンポート中尉。あの二度目の極大魔法を暴発させたのは我々だ。そこは認めたまえ」
要塞司令官は帝国側の呼称が定められていない『天雷』のことを極大魔法と言った。そして暗に『グランツ中将の死』も計算の内であり、それを狙う意図もあったという含みを持たせている。
「あの血気盛んな老ぼれのことだ、どうせ前線に堂々と立っていたのであろう?」
リンツ・ベッカーは腰のホルダーから銃を抜く。
それを静かに天板に置いた。
なんの装飾もない質素な拳銃。
それが倒されたカサラギ中佐を示す駒の横にある。
ミカエル・ダヴェンポート。
彼女の髪の輝きが強くなる。
絶対零度とはいかなくても、要塞全体を極寒で包み込むことはできる。氷点下数十度の中、特殊な防寒装備も着ていない彼らは生きていけるだろうか……いや、それはないとミカエルは確信できた。
「無口な奴だな……要塞は貴官らにくれてやる、ミカエル・ダヴェンポート中尉。だから、総司令官を討ち取った手柄ぐらい我らによこせ」
リンツは銃口の先をつまんで持ち上げた。
彼は命を奪う道具を玩具のように扱う。
「我らが敬愛する陛下はクロノノートに魅せられた……だから、帝国軍に降伏はない。ここを退き後方で増援と合流、そして帰ってくるつもりだ……」
そう言っている間、リンツはテーブルに立てた拳銃を銃口の先から押さえつけクルクルと回している。
ミカエルは、その仕草を見ながら、
「それは建前か?」
と言った。
銀白色の髪は魔力の輝きを失い整う。
「その通りだよダヴェンポート中尉。ただ一つ約束をして欲しい」
リンツは手遊びをやめた。
そして真摯な姿勢で真っ直ぐとミカエル・ダヴェンポートを見つめる。
「撤退する彼らの追撃はするな……帝国には、こちら側に増援をよこす戦略予備はないはずだ」
実際、要塞司令官が何度も申請をした増援は全て却下されている。
リンツ・ベッカーは銃を持ち上げた。
トウノ少佐は悪い予感しかしない。
ただ、それを止めることも出来なかった。
「ダヴェンポート中尉、貴官とは、もう一度、酒を飲みたかったな……」
「ああ、終戦が叶ったら、また王国に来い。良い酒を準備してやる」
ミカエル・ダヴェンポート。
彼女もこの先の成り行きが読めた。震える瞳を伏せ、指先を震わす。
「随分と可愛らしい姿になったものだな。だが、それも貴官らしい。私には、あの頃の君と重なって見えるぞ。ヴァールに先に逝ったカサラギに良い土産が出来た」
リンツ・ベッカーは銃をゆっくりと己の眉間に当てる。
「ヴァール宮殿に貴官もいずれ来るだろう。その時はカサラギと揶揄ってやるから覚悟しろ」
乾いた銃声。
それが一発だけ響いた。
トウノ中佐はポッケから取り出したメモの封を破る。
そこには三枚、入っていた。
一枚は指示書。
もう一枚は短く一言。
それを彼は実行する。
トウノ中佐はリンツの亡き骸から銃をとると、その拳銃を長テーブルを滑らすようにしてミカエルに渡した。
それをミカエル・ダヴェンポートは受け取った。
「その銃は、ダヴェンポート中尉に渡せとの司令官殿の遺言だ」
銃口からは新鮮な火薬の香りがする。
トウノ中佐は居並ぶ帝国軍人たちに宣言する。
「リンツ司令は、『悪夢』と奮戦、奴に撃たれ戦死された」
彼は強烈な顔でミカエルを見る。有無を言わさない気迫がそこにはあった。
ミカエルもミカエルで拳銃を渡された時から、リンツがこの先をどうしたいかが予想出来ていた。
彼女はコクリとうなずく。
「ああ、その通りだ。要塞司令から奪った、この拳銃は大切に扱うと約束をする」
「聞いた通りだ。これから、我らは要塞を一時撤退をする。上官であっても異論を許さん。すでに司令は帝国法で厳密に定められた書面による命令書で発行されている!」
帝国軍に文句を言うものはいない。
リンツ・ベッカー要塞司令官に敬礼、その後、迅速に大広間を後にした。
ただ一人、リンツの亡き骸は上座に鎮座したままだった。
要塞攻略戦は事実上、その要衝の制圧によって勝敗は決した。
トウノ中佐に託された書面は三枚であった。
最後の一枚は、リンツの妻に宛てた遺言だ。
さきだった妻に感謝と謝罪が綴られたラブレター。
その最後は、やはり『君を愛している』で締めくくられている。
それを他言するほどトウノ少佐は野暮ではなかった。




