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熱を出した日②

 悠希さんが大学の講義を丸一日休んだ。

 それに気が付いたのは、構内で悠希さんの学科の友人に、そのことについて尋ねられたからだった。こんな出来事は初めてなので、一応気になってメッセージアプリで連絡をしてみると、「風邪を引いただけ」と短く返信があった。

 身体の女性化に関する通院以外で学校というものを休んだことのない、全身が健康でできている万年皆勤賞人間が、風邪を引いた。僕にとってそれは、天変地異の前触れではないかというほどの事態だった。

 やつがいつも通り健康にならないと、地球が危ない。たぶん。


 講義の帰りに、スーパーに寄った。

 それで自宅に戻ったら、すぐに台所でいろいろと準備。

 できたものや、ほかに必要そうなものを詰め込んだビニール袋を腕に提げたら、すぐにまた部屋を出る。幸い、今日はアルバイトのない日。

 玄関を出て、すぐ、隣の部屋の呼び鈴を押した。


「……すみませーん。隣の者ですけど」


 住人が出てこないので、声をかけてみる。まあ、寝てるのかな。

 出直すかどうか悩んでいると。やがて、かちゃ、と鍵の回る音がした。

 しかし誰かが出てくるわけでもなく、しばらく間があく。僕は、こちら側からドアを開けた。

 電気が点いていない暗い室内で、人影がのっそりと動くのが見えた。

 靴を脱ぎながら目で追うと、そいつはそのまま自分の部屋の、ベッドがある位置で、ぼすんと消えた。

 起こしちゃったみたいだ。


「ごめん、電気つけていい?」


 起こしちゃったなら、起きてもらおう。

 部屋に踏み入り、間取りが同じなので位置が分かっている灯りのスイッチに、指をかけながら聞く。


「……あー、いいよー」


 もぞもぞと布団の動く音がしてから、少し覇気のない感じで、返事があった。

 ぱちり。電灯が光りだす。

 部屋の主は、呻きながら布団で自分の顔を隠した。


「電子レンジ借りるよー」


 雑炊を入れてきたタッパーを温め、その間に勝手に食器とか出してきて、食事の用意をしていく。

 僕からこの人にできることといったら、これくらいだ。ちゃんと食べれば元気になるだろうという単純な考えの看病。

 やがて、みそ雑炊のいい匂いが部屋に漂い始めると、布団にくるまっていた虫がようやく動き出す。


「………。おなか……すいた」


 ゆっくりと上半身が持ち上がる。長袖からちょんと出ている指が、掛け布団をつまんでいる。色気のないスウェットから覗く白い首に、長い髪が張り付いていた。

 ふう、ふう、と深い呼吸音。おぼつかない目線が、時間をかけてこちらを向く。

 僕は息をのんだ。弱っている、長峰悠希。

 ……いい。


「……心悟。なに……?」


 意味が分からないことを聞かれる。このタイミングで出るセリフではない。よほど調子が悪いらしい。

 なにを作ってる? という意味か。いやそれとも、なにをしにきた? のニュアンスだろうか。


「雑炊」

「……?」

「ん、あー、病人をいたぶりに?」

「あぁ……お見舞い? ありがと……」


 悠希さんは弱弱しいさまで、しかしうれしそうに笑みを浮かべた。

 どうやら人の声を耳に入れる余裕もないようだな。会話が成立していない。

 体温をわざわざ測るまでもなく高熱だろう。伝染病の類かもしれないから、僕もうつらないように気を付けないと。なるべく、接触を避けて……。


「ふう、ふう」


 上半身を起こしたものの、まだぼうっとしている悠希さんを見て。気が付くと僕は、彼女の額に手を伸ばしていた。

 ベッドのふちに腰掛けて。手のひらで、前髪の下をくぐって、汗をかいたそこに触れる。


「熱っ」


 目玉焼き作れるんじゃね?

 すぐに手を引こうとすると、悠希さんはぼうっとした表情のまま、その腕だけが素早く動き、僕の手首をつかんだ。は? こわい。熱出てるときも野生の本能が生きてる感じ?

 悠希さんの緩慢な視線の動きが、僕の手に止まる。


「うわっ」

「つめたい……きもちい」


 そして猫みたいに、そこに自分の顔をすりつけてきた。

 うお……なん……これ……肌すべすべしてるな。でもやっぱり熱い。自分が何やってるか自覚あるのかな。ないんだろうな……。

 病人を無下にあしらうこともできず、なるべく別のことを考えるようにしながら身を任せていると。


「……! あ、あんま寄るなっ」

「ヴ!!!」


 突如、病人のものとは思えないパワーで僕はベッドから弾き飛ばされた。

 床に転がりながら、「風呂入ってないし……」という続きのセリフを聞く。悠希さんは清潔なお方。

 しかし今ので、やはり本調子ではないのがなんとなくわかった。今日の悠希さんは、例えるなら、心臓病でハァハァしながら人造人間19号と戦ったときの悟空くらいのパワーしかない。本来の超サイヤ人はこんなものではない。



「ごちそうさまでした」

「うん」


 自分では食事を用意できなかったんだろう。腹を空かせていたらしく、悠希さんは雑炊もおかずもフルーツも全部平らげた。

 食べている間は元気があって、会話も通じた。これで治ってくれたらいいけど。


「心悟。あのさ、風邪ひいたとは連絡したけど、その」


 悠希さんは、少しうつむきながらそんなことを聞いてきた。地肌が白いからか、熱で頬が赤くなっているのがわかりやすい。


「どうしてわざわざ……ここまで、してくれる?」

「どうしてって」


 普段から人にご飯をたかったり、召使いみたいな扱いしてる人が、今日は殊勝な態度だ。別にこれくらいはするでしょ。

 しかし具体的な理由が必要だというなら、ないこともない。


「高校のときかな、悠希さんが僕を看病しに来てくれたことがあっただろ。ずっと恩返しの機会をうかがっていたんだ」

「ん……。そうなんだ……」


 そうなんです。いつも元気なので、機会はないだろうと思っていたが。

 悠希さんはチーンと鼻をかんだ。会話に間ができる。

 いいタイミングなので、食器を片付けてしまうことにする。台所はドアの向こう、廊下にある。


 片付けて、戻る。悠希さんは、ベッドのふちに腰掛けて、またぼうっとした表情に戻っていた。

 僕はここで帰るかどうか迷ったが、もう少しの間は目が離せないような気がして、ふたつある座椅子の片方に腰掛けた。

 無言の時間がしばらく続いて、相手の呼吸がよく聞こえる。

 そこに、


「じゃあ、なんでもいうこと、きいてくれる?」

「……うん?」


 なんの脈絡もなく、そんな言葉がふってきた。

 えっと? もしかしてさっきの話の続きだろうか。本人の中で、どういうふうに僕との会話が進行しているんだ……?


「なんでもとは言わないが、ある程度なら」

「汗かいた。着替えたい。着替えさせて」

「………」


 何かすごいことを言われた。言葉の意味をかみ砕いていくうち、襟からのぞく首や布地を盛り上げる胸元に目が行き、だんだんと想像が膨らむ。

 僕がひと昔前の漫画の登場人物であったなら、つー、と鼻血が出ていたかもしれないが、大丈夫だった。

 こいつ自分が何を口走っているかわかっているのかな。さすがに男友達の範疇からはみ出しかけている気が……。


「着替え……そこの引き出しにあるから、とって」

「へいへい、お姫……王様」


 まあ、着替えをとってあげるくらいなら、いいか……。

 僕の部屋の、重ねていくとタンスの代わりになる四角い衣装ケースと違い、悠希さんの部屋にはちゃんとしたタンスが……おしゃれに言うと、キャビネットがある。その割によく部屋のすみに服を積み上げたりとズボラだが、今日はきちんと仕舞ってあるタイミングらしかった。

 さて。タンスの引き出しのうち、どれに手をかけるかで悩む。女性の衣装入れについての知識は僕にはなく、適当に開けると、悠希さんのまあなんていうかその服の下から身に着ける例の布を見てしまうかもしれない。

 ……わかった。おそらくこの、二つ横並びになっている、他より幅の小さい引き出しこそが、手を出してはいけない段! とみた! つまり幅の広い引き出しを開けば、セクハラにはならない。完璧な解答(パーフェクトアンサー)

 僕は小さい引き出しを避け、幅広の引き出しを開けた。シュッ。

 シュッ。そして閉めた。カラフルなフリフリが並んでいたため。


 着心地のよさそうな生地の上下パジャマがあったので、それを選んで渡す。己に対して弁明するが、別にこれを着ているところが見たかったわけではない。決してない。悠希さん寝るときこういうの着るんだ、とは思った。


「自分で着替えておくれ」


 先の着替えさせてという発言はさすがにジョークとして受け取ったが、念のため言っておいた。

 まぶたが半分閉じた目つきで着替えを受け取った悠希さんは、それから、のそのそとベッドに上がり、あぐらをかいて座った。

 そして、上着のすそに両手をかけた。

 白いお腹が、外気にさらされていく。


「ちょっ……マァァアァイ」


 とっさに距離を取り、手で目を覆った。指の隙間ごしに目があうと、「あぁ、そっか」とか言いながら向こうを向いた。

 そしてそのまま脱いだ。

 なんで!? ふつう脱衣所とかで着替えるだろ!?

 なんかサポーターみたいな下着を着けてるけど、それでも煽情的な背中と、その向こうにあるお山の輪郭を見てしまい。ここで、あ、自分が出ていくべきだったのだとようやく気が付く。己のスケベ心に囚われ行動が遅れた。

 いろいろと惜しいがここは出ていくべき! 相手は高熱で夢見心地なんだろうし、後で嫌われるような真似はしたくない。


「タオルとって」

「あっはい」


 引き出しにあったそれを手に、よそを向きながら腕を伸ばし、渡そうと試みる。


「背中ふいて」

「は?」


 思わずそちらを見ると、彼女はもう、僕に白い背中を向けていた。寝るとき用の下着?も脱いでしまっていて、腕で前は隠しているようだったが、背中は何も隠れていない。心臓が悲鳴をあげる。

 嘘だろ。友達に背中拭かせることある……!? 何考えてんだ。何も考えてないのか。

 どうするどうするどうする。無視して逃げたほうが悠希さんのためじゃないか?

 うううう。なんでユウキくんなんかに、こんなに惑わされねばならんのだ。実は意識もしっかりしていて、僕をからかっていたりはしないか? わからない。

 上半身裸の長峰悠希すごいが目の前にいると思うと、頭がくらくらする。それこそ熱にあてられたようだ。

 いつもよりすこしだけ強い、髪のにおい。

 ごくり。

 唾をのみこむ。目はそこに吸い込まれてしまって、もう逸らしていられない。彼女のしみひとつない、陶器みたいな背中。僕は、僕は、そこに手を伸ばしていき――、

 妹のアホ面を思い浮かべながら、無心で汗を拭きとった。


「終わり」

「………」


 肩越しに首だけでこちらを振り返るしぐさをする悠希さん。けっこうしっかりしてる肩の骨格が逆にエロスだと思い、僕は妹のアホ面とガハハという笑い声を脳裏に浮かべた。

 そして上半身裸の人は、ぼそぼそと何かしゃべった。耳を傾ける。


「……前は……?」


 僕はタオルを病人の顔に投げつけた。


 しばらく退室して、それから、再度様子をうかがう。ちゃんと着替えて、布団を被っていたので、安心した。

 あとはゆっくり休んでいてもらおう。そろそろ帰ることにする。

 最後にひとつ声かけでもと思って、枕元に寄った。


「悠希さん、体調は良くなりそう?」


 彼女は布団から腕と顔を出し、こちらを見た。

 そして、なんか笑い出した。こわい。


「にひひ……熱出してよかった」

「はぁー? なんで」

「なんか、かまってくれるから」

「………」


 ……なんか。いつもより……いつもより、かわ……かわい……

 渇いた叫び。(FIELD OF VIEWの曲)


「そっ、そろそろ帰るね。お大事に」

「え……」


 立ち上がろうとして、脚に力を入れると。

 大蛇のように素早く伸びてきた腕が、僕の服を掴んだ。


「待って」


 くいくい、と引っ張られる。普段のパワーなら服が引きちぎれていたことだろうが、そうはならなかったので、なんだか、甘えん坊か寂しがりの子供みたいな印象を受けた。


「いかんでよ。まだいて」

「そんなこと言われてもね」

「ここにいて」


 わがまま出たな……。

 枕に近い位置で、そのまま床に腰を下ろす。僕はやっぱり、こいつには逆らえないのだ。ずっとそうだ。たぶん、これからも。


「手ぇかして」


 一瞬なんのことかと思ったが、すぐに意味を理解する。言われた通り、腕を伸ばし、お求めのものを差し出した。熱い手のひらがそれを捕まえると、そのまま赤らんだ顔のほうに運ばれる。そうして、すり、と心地よい感覚が手に返ってきた。


「へへへ……あれ。つめたくない。きもちくない……」


 不満のようだった。寒い外からやってきてすぐなら、手も冷たいけど……、

 今はほら。いろいろあって血液の巡りが良くなっちゃったからな。僕の全身はつま先にいたるまでもうアツアツだよ。


「まあいっか……」

「! ちょっ、もう、悠希さん。……離してって」


 愛想笑いのようなものを浮かべながら、相手をたしなめる。悠希さんが、僕の腕を引っ張って、しがみついて、抱き枕か何かにしようとしていたからだ。それは体勢的に無理がある。あとやわらかい物体があたっている。

 悠希さんは不満そうにむくれた。


「じゃあ、こう」


 悠希さんは、僕の手を握った。片手同士を繋ぐかたちになる。

 どうあっても家に帰す気はないらしい。困ったな……。


「これで、いなくならない」

「はいはい」


 そうして、手をかっちり繋いだまま、彼女は目を閉じた。

 その後は、たぶん、たくさん話したいことでもあったのかもしれない。しばらくぼそぼそと、他愛もない話題や、うわごとを口走っていたが、それもやがて寝息に変わっていった。

 それが、あんまりきれいな寝顔だったものだから。僕は、ふ、と穏やかに笑って、こうつぶやいた。


「――おやすみ」


 ほんで必死の形相で脂汗を流しながらこの指を解こうと小一時間格闘したが、ゴールが見えてくるとなぜか復活する万力のような握力に締め上げられ、あきらめてベッドにもたれかかりながら寝た。



 朝。長峰悠希は、野郎とつながれた自分の左手を見て暴れだした。


「ん? なにこれ……、はっ? え、心悟……これ……はぁ!? なんっ」

「ギャアアアアア!!??」


 腕が!! 曲がるはずのない方向に!!


「な、な、なんでいる!?」

「一応、看病しに……覚えてない?」


 悠希さんはしばし黙りこくって。

 昨日のことを思い出せたのか、そうでないのかはわからないが。やがて、唇をかんで、悔しそうな顔……恥ずかしそうな顔? をした。(長峰悠希に恥の感情があるかどうかは怪しいので、実際にはどういう感情なのか判断できなかった。)


「……出てけ!」


 追い出される。やっと解放された……。

 ただ、まだ顔が赤かったので、結局熱が下がったかどうかはわからない。昨日よりは元気そうだったので、じき治ると思うけど。


 とりあえず、今回学んだことは。

 弱っているヤツがいつもよりかわいいからといって、あまり構わないほうがいいということ。

 そして、背中とうなじと肩もいいな……ということだ。



 後日。熱も下がって冷静になったのか、ちっっちゃい声で「ありがとう」と言われた。

 あんだって? と大声で聞き返したら殴られた。なんだその態度は。


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