キョニューレッド獏羽生玲子の哀しみ
玲子は冷めた紅茶を前に置いて、思い出す。
篠宮マサシ──
忘れられないその名前、その姿。
彼はその時29歳。玲子は17歳だった。
篠宮マサシは海上保安官だった。
玲子の追憶を海水が満たしていく。
「きゃあっ!」
玲子は白いドレスを濡らし、悲鳴を上げた。
沈没しかかる客船の中で、その場に一人取り残されていた。
海水が上から降ってくる。
船上パーティーに集まっていた皆とはぐれ、一人で逃げているうちに、不安を掻き立てられるほどに無機質な赤錆の空間に囲まれていた。
その頃の玲子はまだEカップだった。
じゅうぶんに巨乳であるとはいえ、巨乳戦士の力にはまだ目覚めていない、ただのか弱い女の子だった。
橋のようなものの上を歩いている時、降りかかる水圧でそれが崩れた。
『もう……ダメだわ』
落ちてくる彼女を待ち構えて猛り狂う黒い渦を見ながら、覚悟を決めた時、玲子の手を力強く受け止める手があった。
「もう大丈夫だ」
優しく温かいその声を聞いた。
日に焼けたその人の顔を、玲子は見た。
その途端、不思議なほどに不安はすべて吹き飛び、逞しいその微笑みに、まったき安心感のみを覚えたのであった。
レスキュー隊員の防護服に身を包んだ篠宮マサシその人に、一目で恋をしたのだった。
「僕についておいで」
優しい声でそう言われると、すべてを任せて人生を捧げたくなった。
細身な彼なのに、限りなく逞しく見えた。
ヒーローだった。彼こそが平和と安全の象徴だった。
彼の「足元崩れるかもしれないから気をつけて」が「愛してる」に聞こえた。
吊り橋効果なんて信じなかった。
彼に抱かれて、守られて、水圧に破壊された険しい船の中を進んだ。
垂直の梯子を登る時、彼が下から支えてくれた。白いドレスの中を見られるのが恥ずかしかったが、彼に見られるのはけっして嫌ではなかった。
あまりに身軽な、まるでスパイダーマンのような彼の動きに感嘆し、桃色の声で賞賛した。
「まるでスーパーヒーローですわね」
彼はその言葉に、さらりと返した。
「僕はただの海を飛び回る猿ですよ」
誠実な男性だと思った。
玲子は胸元を強調するドレスを着ており、動くたびに胸が飛び出してしまいそうになるのに、それには目もくれることなく、脱出経路だけをまっすぐ見ていた。
正直のところはちょっとぐらい見て欲しいのにと思っていた。
彼にずっと守られたい。
ここを生きて出られたら、ぜひ彼を獏羽生鉄道グループの社長の義理の息子に迎えたい。
いや、生きて出られないわけがない。
彼が、自分を、守ってくれる。
そう思っていた。
「ここを抜ければもう、すぐです」
そう言って彼が重たいハッチを開けると、シルクのような夜空に三日月が浮かんでいた。
嵐はやんでいた。
甲板に上がり、彼が慣れた手つきで救命ベストを玲子に着せてくれ、ボートを用意する。
「さあ、乗って」
彼にエスコートされるままボートに乗り込んだ。
振り向くと、彼が客船に戻って行こうとしているのを見た。
「ご一緒に乗って行ってはくださいませんの?」
「まだ救助を待っている人がいないかどうか、見てきます。幸い、海は凪いでいますので、すみませんがお一人でボートを漕いでくれますか。陸はあそこに見える灯台をめざして行けば辿り着けます。それでは!」
「あの……、お名前を!」
「篠宮マサシであります。それでは、お気をつけて」
そう言って敬礼し、彼が戻って行ってしばらくの後、彼を待ち構えていたように、船の上で爆発が起こった。
「きゃあっ!?」
それは玲子が思わず叫び声を上げるほどの激しい爆発だった。
「篠宮さま!」
後にそれが漏れていたガスに引火したための爆発だったと知った。
燃料に引火したのではなかったため、ボートに乗っている玲子に被害は及ばなかった。
しかし玲子はボートを漕ぎ出さず、ひたすら待った。
彼が甲板から顔を覗かせ、船体の梯子を伝って降りてきて、またあの笑顔を見せてくれるのを、ひたすら待った。
自分から様子を見に行くことは出来なかった。
そんな勇気も、体力も、何の能力ももたない玲子はただ、待つしかなかった。
やがて残酷な朝が来た。
ようやく諦めて、玲子はボートを漕ぎ出した。
朝日が涙に濡れて、灯台の位置を見失いそうになった。
なんとか陸に辿り着いた玲子は、後にニュースで見た。
殉職者の名前がただ一人、テレビ画面に映し出されていた。
篠宮マサシ、と。
紅茶を口に運び、キョニューレッドとなった現在の獏羽生玲子は、思うのだった。
『わたくしは……男の手を借りずに生きるため、強くなった』
そしてティーカップを皿に戻すと、机に肘をつき、泣いた。
『あの時に……この力が自分にあれば……!』




