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オブリヴィオン -忘却の戦史-  作者: 長谷 治
8/10

第八話 転と想の話

 屋敷に帰りカルネルに出迎えられるセシル、自身のこれからを想ううちにいつの間にか母との記憶を辿っていた。

 時を同じくしてバンドレイク城では国王ダグベットと女王エトランゼが違いに募らせていた内なる想を吐き出し合う。

 そして、国の端シュナガスタでは、怪しい影が少しずつケイロス王国へと近づきつつあった。

 お袋はいつも笑ってた。親父と結婚する前から近所でも評判の良い笑顔が素敵な女性で、異邦人故に身寄りもない生活を入国した当初は送る覚悟をしていたそうだが、人の良い老夫婦の営む雑貨屋に住み込みで働くこととなり、苦はそこまでなかったという。むしろ店にはお袋目当てに来る客も多く、それ故に老夫婦はお袋のことを本当の娘のように面倒を見ていた。

 対称的に親父は近所でも評判の変わり者だった。口数は少なくあまり愛想も良くないせいで周りに誤解をされやすく、先祖代々営んでいる食堂も、じいちゃんが亡くなって親父が店主になったときには殆ど人が寄りつかなくなり、店は存続の危機にさらされていた。

 二人の店は北通りを挟んで向かい合うようにあり、正反対の印象を受ける二人の接点など考えられるわけもなく、故に二人が婚約したという話がでたときは周りの人間の多くが驚いたらしい。「あの変わり者で有名なダウルが俺たちのセラを射止めた。」と話は忽ちに広がり、お袋のファンからは「セラはダウルに弱みを握られていてそれで婚約を強要された。」なんてひどい噂さえ立つほどだった。結婚したお袋はそれから、昼は老夫婦の雑貨屋、夜は親父の食堂で働くようになり、客足はそんなお袋のおかげもあってか右肩上がりにぐんぐんと伸び、一時期は城下街の食堂では一番の売り上げを出すほどだった。そして、結婚して2年後に俺が生まれ、さらにその5年後、妹のセノが生まれた。

 あるとき、何気なくお袋に「何で父さんと結婚したのか。」と尋ねたときがあった。お袋は息子の他愛のない質問にも関わらず耳を真っ赤にして恥ずかしがるように言った。


 「お父さんはね、私を救ってくれた王子様なの。」


 まだ子供だったそのとき、絵本に出てくるような端正な顔立ちの王子様と無精髭を蓄えた親父の顔が重なり吹き出してしまった。そんな自分を見て、お袋はいつもの顔で微笑んでいた。

 自分が10歳になった年、たった一人で家に帰ってきた親父からお袋が亡くなったことを伝えられた。食堂へ卸す食材の輸入ルートを新たに設けるためと、俺と妹のセノをお袋がお世話になっていた雑貨屋の老夫婦に預け、マフェレーへ二人で訪問していたときのことだった。

「荷車に輸入品の一部を積んでいたことで盗賊に目をつけられ襲われた。」

 親父が雑貨屋の主人にそう伝えているのが聞こえた。

 葬儀の日、食堂にはお袋のファンだった沢山の常連客が来ていた。親父の連れ帰ってきた冷たいお袋は弔布に包まれた状態で食堂奥にある家の居間に寝かされ、その周りにはお袋宛に弔われた多くの花が、その評判を示すように一面を埋め尽くしていた。温もりのないその身体に抱きつき俺とセノが嗚咽するぐらい泣いていると、涙を浮かべていた常連客の一人がお袋の傍ら、無言で座っていた親父を突然殴り飛ばした。

「何でお前が守ってやらなかった!」

 涙を浮かべ怒声を浴びせる一人が再び親父を殴ろうとするのを複数人が取り押さえながらなだめる。その光景を見て俺とセノが更に泣く。母さんは本当に皆から愛されていた。親父は、ただ黙っていた。

 日が暮れ、他の人達が帰っても、俺とセノ、そして親父はお袋の側から離れなかった。雑貨屋の主人が親父の代わりに火葬の段取りを話しているのが聞こえる。「あと少しでお袋の身体は焼かれる」そう思うと離れることができなかった。いつもは指抜きの手袋で隠していた手の甲にある綺麗な花の入れ墨、その手を握りながらセノはいつまでも泣いている。悲しみは抜けないが、やっと涙の止まった俺が親父を見ると、親父は涙ひとつ流していなかった。悲しみを抱えているのは血の繋がりがあるから表情で分かる。しかし親父はただ黙ってお袋の顔を、まるで安堵でもつくかのような優しい表情を混ぜたよく分からない眼で見つめていた。そんな親父の表情を見て、セノがぐしゃぐしゃな顔で聞いた。

 「パパは、ママが居なくなって悲しくないの。」

 セノが親父にそう聞くと、親父は落ち着ききった声色で答えた。


 「パパはね、ママと出会った日に、何があっても涙は流さないとママに約束したんだ。だから、パパはママと結ばれたんだよ。」


 妹の質問に対して親父の言ったその答えの意味が全く分からなかった。「何故今、唐突にそんなことを思い出したのだろう。」と、自分の胸に空いた穴を押さえながら倒れ込む。溢れ地面に広がっていく自分の血を朧げな目で見つめる。

 「今日は、ルネリスへ行って、商談を成立させないといけないのに。それに帰ったら、あいつ・・・に・・・。」

 頭の中にぼんやりと浮かぶ言葉の羅列が少しずつ口からつぶやいていくと同時に、少しずつ意識が薄れていく。

 「悪く思うなよ。恨むなら、お前の母親を恨んでくれ。」

 聞こえたその言葉を最後に、目の前は暗闇になっていた。


1.

 ケイロス王国ヴァーンハイト邸、夜も静まり返り、真っ暗な自室でベッドの中、一人眠りについていたセシルが、うっすらと聞こえてきた屋敷の玄関を開く音に少しだけ目を覚ます。既に夜中は過ぎさっている時間、静寂な空気の中で虚ろな意識の中で耳を澄ますと、一階、おそらくエントランスから母ラウラと、それを出迎えたカルネルの話し声が聞こえた。何を話しているのか内容は分からないが、二人の話し声は少しずつ足音と共に、自分の部屋へと近づいてくる。一度身を起こそうかとも思ったが、この時間に起きている方も不自然だと、そのままベッドの中で息を潜めるように目をつむる。聞こえていた話し声と足音が自室の扉の前で止まると、部屋の扉をできるだけ音を立てぬよう、誰かがゆっくりと静かに開けていく。被った布団越しに耳をさらに澄ましていると、部屋の前で止まっていた足音がゆっくりと静かに自身へと近づき、おそらく枕元の前で再び足音が止まる。必死に眠るふりを続けていると、何かの重みが自身の枕元にかかったのを確かに感じる。すると足音は静かにゆっくりと離れていき、再び音を立てぬように部屋の扉を閉める。足音が自室から遠のいていくのを感じると、布団から片腕を抜き目を瞑ったまま、枕元に置かれたそれに手をかける。何か包みに入れられた布製の何かのような感触がしたが、それが何かは分からない。次第に目を瞑り続けていたせいか、朧げなままいつの間にか眠りについていた。

 翌朝、朝日の照りで目を覚ます。ゆっくりと身を起こし、ぼーっとした表情で数秒固まっていると、昨日のことを思い出す。正体を確認するため枕元に目を向けると、そこにはやはり少し大きめの布包にくるまれた何かが置かれていた。持ち上げ、包装の周りを確認するが、特に中身に繋がるようなヒントはなく、更には包装された状態のものを一度解いたような跡さえある。疑問を持ちつつも少しずつ包みを解いてゆき、そして自身の手で取り出したそれは、何か布のような塊だった。その重みのある布の塊の正体を一見しただけでセシルは察するとベッドから立ち上がり、窓から溢れる朝日に向かってその布を勢いよく広げた。朝日に照らされ、目の前で鮮やかに広がったそれは父フィデルの外套と違う、朱色を基調として織り上げられた、背にヴァーンハイトの紋章が刻まれた外套だった。

 広がったその外套をまじまじと見ていると、後ろから扉をノックする音が聞こえる。目を向けると、まだ寝巻き姿のラウラがこちらに笑みを見せながらそこに立っていた。

 「これは。」

 「あの人に頼まれていたの。正式に公務ではまだ付けられないけど、お披露目だけでもね。」

 ラウラがセシルへそう言うと、セシルは外套へと再び目を落とす。朱色の生地はところどころに色のムラはあるが、雑な仕上げというよりは敢えてそうしているような趣のある柄となっており、まるで炎がたなびいているようにも見え、真ん中に描かれたヴァーンハイト家の紋章である「兜と(リットヘルム)」は丁寧な刺繍で施されていた。

 「あなたが出た後に、あの人が屋敷に少しだけ戻ってきて、頼んでいたのを受け取ってくれるように頼まれたの。確認のために見てみたら染め色だけの無地で、味気ないままだと良くないから、あなたが誰であるか分かるように、ね。」

 ラウラの言葉にセシルが縫われた紋章へ視線を向ける。それはおそらくラウラの手ではなく、きちんとした業者によって丁寧に仕上げられており、フィデルの外套と比べても遜色しない仕上がりだった。外套をまじまじと眺めるセシルへラウラがゆっくりと近づいていく。そして、セシルの手から外套を受け取ると、それを彼の背に広げてみせた。寝巻きの上から着けられた外套は凄く不釣り合いに見えたが、朝日と共に鏡に映るその姿はとても誇らしく見える。

 「貴方はあの人にとっても、私にとっても、大切なもの、こうして誇りある限りはね。」

 ラウラは優しくセシルへそう言うと、外套を彼の背から離し、軽く畳むとそれを抱え上げる。

 「しかし、どうして。」

 セシルが少し驚いた表情でラウラへ言うと、ラウラは外套に刻まれた紋章を見つめながらセシルへと言った。

 「あの人が帰ってきたら聞くといいわ。それまでは、ね。」

 はぐらかすようにラウラがそう答える。その言葉の意味を彼が考えようとしたとき、自室に向かって急いで近づいてくる大きく乱雑な足音が聞こえた。音に気を取られ部屋の扉に目を向けると、使用人である一人の女性が息をきらせながら勢いよく扉を開いた。

 「どう、されたんですか。」

 その勢いに呆気に取られたセシルが彼女に話しかけると、使用人の女性は間を取らずセシルの手を握り部屋の外へと連れ出そうとする。

 「セシル様、こちらへ!」

 そう言うと彼女はセシルの手を引き、ラウラへ一礼すると、彼を自室より急いで連れ出す。状況を理解できないまま、その気迫に付き従っていると、エントランスの開いた玄関、その前に立つ一人の人影が見えた。小柄なその姿に、それがセノ・ラフェスタであることは2階から不意に見下ろした時にすぐわかった。

 セノの前へと連れていかれ、彼女の前に立たされるセシル、状況がわからないままセノの顔を見ると、何故か彼女の目には涙が溜まっており、苦しそうに荒げた息をしていた。その表情に、セシルの中に一抹の不安がよぎる。

 「・・・どうしたんだ。」

 恐る恐る理由を聞く。いつもであれば礼儀を重んじる中、その雰囲気に思わず敬語を忘れる。そんな彼に、セノは途切れ途切れに涙を混ぜながら彼に言った。

 「セシルさん、兄さんが、兄さんが・・・。」


2.

 ケイロス王国バンドレイク城第二層団長室、そこはケイロス王国騎士団団長であるバセット・ダンテール専用に設けられた部屋である。バセットは今の年まで一度も妻をとっておらず、住まいについても先祖代々受け継いできた屋敷に一人で暮らしていた。現国王ダグベット・ケイロスはバセットと幼いころからの友人ということもあり、老衰によりバセットが親族を亡くしたタイミングで、彼にバンドレイク城での居住を勧めた。バセットはこの計らいを承諾し、以来彼はバンドレイク城内での生活をおくっていた。しかし、他の王族の中には騎士の出であれど、平民であるバセットが城内で暮らすことを快く思わないものもおり、その思いも理解した上でダグベットはバセットに、王族の生活の場となる第三層ではなく第二層にある要人用の客室を改築した一室を与えた。しかし、もとは客室といえど改築により設けられた設備の数々は暮らすには十分すぎるほどであり、団長という立場故にバンドレイク城に多く訪れる必要のある彼にとって不自由な部分は決してなかった。まだ壮年となる前はケイロス王国騎士団長を務めるに値する、誰もが認める強さを持つ彼に対し、多くの女性が彼の妻になろうとアプローチをかけた。中には王族の子女も多くいたが、彼は決して靡くことはなかった。王族の中にはこの理由から彼を必要以上に毛嫌いするものもいたが、国民含め多くの人間からは「それはケイロス王国に身を捧げることを意味し、親友であり主であるダグベット・ケイロスへの誓いでもある」と讃えられていた。

 一人机の前に置かれた革製の椅子に腰をかけ,アーデルが作成した資料を机の上に置き、1ページ1ページずつ目を通していく。中立領ルネリスにおける被害の計上、ノクティル軍の捕虜から聞いた証言、そしてアグリッサ・キャンベルの取り繕われたかのような情報、その全てが事細かに記録されたそれらを熟読する。不明点の多いアグリッサの情報以外、決して怪しい部分や疑わしい部分のない資料に書かれた文言たち、「紙重石の供給の欲しいノクティルと国属としての安寧が欲しいルネリスの一部住民の結託によって仕組まれた事件」そう解釈すれば全てに合点がいき、納得できる作りになる。しかしアグリッサ・キャンベルという無視のできない存在、そして何よりも感じる理由の不明なこの違和感に、バセットは眉間に皺を寄せていた。


コンッ


 資料を睨んでいたとき、外から自室の扉をノックする音が聞こえる。

 「入れ。」

 反射的に出た意のない言葉の後、バセットが資料から目を離すと扉が開く。見ると開いた扉の先、一人の長身の男が紅い髪を掻き上げながら、一礼もなくバセットの机の前まで無作法に近づいてくる。たくしあげられた男の額にはまるで目のような入れ墨があり、彼はバセットに対し一礼もなく、テーブルの向かいまで歩み寄ると、彼の読んでいた資料を何も言わずに片手で取り上げた。

 「不自然さっていうのは、この男のことか。」

 そう呟くと男は器用に片手だけでページを送りながら、切れ長な眼で資料に素早く目を通していき、アグリッサの情報が記載されたページまでを見終えると、そのページを広げ、バセットの机の前へと置いた。バセットはその広げられた資料へと目をやりながら、テーブルの脇に置いていたカップに一度口をつける。

 「・・・正直それだけとはいえない。だが、お前はこの男についてどう思う。バルク。」

 バセットはそう言うと目の前に立つ男を見る。目を向けられた男はバセットの前の机の上に腰をかけ長い脚を組み、バセットへと目を向ける。ケイロス王国騎士団団長であるバセット・ダンテ―ル第一位に対し無礼な振る舞いをするその長身の男が、ケイロス王国騎士団第三位バルク・ファーレンだった。

 「確かに、妙な胡散臭さはある。だが、それだけで俺を呼んだのか。」

 バルクが面倒くさそうな表情でそう言うと、バセットは持ち上げていたカップをテーブルに置く。

 「不確定なものが多いのは確かだ。だが、今回起きたルネリスでの一件のように動かれてからでは遅い。ただでさえ、相手はノクティルだ。捕虜交渉と共に数人、目を忍ばせて欲しい。」

 バセットはそう言うと開いていた資料のページをめくり、捕虜たちの人相と年齢などの情報が事細かに描かれているページを広げ、それをバルクへと手渡した。ケイロス王国とノクティル国はおよそ70年前に中立領であったシュナガスタを巡って起きた戦闘から常に冷戦状態にあり、いつ再び大きな戦場がうまれてもおかしくない状況だった。そのため、両国ともに大きな動きを起こそうとしていても、互いには情報決して流れないように細心の注意を払っていた。

 「自分で言うのもあれだが、俺が動くほどなのか。諜報部を動かせば、事が済みそうな気はするが。」

 「ノクティルに諜報部は回せない。未だ表にスタンピッドの詳細な情報を出さないあたり、並大抵のことじゃないだろう。幾度か諜報部を回したこともあったが、結果はお前も知っているだろう。今回お前に任すのも、侵攻による捕虜交渉という好条件が巡ってきたからだ。それに・・・。」

 バセットはそう語ると、一度言葉を濁す。その反応を見て、捕虜一覧を眺めていたバルクが彼へと目を戻す。

 「それに、なんだ。」

 「・・・それに今回の件、ノクティル側だけではなくルネリス側も何か隠している部分がある気がする。事実だけで並べればノクティルによる自領土化のための侵攻、裏は一族経営であったサルヴァンに対しての反逆。だが、もうひとつ何かある気がするんだ。そして、それが思っている以上に根深いものかもしれない。」

 そう語ると、バセットは一度座っていた椅子から立ち上がる。

 「根深いって、どういう意味だ。」

 歩き出すバセットの背にバルクが話しかける。

 「分からない。だが、ルネリスについては表向きに堂々と動ける分、フィデルとイングラスに辿ってもらっている。」

 バセットがそう返すと、バルクが再び言葉を返す。

 「中立領側にも関わらずルネリスは受け入れたのか。」

 「第一な被害を被っているのはサルヴァン一族だ。領民の一部をこちらで受け入れている分、故に置かれている状況の危うさを感じてはいるのだろう。それに、領民全員がことの発端を知るわけでもない。」

 バセットはバルクの言葉にそう返すと、部屋の右隅に置かれている本棚へと歩み寄る。そこから一冊の赤い背表紙をした本を取り出すと、その本をバルクへと手渡す。

 「・・・どういうつもりだ。」

 バルクが意味ありげにバセットに尋ねる。赤い電報は古来より機密性の高い任を与えるときに使われるものであり、バセットはこれを変換し、諜報部やバルクに対して極秘裏の任を与えるときにこの赤い背表紙の本を貸し出すことで示していた。

 「もうひとつだけ、調べて欲しいことがある。気のせいならば良いのだが、細かいことはそこに記載してある。」

 バセットがそう言うと、バルクは二言目を発することなくその本を懐へと忍ばせる。

 「ノクティル側からはおそらく、もう捕虜交渉の使いがくるころだろう。その時に、頼む。」

 バセットの言葉にバルクは頷くと、体を机の上からどけ、部屋を後にしようとドアノブに手をかける。そのとき、バセットがバルクの背に対して言った。

 「バルク、もしも過去か未来、どちらか一方を捨てなければならないとなったら、お前はどちらを優先する。」

 バセットの言葉にバルクが一瞬彼へ振り返る。

 「俺は、いつ何時でも自分が正しいと信じている。だからお前たちに協力しているんだ。」

 そう言い残すと、バルクはバセットのいる部屋を後にした。バルクが部屋を出ていった後、バセットは再び椅子に腰をかけると、自身の後ろで閉じられているカーテンを開ける。そこには明るい晴天に照らされる城下街があり、国民たちが普通の生活を送っている様子を眺めることができた。そのいつもと変わらぬ風景を見て、バセットは常に懐に入れている王族憲章を力強く握っていた。


3.

 ノクティル国カーベンバイン資料室、カーベンバインのおよそ中腹ほどにあるそのエリアには、これまでノクティル国が歩んできた歴史の資料や、戦闘において記録された戦術書や戦史など、ノクティル国に関することのほぼすべてを収めた多くの書物が保管されており、カーベンバイン中層までの入出の権限を持つ軍人や議官であれば、誰でも閲覧することができた。故に歴史資料を集め読み漁っている束ねた髪を全て後ろに降ろしているその男、ノクティル軍第一大隊長バーシェス・レクターがそこにいることに違和感などはなかった。

 「大隊長。」

 一人資料に向かっていたバーシェスに誰かが話かける。顔を上げると、そこには彼の副官としてついている赤いメガネをかけた女性、ノクティル軍第一大隊三官カミラ・コルヴィンが資料を抱えながらこちらを見ていた。

 「コルヴィン三官、例の審問会の書記ではなかったか。」

 「審問会は問題なく終了いたしました。キャンベル隊長の処遇については後日正式に通達される見込みです。」

 カミラがそう言うと、バーシェスは読んでいた資料を一度を閉じ、それを積み上げていた資料の上に置く。

 「そうか。まあ、今回についてもランボルト議官の口添えでお咎めはなしとなるだろう。」

 溢すようにレクターが言う。カミラはその言葉を聞くと、向かい合うように置かれた椅子に無言で腰をかける。

 「不服か。」

 「正直、納得できません。キャンベル隊長を信用していないわけではありません。しかし、あの人の行動も、それに対するランボルト議官の判断も、全てに裏があるように思えてしまう。」

 バーシェスの言葉にカミラが目の前でそう返すと、バーシェスは少し顔を下に向ける。その表情を見て、カミラがバーシェスに少し強めた声色で尋ねた。

 「レクター大隊長はよろしいのですか。キャンベル隊長が就任してからというもの、何かこのノクティルにとって悪いものがはびこっているように思えます。それに、本来であれば大隊長であるあなたが任命されるべきものであるというのに。」

 カミラがそう言うと、バーシェスは下を向きながら彼女に語った。

 「もともと、このノクティルという国はそれほど表向きの良い国でないのはコルヴィン三官も分かっているだろう。この国の抱える問題というものは、他の国が解決できるようなものでもなければ、知られれば国そのものが転覆しかねないというものでもある。それを、解決できるのも、抑え込むことができるのも我々だけだ。それに分からないが、私にはそれほどキャンベル隊長やランボルト議官が何かするようには思えん。」

 バーシェスはそう言うと、カミラの目を見て言った。

 「ランボルト議官はこのノクティルの生まれだ。故にあの人はご両親を失っている。キャンベル隊長も、そのランボルト議官が信頼できる存在として連れてこられた方だ。そんな人がこのノクティルに害をもたらすとは私には思えん。」

 バーシェスがまっすぐな目でカミラの目を見ながらそう言うと、彼女はうなだれるようにため息を吐いた。

 「甘いです、大隊長は。本当に、優しすぎます。」

 カミラはそう言うと、そっとバーシェスの手先へと指を伸ばす。その指をバーシェスは迎えるように指を絡ませた。

 「このノクティルという国を、私は本心から信じている。そして、それとともに守るべきものも守ってゆきたい。」

 そう真剣な目で語るバーシェスにカミラが頬を赤らめる。いつのまにか指は五本とも組むように絡みついていた。

 「バーシェス大隊長、少しお話をよろしいでしょうか。」

 不意に後ろから言葉をかけられる。慌てるように後ろを振り返ると、そこにはさきほど話題に出していたアグリッサ・キャンベルが立っていた。

 「キャンベル隊長、いつからそこに。」

 「いえ、さきほど来たばかりです。大隊長にお話しがございまして。」

 アグリッサがそう言うと、カミラは無言で慌てるように二人へ一礼しその場を後にした。

 「献身的な女性です。彼女のことを好いている兵も多いでしょう。」

 「聞いておられましたか。」

 場が悪そうにバーシェスがそう言うと、アグリッサが冷たく笑みを浮かべる。バーシェスはアグリッサがいつもするその表情に、少しだけ苦手意識を持っていた。

 「いえ、実は近々ケイロスとの捕虜交渉を出す必要がございまして。」

 「例のルネリス侵攻での人質ですか。ケイロスに捕らわれたからまだ良かったものの、人質、戦死者もそれなりに出したという話だ。少し戦略を顧みられてはどうでしょうか。」

 バーシェスがそう言うと、アグリッサが一度頭を下げる。

 「本当に申し訳なく思っております。」

 その直球すぎる謝罪にバーシェスが少し戸惑う。

 「その人質の交渉なのですが、交換条件としてマルベス領を交渉に出そうかと考えております。そして、その交渉人として一人選出いただきたいのです。」

 「私が、でしょうか。」

 バーシェスがそう返すと、アグリッサが応える。

 「はい、決定権については今回の件で私は凍結中にあります。なので、大隊長であるレクター大隊長にお願いしたく。」

 アグリッサの言葉に、バーシェスは少し考えるような素振りを見せる。そして、一瞬去ってゆくカミラの後ろ姿を見て彼に言った。

 「ではコルヴィン三官はどうでしょうか。小隊員についてはこちらで編成させます。」

 バーシェスの言葉に再びアグリッサが一礼する。

 「承知しました。軍備本部への要求書類はこちらで作成いたします。小隊員が確定いたしましたらご連絡を。」

 アグリッサはそう言うと、バーシェスに背を向ける。バーシェスが積んでいた資料を再び読み始めようと、机の上に開いたとき、アグリッサがつぶやくように語る。

 「ちなみに、死者42名、捕虜が296名です。」

 「大隊長であれば把握しておいていただいてよろしいでしょうか。忙しい時期かとは察しますが。」

 アグリッサの言葉に一瞬バーシェスがページを開く手を止める。

 「身重なのでしょう、奥様も。」

 アグリッサのその言葉に慌てるように振り返るが、既にそこにアグリッサの姿はなく自分以外の人影はその資料室にはなかった。再び目を戻した資料、その偶然開かれている一ページにはこう書き綴られていた。


 「ノクティル国第22代国王ベルトルト・レクター、王権制度廃止に合意、一族の安寧を条件に政治介入を永劫禁止に。」

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