おばさんの三点眼
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
先輩が目を閉じるときって、どんなときですか?
たいていが眠るとき、見たくないものを視界に入れないとき。他にもくしゃみをしたり、目薬をさしたりするときがあるでしょう。
目を開けたままくしゃみをすると、目玉が飛び出してしまうなんて説もありますね。怖そうだから試していませんが。目を閉じるのは反射のはたらきによるもので、くしゃみをするときに飛び出る雑菌たちを、自分の目に入れないようにする、とも聞きましたよ。
じゃあ、目薬の方はどうなのか。そもそも私たちや周りの人たちは、正しく目薬をさすことができているんでしょうか?
私の友達から聞いた話なんですけれど、耳に入れてみません?
友達のおばさんにあたる人は、物心がついたときから目薬をさしていたそうなんです。
それも3種類いっぺんにです。信号機を思わせる青・黄色・赤のケースに入っていまして、指す順番も同じにするよう指示されていたとか。
日に3回の食事前、おばさんは小さいころは親の手で、幼稚園に通う少し前からは、自分で目薬をさすようにしていたそうです。
おばさんの話だと、この目薬はとてもくすぐったかったみたいです。
逆さまつ毛と、目の中に入ったゴミがダブルパンチで襲ってきたかのようで、まぶたを閉じると、絶えず眼球まわりをゴロゴロする、心地悪い感触がしたのだとか。
嫌なこと、気持ち悪いことに敏感で、我慢をしないのが子供のありかた。おばさんはたまらず、目薬をさすたびにパチパチまばたきをしてしまいます。
もちろん、涙と一緒に薬も外へ出ていってしまいますが、親もうるさくは言わなかったそうですね。黙ってハンカチで目元を拭ってくれたそうなんです。
ただ、中学を卒業するまでの間は、この目薬を絶えず使わないといけない。もし怠ると最悪、目が見えなくなるかもしれないと、しばしば注意を受けていたとか。
「目が悪くなる」ではなく、「目が見えなくなる」ですからね。
じょじょに視力が落ちる、とかじゃない。突発的に視力が奪われるのではと、おばさんはとてつもなく心配になったそうです。
原因を尋ねたこともありますが、前例もほとんどない、生まれつきの珍しい病気、としか教えてもらっていません。そして大きくなってからも、この件で眼科へ行くことはできず、許されなかったことから、いよいよ不安が首をもたげてきます。
おばさんは目に関する様々な病気を調べながら、いつか薬が効かなくなるときが来るのか。本当に中学卒業まで我慢すればいいのかと、気をもんでいたそうです。
やがて迎えた中学2年生の夏。
水泳の授業がある時も、おばさんは見学一択でした。目へ大量に水が入るような環境は避けるべきだと、言いつけられたためでもあります。
プールサイドのベンチでお行儀よくしていたおばさんですが、実はここのところ風邪気味だったことも手伝い、目薬とは別の薬も服用していたのだとか。
昼前の陽気が強く眠気を誘ってきます。たびたび出てこようとするあくびをかみ殺そうとするのですが、完全には抑えられず。不謹慎に思えたのか、先生にお小言をもらうほどだったとか。
そして水泳の授業が終わっても、眠気はおさまるどころか、ますます強まるばかり。
給食前の授業は、まだ4校時目が残っています。途中で12時を回ってしまうので、いったんは例の目薬をささないといけないのです。
半分、寝ぼけまなこのおばさんは、通学カバンの奥へしまっているポーチから、三つの目薬ケースを出し、あくびをしながらそのひとつを手に、点眼をはじめます。
ぽたりと薬液が目を叩くや、おばさんは思わずケースを取り落とし、顔をおさえてバタバタ足踏みしてしまいます。
まるで目にとがったものの先が、突っ込まれたような痛み。心配する周りのクラスメートたちの声を受けながらも、ようやくうっすらと目を開けたおばさんが、足元に転がるケースに視線を落とします。
赤色のケース。それは本来、3番目に差すべき目薬のものでした。
これまで順番を破ったことは一度もありません。にわかに湧き上がる失明への恐怖から、おばさんはそのまま水道場へ直行。目を入念に洗ったうえで、改めて、青・黄・赤の順で点眼をしていきます。
怒られるのが怖くて、親に許しをとることなく、行った独断。そして痛みは引くことなく、おばさんの目の奥で、胸の鼓動と一緒に痛痒くうごめき続けます。
たまらず、おばさんは先生に申し出て、保健室で休ませてもらいました。
保健の先生はおばさんの顔を見るや、神妙な面持ちでベッドへ連れて行ってくれたあと、すぐどこかへ連絡を取りに、部屋を出ていってしまったのだとか。
目を閉じると、なお痛みが増します。つばを飲み込むとつらい、のどの痛みへの対処に似て、おばさんは意識してまぶたを閉じないようにしていたようです。
限界までまなこを開き、本当につらくなった時だけ、ほんのちょっぴり目を閉じる……それを繰り返しながら、おばさんは先生を待っていました。
ほどなくして。
ベッドに腰かけたおばさんが、先ほどから見つめている、キャスター付きのパーテイションのひとつ。
青みがかった生地のかかる、その中央部分がにわかに黒くなったんです。
最初は「虫でもとまったかな?」と、思ったおばさん。しかし、まじまじと見つめていると、その黒丸はじわじわとその面積を広げていきます。
やがてピンポン玉ほどの大きさになったとき、その中心部に穴が開いてしまったんです。
黒ずんだまま、ぽろぽろと剥がれ落ちる姿は、およそ自然に破れたものとはいえません。そして鼻へ流れ込んでくるのは、嗅ぎなれた、おコゲの臭い……。
パーテイションは、燃えていたんです。
慌てて視線を移すおばさんですが、目で移す先は、それが壁であろうとサイドテーブルであろうと、その中心に黒点が生まれてしまうんです。ときには、白くて細い煙さえ吐き出しながら。
ならばと、まぶたを閉じたものの、これもダメ。
じりじりと、耳元へささやかれる、油を引いたフライパンで炒めるかのような音。一秒ごとに強まる熱、広がる痛み。たまらずまた目を開けてしまいます。
せめて燃える被害をおさえようと、ベッドの上でぐるぐる回り始めるおばさんの元へ、先生が戻ってきます。
その手には、舞踏会で身に着ける仮面のような形のアイマスク。おばさんの視線から外れるように回り込んだ先生が装着させてくれたそれは、顔の皮膚を突き抜けて、頭の奥が痛くなるほど、冷え切っていたのだとか。
やがて迎えに来てくれた親によって、自宅へ帰るおばさんですが、この期に及んでも眼科へ連れて行ってはもらえませんでした。ただ親がどこかへ電話をし、いくつかの指示を仰いでいるらしかったとか。
おばさんはそれから数日間は、件のアイマスク。以降はまた3色の目薬の点眼へ戻ります。くれぐれも3色の間違いに気をつけるよう、釘を刺されたうえで。
言われるまでもなく、以前にも増して集中するおばさんは、やがて15歳になるとともに、目薬を卒業しました。
しかし、あの経験が強く脳裏に焼き付いたおばさんは、今だと外ではほぼサングラスをつけています。
屋内でもいつも目を細めていて、友達もはっきりとおばさんの瞳を見たことは、まだ一度もないそうなんです。