お酒
飲める歳になると、酒の席、というものが人生の中に追加されるようになる。
今夜は学科の飲み会。その実態は、企画者の先輩が、狙っている女子との仲を進展させるための催しである。僕は人数合わせに呼ばれた。
学科の人と仲良くなって損はないので、うまく交流を深められたらと思う。あとあわよくば彼女ができたらいいなと思う。
無言で枝豆をつまむ。
人の声がうるさい居酒屋。お酒が入ればそう気にならない。向かいの席には、大学生らしいあか抜けた女子学生。ひとつ上の先輩だ。途中までは話も弾んで、楽しい夜になりそうだぜ、僕も陽キャラデビューだぜ、などと。
思っていたのだが。
「まさか飛び入り参加してくれるなんてな~」
「長峰さんもこういうところ来るんだ」
「席替えタイムにしない? なあ」
なぜこいつがいる?
後輩なのに上座という端っこに座る僕から、最も離れた位置。テーブルの対角に、参加男女すべての視線を集める女がいた。
「突然やってきてすみません。成人したら、こういうことを楽しんでみたくて」
そうやってみんなに満点のほほえみを向けるから、彼氏役を作っても誰かに言い寄られるんだと思うけど。あのキャラやめられないのだろうか。
というか、学科が違うのに何故いる。誰が呼んだ。
まあ、この人数、この位置関係なら、同じ空間内にいるとはいえ、ほぼ関わることはない。僕は僕でお酒の席を楽しませてもらうからな。
と、思っていたら、合コン特有の席替えが行われた。
5回くらい。みんな、誰かさんの近くに行きたがったからだ。
そして結果として、ついに隣同士になってしまった。
「お隣失礼しますね」
よそ行きの高い声でそう言った悠希さん。座るとすぐに、こちらの足をつねってきた。
いででで。小学生か?
「長峰さんはどこ出身だっけ。家どこらへん? ラインやってる?」
「ライン? さぁ……。文通なら」
嘘つけ。
「出身は○○県の××高です」
「あっ」
「へ~。……あれ、××高校って。野原、お前と同じじゃない?」
「いいえ?」
「はいっ。心悟くんとは――」
「すいませーーーーん。あーー、カシスオレンジ? ふたつください」
重要な情報を口にしようとしたので、悠希さんの言葉を遮る。
大方、僕が彼氏だという情報を、大学でも広めようと画策してやってきたのだろう。そうはいかん。あわよくば女子大生と仲良くなりに来たんだ僕は。
「………」
キルアに心臓を盗られた人くらいある握力で足をつねられ、肉をむしり取られた。
ふん、そうやって僕を牽制しようってんだな。思い通りにはいかんぞ。
やってきたカシスオレンジを悠希さんの前に置く。
「どうぞ」
「ん? ……えと、ありがとう」
少し戸惑うような表情を見せた悠希さんは、上目遣いで髪を耳にかけながらお礼を口にした。え? 仕草があざといんだが。何を狙っている。
しかし、悪いね悠希さん。これは気遣いでもなんでもない。
これは攻撃だ。飲み会にいられると厄介な人(嫌いな上司など)は、こうしてたくさん飲ませて“潰す”のだ。バイト先の社員さんから教わったテクニックである。
そうして、しばらくして。
「……すう。……すう」
「ヤバ、なんだこの生き物。持ち帰っていいの?」
飲み会がおひらきになる頃には、果たして目論み通り、悠希さんは酔いつぶれていた。意外な弱点だ。
そして、今日の参加者の中で一番かわいい女子の先輩の肩に寄りかかっていた。うらやましい……!
会計を済ませ、参加者たちが続々と表に出ていく段になっても、悠希さんはうつらうつら、ふらふらとしていた。起きてはいるようだが、半まなこだ。
……やりすぎたっぽい。
「どうするよ? この子はやく帰らせないと、そこらのチャラ男にお持ちかえりされちゃうぜ」
「いや、ウチが持ち帰る」
「どうするよ? この子はやく帰らせないと、そこらのチャラ子にお持ちかえりされちゃうぜ」
うーん。失われるはずのない彼の童貞が、ついに奪われてしまうのだろうか。先を越される。
残った先輩ふたりと僕は、ちょうど最後に悠希さんと話していたグループだ。長峰悠希に下心のある絡み方をしていなかったので、個人的に印象が良い。
岡谷先輩(女性の方)が彼女の手を引いて、やっとこさ店を出る。
他のメンバーたちは少し離れた所にたむろしていた。二次会のカラオケに行く行かないの話でもしているのかも。
「冗談はともかく、送ってあげないとねー。ここでほったらかしにしたら心配だし。……でも、家わかんないな。おーい、ユウキちゃん」
「はいはいはい、俺が行きます。彼女を家に送り届けます」
「あ? 殺されたいか?」
「えっ怖……なんで……?」
「(この子がかわいいとはいえウチという女がいながら他所に現を抜かすことを)許すと思うか?」
「え……? ご、ごめんなさい」
「あ、あの」
二人の会話に入る。
悠希さんを部屋まで送ろう、という話だった。そういうことなら、誰がそれをやるべきかは明白だ。
「僕、この子の家知ってるんで、その。送っていきます」
酔いつぶれるように仕組んだのは僕だ。我ながら、よくないことをした。
一瞬、ふたりが訝しむ表情でこちらを見てきて、心臓にひやりとしたものが刺さる。よく考えてみれば今の僕は、傍から見れば、人気の美女を酔わせてふたりきりになろうとしているヤツ、である。
まずいな。
でも、かといって。
他の人に、悠希さんを任せるのは……、嫌だ。
「野原、お前……」
ヒロシ先輩(男性のほう)がおもむろに口を開く。
「長峰さんと付き合ってるって本当だったん? そういう噂あるけど」
「えっ! マジで!? 宝くじで一等当てるよりすごいけど?」
ふたりの視線が、ふらふらの悠希さんと、僕を交互に比べている。釣りあっていないなぁ、とか思われているのだろうか。全くその通りだ。
でも。
「はい。高校生のときから」
……ついに、自分から言ってしまった。でも、これなら、彼女を連れて帰る正当な理由だ。
……まあ僕が言ったところで、悠希さんが肯定してくれないと誰も信じないか。どうしよう。
さて、先輩方の反応は。
「なんでこんな飲み会に来たんだお前」
「犯罪だろ。この子キミに釘差しにきたんじゃないの?」
「あー……っす。ッス」
非難された。
違う……違うのだ。違わないが……違うのだ……。
「悠希さん、おーい。帰りますよ」
「んぅぅ。あい。あい」
「ウオッッ」
半まなこの長峰悠希を起こそうと働きかけると、僕の腕にしがみついてきた。
いい匂い。そして服越しでもわかるこの感触。あーっ、あーっいかんいかんいかん。
「くああああ、許されないわこの男は」
「早く死ね」
「ひどすぎませんか?」
「妥当である」
「いずれ地獄行く」
先輩方は抜群のコンビネーションで僕を口汚く罵った。
その後、なんだかんだで、ふたりして駅までついてきてくれた。
「ギィィッ、重い」
アパートに帰ってきたところまではなんとかなったものの、そこからはぐてっと力を抜いて己の部屋の鍵を開けてくれない悠希さんに業を煮やし、とりあえず自分の部屋に誘導した。
そのまま、こいつが普段くつろいでいる僕のベッドに投げ捨てる。
これでようやく一息つける。相棒の座椅子に腰を下ろし、はーと疲労の息を吐き出した。
「んん。んううーん。んんんー」
うるせ。
酒に酔った人ってなんか、横になっててもやかましくなるね。僕の父とかもそうだった。やたらでかい声であくびしたり、こうやってうなされてるみたいな声出したり。
だが眠りに入るのは速くなる。
悠希さんはちょうどこちら側に、丸めた背中を見せている。ほーれ、背中とんとんしてやる。眠れ、さっさと眠るがいい。
子どもを眠らせる母親のごとく、ゆったりしたリズムでとんとんする。
「んー。んう。……んあああっ、寝かしつけるなっ!」
長峰悠希は上半身を起こし、人間の言語を発した。
チェッ、と口から音が出る。思わず鳴ってしまった、心底からの舌打ちだった。
そのままベッドから降りてきて、いつもの定位置、ちゃぶ台の向こう側にどすんと座る。寝ぼけた目つきだ。
「にじかいを……やります」
そしてだみ声でそう言った。
頼むから寝てくれんか。
とりあえず冷蔵庫からお水を出し、悠希さんがいつも使っているコップに注いで目の前に置いた。
彼女はそれをぐびぐびと喉に流し込み、そして、僕をにらんだ。
「おまえっ! おまえなーおまえ」
「なんですか」
「あの女の先輩のことばっかり見てただろ。顔がかわいいからって」
「いや、対面にいたからだけど。それはそれとしてたしかに可愛いと思ってたけど」
「なんで。なんでなんでなんで。わたしがいるのに。オエッ」
絡み上戸だったか……。
なんで家に帰ったタイミングで元気になるんだ。めんどくさい。
「わかった。着替えてくる」
「え? うん。え? いやそのまま帰っていいよー」
全く脈絡のないセリフを口にしながら、悠希さんは突然ピンシャキと立ち上がり、速足で玄関から出ていった。
脈絡がなさすぎて、ページ飛ばした漫画かとおもった。
出ていったからには、自分の部屋に戻ったのだろう。隣の部屋から玄関の開け閉めの音はした。
そして、数分後に戻ってきた。戻ってくるなよ。
僕はあくびをしながら、玄関の音に振り向いた。
「じゃーん。これでどうだ」
「………」
長峰悠希(20)が、高校時代の制服を着てドヤ顔をしていた。
………。
いかがわしい店?
「ほらぁ、これがええんやろ。嬉しいでしょお、心悟くん」
何を考えているのかわからんが、久しく見ていなかったその姿を見せつけてくる。しかしそれは、寝ぼけた状態で着替えたからか、あちこちがまずいことになっていた。思わず目が泳ぐ。
「あっあれ? ちょっとキツ……」
本人も気が付いたのか、腰のあたりにあるスカートのファスナーを上げようとして、そしてもたついていた。
そして目が合う。
「見るな!!」
理不尽――。
僕は目潰しをくらい、マジでのたうち回った。何がしてえんだ悠希くん!!
しばらく嘆いたあと、元の姿勢に復帰する。いつの間にか、悠希さんはぺたんと床に腰を下ろしていた。
短いスカートとふとい太ももが怖い。怖いなあ。
「なぁ」
「はい」
「女子高生が好きなんだろお前ぇ。塾講師アルバイトなんかやって」
「は?」
別に女子高生をメインで教えているわけではないが? ないんだが?
ていうか何の話。
真意を量りかねていると、彼女は座っている状態から動き、もたもたと四つん這いの姿勢で、こちらに近づいてきた。虎かライオンに襲われる恐怖感をおぼえた。
そうして、真横にやってくる。肩が触れ合う近さだ。
この状態で、顔を合わせてしまうと。その。
「こうやってこうやって、密着してぇ。そんで教えてるんだろうがこの変態が」
「酒くさっ」
顔の良い女からおっさんのにおいがする。
「んー? ……へへ。にゃーん」
「なんて?」
「にゃーん」
キツっ。突然あざとい真似をする長峰悠希(20)。
お酒ってコワイな。いま彼女がやっていることの理由とかが全くわからない。何を見せられているんだろう。
「恥ずかしくないの悠希さん。酔い醒めたら青ざめますよあなた」
「むうっ」
感想を述べると、不満そうな顔になる。
「……恥ずかしかねーよ、可愛い自覚あるんだから」
無敵の人か?
「ていうか、なんで効かないんだよお前、心悟ぉ。タマついてんのかほんとに。おーん?」
「タマとかいうな」
「男なんか、男なんかさー。わたしがちょっと演技してやったらさー。なー。なんでお前は思い通りになんないの? なあー」
「ハッ」
鼻で笑ったった。
そりゃ長峰さんしか知らないやつは虜になるだろうけど、こっちはユウキくんを知ってますからねえ。笑い飛ばせちゃうね。
あっ、ていうか何。こいつもしかして、さっきから、僕を……。
「むんんん。じゃあ、ドキドキしたら、負けだから」
「は? ヴォエッ」
胸のあたりを張り飛ばされ、悶絶し、気が付くと自分ちの天井を眺める格好になっていた。
そして、
「よっと」
「オエッ。は!? あの、いや、待っ、バッ」
「あああ、揺らすな、気持ち悪くなる」
制服姿の悠希さんは、僕の胸に手をつき、下腹のあたりに圧し掛かってきた。
何これ? いま、僕の上に、悠希さんの――、いや、考えるな。しかし重いな。多分体重100キロぐらいある。
「心悟……。ドキドキした?」
「ああああ女子高生の姿は効きませんーていうかそんなの効いたら塾のバイトできませんー」
「ぬううう、そっか」
目を閉じ、老婆の裸を想像しながら適当に言葉を返していると、重みはあっさりと消えた。彼女は退いたのだ。
――勝った!
「じゃあ、着替えてくる」
そして数分後。
悠希さんは戻ってきた。元の格好、すなわちよそ行きの、あかぬけた女子大生の服装。
ノースリーブのニットの服。さっきまで制服を着て暴れていたからだろうか。比べるとずいぶん、大人びて見えた。飲み会のときはなんとも思わなかったのに。
「電気を、消します」
「え? あっちょ、なにすんの」
「ちょっと立って」
「え、なん」
「立って。立て」
部屋の中が真っ暗になり、そして胸倉をつかまれる。いや怖。
「うりゃ」
そのまま突き飛ばされて、ベッドに受け止められる。
それで、立ち上がろうと思ったけれど――、
「っ……」
「ヤバ……近いね。まだ効かない?」
「う、ウス」
ほとんど見えないはずなのに、僕には悠希さんの顔が見えている気がした。
腕に、胴に、脚に、重みと体温を感じる。鼻の先に息遣いを感じる。互いにどんな姿勢になっているのか、想像できてしまう。
「………。ふー……すー……」
深い呼吸の音がする。目の前から鳴っていたそれは、やがて、右耳のそばに移動してくる。
首にまで、相手の体温を感じる。髪が頬をくすぐる。においがする。心臓の音がする。
「……悠希さん。僕は……」
「……すう。……すう」
「悠希さん?」
返事はない。返ってくるのは、深い息だけだ。
それと、体温が高い。気がする。もしかして。
「寝た?」
やはり返ってくるのは、深い寝息だけだった。
そこからかなりの時間と労力をかけ、自分を下敷きにしている物体を撤去し、ベッドに寝かせ、脱出。
ベッドに背を向け、床に寝そべり、目を閉じる。
あっぶねーーーーーーーー。
たぶん友達だと信頼してくれているだろう相手に、ついに、ついに異性ということにして、手を出すところだった。
あっちがどういうつもりであんな悪ふざけをしたのかは、その。わからない。わかってはいけないので、ひとまずおいておくが。まあ酔うと全裸になってしまう人も世の中いるし、そのたぐいかもしれない。
しかしともかく、こっちだってお酒入ってるし、あんなことされたらもう。僕だって男なわけで。いまのは人生最大のピンチだったと言っていいだろう。
神様、見てくれたかよ。僕の鋼の理性をよ。
とにかく寝る。寝る寝る。もう寝る。
▽
たぶん少し眠った後、目が覚めた。トイレに行って来て、また横になった。
すると、背を向けたところから、声が聞こえた。
「心悟」
寝言か? と思ったけど、一応「なに」、と返事をしてみた。
「オレ達……。……付き合ってる? ……高校のときから?」
なんだ、その質問。
………。
もしかして、先輩たちとの会話を聞いていたのだろうか。
「何を今さら」
自分が始めたんじゃないか。『いいこと考えたんだけど』、って言って。
あのときからずっと、僕たちの関係は変わっていない。変なことを聞く人だ。
「そっか。……ふふ。そっか」
とだけ聴こえて、そのあとは何も。
小さく、かすれた、高い声だった。
▽
日が昇ってからしばらく、スマホの画面を眺めながらぼうっと過ごしていると、ベッドからのっそりと動く影が。
「頭……いた……ヴワオオーッ」
悠希さんは苦しそうに変な声を出した。笑える。
「おはよ」
「ああ、おはよう。……あれ?」
ここは……と呟いたあと、悠希さんは僕を見て、みるみると変な表情になっていった。
自分の格好を眺めて、髪とか服とか、あちこち触ったりしている。
それで、僕を見て。
「……手ぇ出した? ……男ですが?」
などと言った。
「誓って出していない」
「………。あ、そ」
一転、つまらなさそうな顔になった。
何? 僕を豚箱にぶちこもうと画策してる?