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オブリヴィオン -忘却の戦史-  作者: 長谷 治
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第三話 親と少女の話

 少年の言葉の重みに悩むセシルは父と母の喜びを分かち合うこともできないでいた。まるで求めるようにダッフェルバウンへと向かった彼であったが、見つけたのは「セシル・ヴァーンハイト」として自分を認められない自分だった。

 思い悩む帰路の中、不審な影を見つけ後を追うも策に嵌り崖から落とされてしまう。一命は繋ぎ止めるが瀕死の中、微かに聞こえる音を頼りに歩みを始めると、そこには一人の少女がただ一人牢屋の中にいた。しかし、その姿を見た最後にセシルは意識を途切らせる。

 幼い日の記憶がモザイクがかったフィルムを投写するようにゆっくりと流れていく。友達の顔も、父や母の顔も、彼らの姿だけがぐちゃぐちゃに絵の具のような赤い何かで塗りつぶされている。必死に目を凝らしても、耳を澄ましても、その姿と声も分からない。いつも見えるようになるのは決まって最後のところからだけだった。焼けた家と鉄のような匂い、バラバラになった何かの瓦礫の山、見上げると、自分のことを憐れむような視線で見てくる鎧姿の人たちがどこかへ向かって歩いていく。そして、自分へと差し伸べられる赤い手をした一人の男の姿、震えた声で自分へと謝る男に連れられていく。でも何故だろう、そのときの顔をいつも思い出せなかった。


1.

 暗闇の光景から目が覚めると同時に全身へ今まで感じたことない激痛が走った。少しでも動かすだけで痛みが全身に伝わるため、身体をなるべく動かさないようにし、視線だけで周りを見渡す。そこはまるで見覚えのない部屋のベッドの上だった。

 「生きて、いるのか。」

 耐え難い痛みから自分がまだ生きているということを実感する。痛みの元である自分の体へと視線を向けると、上にかけられた毛布の隙間から身体中に包帯が丁寧に巻かれ、至る箇所に傷口の治療が施されているのが見えた。

 「これは・・・。」

 「あら、起きたのね。」

 不意の声にセシルが視線を左へ向けると、水の入ったコップをお盆にのせ、左脇にある部屋の扉からこちらへと入ってくる女性の姿があった。金色の綺麗な長い髪とそれに似合う淡麗な顔立ち、まるで絵画の人物のように浮世離れした美しい姿とそれに見合わない貧相な服装をしていた。

 「・・・。」

 「喋ることはできる?」

 女性の美貌に呆気に取られていると女性が部屋の扉を閉めながらセシルに話しかける。扉が閉まる瞬間、一匹の黒猫が部屋へと入ってくると、黒猫がセシルの方を見る。目があった黒猫は片目がまるで宝石のように輝いており、不思議な風体をしていたが、女性は気にしている素振りを見せなかった。

 「助けていただいたようで、ありがとうございます。」

 セシルが振り絞るような声でお礼を言うと、女性はセシルの横たわるベッドへと近づき、持っていたお盆をベッドのそばにある小さなテーブルの上へと置いた。そして脇に置いてあった木製の椅子へとゆっくり腰を掛ける。

 「あの、あなたは。」

 「ただの管理人よ。イェルコ渓谷で何かがあれば警備団に連絡をするの、それが仕事。」

 管理人と名乗る女性の言葉に自分は今、さきほど見かけた小屋に居るのだろうと察した。

 「あの、自分は。」

 「その紋章、ヴァーンハイト家の人でしょう。騎士団の関係者が立ち入り禁止の場所へ不法侵入なんてしたらまずいのではないかしら。まあ、その怪我を見ると好きでそうなったわけではないようだけど。」

 女性はそう言うとセシルの枕元に目線を向ける。女性の視線の先をセシルが見ると、そこには護身用にと持ち出した短剣が置かれており、柄の中央には直剣と兜の見慣れた紋章が部屋の明かりに照らされ輝いていた。

 「あまり遅い時間に谷の周りを歩かない方がいいわよ。防御外壁の中の街と違って、外は危険が多いから。」

 女性がセシルにそう忠告する。騎士団の人間である自分が危険を忠告されるなど思いもしなかった。だからこそ身動きひとつ取れない今、自分の置かれている状況が非常に情けなく感じる。

 女性は椅子から立ち上がると、セシルの横たわるベッドの前を横切り、同じ部屋の右隅にあった収納棚の一番上の引き出しを開け何か探すように手を入れる。

 「それで、何があったの。踏み外したってわけじゃないでしょ。」

 女性が何かを探しながらセシルへと質問する。

 「・・・。」

 自分の置かれている状況にセシルが口籠ると、女性は探していた何かを見つけセシルの元へと戻る。

 「あの。」

 「警備団にはわたしから通報してあげる。騎士団の人間が大怪我したなんて、恥ずかしくて言いたくないでしょ。」

 セシルの言葉を遮るように女性が応える。そして自分の身分を知っているその口ぶりにセシルは驚いた。

 「何故、騎士団の人間だと。」

 「何となく分かるわ。襲われたことを恥ずかしく思うのなんて貴方達くらいでしょ。」

 女性はそう言うと、セシルにかかっていた布団を捲る。そして引き出しの中から取り出した何かの包装紙を剥がすと、動かないセシルの手のひらの中にそれを置いた。セシルが目を向けると、そこにあったのは小さな黒い飴玉のような形をした治癒の術具であった。

 「これは。」

 「完治、とまではいかないけど、少しは歩けるようにはなるわ。あまり長い間ここにいない方がいい。」

 女性はそう言うと、セシルの左手の指先を針のようなもので突いた。指から滲んだ血は治癒の術具へとかかり、それを見ると女性はその術具をセシルの手のひらから取り、口元へと運んだ。セシルがそれを口の中へ含むと、女性は持ってきた水をセシルの口へゆっくりと流し込む。

 「ん・・・どうして、自分を。」

 「あの子の前で倒れていたのよ。普段だったら気づかないふりをしたいところだけど、あの子がとても心配してたから。」

 術具を飲み込み女性へと質問したとき、女性のその言葉に気を失う直前に見たものを思い出した。意識が朦朧としていながらも谷底の先にあったまるで子供部屋のような内装をした牢屋、そして中で鼻歌を楽しそうに歌っていた少女、死の間際であったため幻かとも思っていたが、女性の言葉に自分が見たものが現実であったことを知る。

 「あの少女、彼女は一体・・・。」

 「私はただ彼女の世話を任されているだけ。」

 セシルの質問に女性がそう答える。

 「・・・あの子には私から貴方が無事だったって伝えておくわ。とても心配していたから。」

 「何故あのような場所に、それも一人で・・・。」

 「あの子にも理由ぐらいあるわ。いい、忘れた方が良いことも世の中にはある。」

 女性がセシルへとそう答える。その言葉から、あの少女に何か秘密があることを察したが、セシルはそれ以上聞くことをしなかった。

 「ただ、普通を生きてほしい。それだけよ。」

 ラトーリアが哀しげにそう呟く。その言葉に彼女があの少女に抱くものが少し垣間見えた気がした。

 治癒の術具の効果から身体の痛みがだいぶ和らいできたのを感じた。身体を起こそうとすると先程のような鋭い痛みに襲われることはなく、そのままベッドから立ち上がることができた。そのとき、女性がセシルへ言った。

 「貴方の着ていた服だけど、あんなに血まみれじゃ着るわけにはいかないでしょ。ひとまずかけてある服を着て。いつか届けるわ。」

 女性はそう言って入ってきた扉から出ていく。女性が部屋から出ていくと、セシルはそばにかけてあった男物の服へと袖を通しながら、少しずつ頭の中の疑問を整理した。谷の少女のこと、襲ってきた不審者のこと、そしてあの女性のこともセシルにとっては疑問のひとつになっていた。治癒の術具は誰でも入手することはできる。しかしその精度は製作した術者によって幅が広く、小さな切り傷しか治せないものから瀕死の重傷も直してしまうほどの効力をもった強力なものも世の中には存在する。そして治癒の術具はその効力が強い順に他の術具とは比べ物にならないほど価値に差があった。ベッドの上で意識が戻ったときの痛みから自分の身体は間違いなく軽傷と呼べる状況ではなかった。それを完治とまではいかないもののほぼ治癒してしまうほどの効力をもつ術具は、正直言ってただの谷の管理人の人間が持てるような代物ではなかった。

 「喜ぶ、べきなのか。」

 やっと気づくことのできた自分への疑問に外的に現れた新しい疑問、さまざまなものが自分の中から溢れかけていた。崖下に落ちたあのとき、自分の中でこのまま終わってしまっていいとさえ思った。今さらどんな顔で母と父に会えば良いのか分からない。こんな薄情な自分に、安らぎをくれるであろう二人へどんな顔をして会えば良いのか。

 少しサイズの大きい服を着終え女性が出ていった扉から部屋を出る。扉の先は台所と食事を取るためのテーブルが置かれており、外観通りかなり簡素な造りをしていた。見ると台所やテーブルなどはかなり綺麗に片付いているものの、使用していないであろう箇所の棚やその他の小物周りはあの女性が住んでいるとは思えないほど汚れていた。台所脇にあった玄関より表へと出ると、軒先に伏せの体勢をして寛ぐ自分のマウの姿があり、側には先程の女性が水の入ったバケツをマウのそばへ運んでいた。マウはそのバケツに鼻をつけると少しの間の後、バケツからゆっくりと水を飲み始める。

 「ご主人想いよね。貴方の匂いを追ってきたのかしら。」

 女性がそう言うと、セシルは静かにマウへと近づき腕を伸ばす。マウは水を飲みながらセシルを見ると、水を飲むのをやめ穏やかな目つきで頭をかがめる。セシルはそんなマウの頭を優しく撫でた。思えばこのマウとも幾度の戦場を経験してきた。戦場で駆るマウは騎士同様、死と隣り合わせであり中には十頭以上のマウを看とることがあるものもいた。セシルは単騎での戦闘を許された第七位となった日からこのマウと共に戦場へ立ってきた。共に戦い、共に生き、すでに戦友とも呼べる存在だった。

 「あと少しで夜も明けるわ。」

 「はい、もう行きます。」

 女性の促しにセシルはそう応えると、マウの背へと跨り手綱を引く。手綱を引かれたマウは体を起こし立ち上がってみせると、セシルはマウの上から女性へと話しかける。

 「ありがとうございました。本当に、感謝しています。」

 「気にしなくていいわ。それが管理人の役目だから。」

 女性がそう答えると、セシルはマウを防御外壁の方へと向ける。そのとき、女性がセシルへ呟くように言った。

 「お節介かもしれないけど、自分のこと、少しでも好きになった方がいいわ。」

 女性のその言葉に、セシルは女性の方へ黙ってゆっくりと顔だけを向けた。

 「ずっとうなされていたの、眠っている間、それも自分をずっと蔑むみたいな言葉を言いながら。」

 自分の中にあるもの、自分が抱いているものがやはり思っていたものなのだと、女性の言葉で確信に変わる。

 「お名前、お聞きしてもいいですか。」

 マウの上からセシルが唐突に女性へと聞く。

 「・・・ラトーリアよ。」

 「ラトーリアさんならどうしますか。今までずっと信じていた自分を、突然自分が否定したら。自分の中にあるものを、自分自身が認められなくなってしまったら。」

 ラトーリアと名乗った女性にセシルは今自分が持っている悩みを率直にぶつけた。かつての自分と今の自分、割り切ることも戻ることもできない。だから、どうすれば良いのかセシルにはわからなかった。セシルの抽象的な質問にラトーリアは少し考えた後、マウのために運んできた水の入ったバケツを取るため姿勢を屈めると、持ち上げながら言った。

 「そうね、そしたら新しい自分でも見つけるわ。自分のことを決めてあげられるのは自分だけだもの。受け入れること、振り返ることも大切かもしれないけど、私ならそんなことはしない。自分が生きづらいと思う生き方なんて、するだけ損だしね。全部捨てて新しい生き方をした方がずっと気持ちが良いわ。」

 ラトーリアの言葉にセシルは少し俯く。するとラトーリアは優しくセシルの手の甲へ優しく触れる。その手は悴んで冷たく、しかし確かに温もりがあった。

 「セシル、あなたにはあなたの生き方がある。それを見つけなさい。それがあなたにとって一番必要だと思うわ。」

 ラトーリアの優しいその言葉にセシルの心が落ち着く。何故だろう、ラトーリアの言葉はまるで自分の心をそっと抱きしめてくれるような、そんな温もりを感じられた。その温もりはセシルの抱えている不安の形を優しくしていった。

 「あの、必ずお礼に参ります。」

「ええ。都合の良い夜に、ここへ来なさい。」

 ラトーリアの優しさにセシルはそう言い残すと、防御外壁の見えるバンドレイク城の方へとマウを走らせた。ラトーリアはそれを見届けると結っていた髪留めを振り解き、一人民家の中へと黒猫と共に入っていく。そのとき、横目でセシルを見ながら言った。

 「ごめんなさい、巻き込んでしまって。」

 

 日が登りかける朝焼けの中、セシルを背に乗せたマウが崖上の道を駆けてゆく。本来であれば大きく迂回する必要のある道であったが、セシルはマウの脚力と跳躍力を信じて、飛び跳ねさせるように崖を渡っていった。まるで弾むような動きでマウが崖を渡りきると、セシルは再びマウの手綱を引き、城下街への平原を全力で駆けさせてゆく。

 朝風に吹かれながらセシルと彼のマウが颯爽とその中を走っていると、空に黒く巨大な何かが飛んでいるのが視界に入った。見上げると、そこには人よりも遥かに大きな翼と長い尾、そして人を魅了するほどに美しい黒い羽毛に全身を包んだ黒鳥(バルドゥ)が優雅に空を飛んでいた。黒鳥はウェインラッド大陸において大変希少な生き物であり滅多に人前に姿を現さず、その姿を見ることさえ難しかった。セシルがその姿に見惚れていると、彼の顔の上に何かがふわりと当たる。手綱から片手を離し当たったものを手に取ると、それは黒鳥の羽根であった。黒鳥は「転機を告げる鳥」と呼ばれ、古くから「時代が変わるときに現れる」縁起の良いものとされており、その羽根は古来よりまじないの道具として重宝されていた。セシルがその羽根を握ると、黒鳥は遥か高くへと飛び立ち、その姿は雲の上へと消えてしまった。セシルが残された羽を見ると、それはとても美しくまるで宝石細工で作られているかのようだった。その羽根を見ていると、セシルは自身の胸の高鳴りを感じた。自身の前に黒鳥が現れたことが何か、自身のこれからを暗示しているかのように彼には思えたのだった。

 東門まで辿り着くと、マウの世話係が来る前にマウの厩舎へと向かい一番手前の小屋にマウを繋ぎ一撫ですると厩舎を後にした。多くの商人たちが朝一の用意をしている間を抜け、東大通りからヴァーンハイト家の屋敷まで走っていく。

 屋敷の前へ息を切らしながら着き玄関の方を見ると、カルネルが一人、夜に見た服装のまま玄関の前で不安そうな顔つきで立っていた。セシルがカルネルに気づき玄関の方へと歩み寄っていくと、カルネルもセシルの姿を見つけ胸に手を当て安堵の息を漏らす。

「セシル様、よくご無事で。何かあったのですか。」

 カルネルが心配そうにセシルへ問いかける。

「カルネルさん、もしかして。」

「セシル様が帰られるまではと思っておりましたので、本当に、ご無事で良かったです。」

 カルネルのその言葉に彼が昨日の自分が出かけた夜からずっと屋敷で待っていたことを察し、申し訳のない気持ちになる。

「心配かけてすみません。あの、父上と母上は。」

「フィデル様はすでに早朝から軍議のためバンドレイク城へと向かわれました。ラウラ様はまだ寝室かと。」

「何か、自分のことは尋ねられましたでしょうか。」

「いえ、セシル様より他言は無用とのことでしたので。」

「そうですか、すみません。本当に。」

「謝られないでください。ご無事というだけで本当に良かったです。」

 カルネルはそう答えるとセシルへ一礼し、その場を後にした。セシルはカルネルの背中に謝罪を込めて一礼すると、自身の部屋へと静かに戻っていく。

 部屋へ入ると疲れからかベッドの上へフラフラと倒れるように横になる。目線の先には綺麗に飾られた自分の鎧が朝日に照らされ輝いて見える。これから探そう、そう決めた。自分が納得できる理由を、悩んだ末にあるのが両親のためであったならそれでもいい、自分で決めたことであるなら。いつもと同じはずの悩みであったが、いつもとは違うその想いにセシルは少しの安らぎを覚える。そのとき、一瞬崖下で見たあの光景が脳裏に浮かんだ。あの少女は一体なんだったのだろうか。異常ともとれる光景は確かに焼きついている。しかし、ラトーリアと会話を続けているとき、何故かそれは頭の片隅に追いやられていた。想いを巡らす中、気づいた時にはすでに眠りについていた。


2.

 バンドレイク城内二層にある軍議室に多くの騎士団の人間が席についていた。室内中央に設置された一辺に10人は容易に並ぶことのできる堅牢な造りをした長机には椅子が20脚ほど設置されており、長机の長辺、正面中央にバセットが腰を掛け、その隣にフィデル、そして第四位までの騎士位を持つ人間たち合計約30名がその長机を取り囲むように席へと着いていた。

 「・・・バルクはまだか。」

 「ファーレン三位は欠席すると連絡を受けております。」

 席につき少しイラつきを見せていたバセットがアーデルへと聞くとアーデルがすぐに返答した。

 「あいつらしいな、興味がないことには正直だ。」

 その報告にフィデルが横から呟くと、バセットは苦い顔で軽く頭に手を当て言った。

 「やつにはやつにしか出来ない仕事があるからこそあの位を与えている。だが、こう示しをつけられなければ。」

 「ならバルクの代わりを見つけるしかあるまい。誰かが出来るとは思えんが。」

 バセットの言葉にフィデルが口元に笑いを含めながらそう答えると、バセットがため息を吐く。バルク・ファーレンは王国騎士団第三位の騎士位を持つ人物である。王国騎士団は元々第二位までの位のみが一人ずつに与えられるいわば上級の位として扱われており、第三位は普通の騎士位であった。しかし、王国内にてある特殊な任を行うことが決まった際、部隊長として名の上がったバルク・ファーレンが上級位の騎士位を望んだため、前国王が新たな騎士位として特任隊長の権利を持つ第三位を決めたのであった。しかしバルク自身の騎士としての態度や在り方はバセットにとっては悩みの種のひとつだった。

 バルクの欠席に苦い表情を浮かべながら、バセットが会議室の扉近くに立つ一人の兵士に合図を送る。合図を受けた兵士はバセットへと会釈を返し、軍議室の外側より軍議室の扉を閉めると、その様子を見たバセットが向かい合っている騎士団の面々の方へ向き直る。

 「では、これより緊急軍議を始める。今回集まってもらっているのは皆が察している通り、先日までのルネリスの件についてだ。アーデル。」

 バセットに名前を呼ばれたアーデルが手元に抱えていたとてつもない厚さになっている資料を開きながら話し始める。

 「はい、3日前に我々ケイロス王国騎士団により鎮圧された中立領ルネリスでのノクティル軍による侵略行為についての報告となりますが、投降兵からの情報によりこの一件、ルネリスの内通者によってノクティル側へ持ちかけられた話であるということがノクティルの投稿兵からの証言により判明しました。」

 アーデルのその言葉に席に着いていた騎士たちが動揺を見せるが、アーデルは淡々と資料の読み上げを続けた。

 「ルネリスは現在、紙重石の発掘できる鉱山、そして軍用に用いられることの多い剣の術具の原本を所持する11代目相続者、グアマン・サルヴァンが執官を務めており、体系としてはサルヴァン一族による一族経営に近い状態となっております。ルネリス内では争乱の多い情勢から紙重石の価値が上がり続けている今、侵略される前に条件を整えた上で国属となったほうが良いという声も多くあがっていましたが、グアマン執官はこれを全て無視していたようです。元々はノクティル領であったため、ノクティル側からも多く話し合いの打診もありましたが、一切聞き入れなかったグアマン執官の現体系に不満を持ったルネリスの一部住民が執官を現在の地位から引きずり下ろすことを目的にノクティル側へ襲撃を依頼したとのことです。」

 「執官を下ろすために仕組まれたことだったということか。」

 アーデルの読み上げた報告にフィデルが呟く。

 「しかしおかしくないでしょうか。ルネリス側の目的が侵略なのではなく執官の失脚なのであれば街側の被害状況が規模としては大きすぎます。まるでそれ以外の目的があるようにしか。」

 バセットの席の正面に座っていたヴェルトール・ギニアット第四位が報告を聞き、バセットへと問いかける。

 「それについても答えではないが繋がりそうな気になる点を見つけている。」

 バセットはそう言うと長机の中央に一枚の絵を滑らされる。それは写実的に描かれたアグリッサの似顔絵であった。

 「アグリッサ・キャンベル、今回のルネリス侵略の行動隊長を務めていたものだ。この男、ノクティル内においてもほとんど情報がなく、2年前より突然現在の第二大隊長の地位に就いたらしい。誰も彼の存在を大隊長に任命されるまで知らず、今回の侵略作戦においても最初に行動隊長として任命されたものから急遽アグリッサに変わったとのことだ。」

 「・・・きな臭い話だな。」

アグリッサに関しての情報にフィデルがそう呟くと、バセットはさらに言葉を続けた。

 「アグリッサ・キャンベルは部隊を任せられている存在でありながらたった一人、術具まで使用してルネリスから逃亡した。たった一人大隊長が逃げ帰ることなど、作戦を完遂しているならまだしも、何もできていないなら恥もいいところだ。その意味、わかるか。」

 バセットのその言葉にフィデルが呟く。

 「別の、目的があったと言うことか。」

  フィデルのその言葉に再び軍議室の中がざわつく。

 「確証はない。投稿兵の話でもそのような内容は出てこなかった。しかし、出自不明の人間が突然隊長を務めさせられた作戦、ありえない話ではない。」

 バセットのその言葉にヴェルトールが問いかける。

 「それは一体。」

 「分からん、しかし少しルネリス側に関しても調べてみる必要がありそうだ。イングラス四位、ルネリス側へ少し探りを入れてみてくれ。もしかしたら、ルネリス側も何かを隠しているのかもしれん。」

 バセットにそう言われ頷いたのは、王国騎士団において諜報部隊を受け持つリーベン・イングラス第四位だった。

 ノクティルの話に始まった緊急軍議は二時間を要した末に決着し、出席者たちが軍議室を後にする。フィデルが席から立ち上がろうとしたとき、まだ横に座っていたバセットがフィデルへ話しかける。

 「フィデル、少しいいか。」

 「・・・どうした。」

 バセットの声にフィデルが答える。

 「セシルの件だが、今回の任務での彼の働きは素晴らしいものだった。間違いなく彼は強くなる、私が保証する。」

 「当たり前だ。あいつには俺の全てを与えている。そうでなくては困る。」

 フィデルが自信に溢れた顔でそう答えると、バセットは少し悩みながらも言葉を続けた。

 「だが、もうひとつ今回の件で知った。彼の中にはまだあのときの彼自身が残っている。それを救ってやれるのも殺せるのもお前だけだ。分かるだろう、その意味。」

 バセットのその言葉を聞くと、フィデルは静かに立ち上がりバセットへと返答する。

 「あいつ自身のことはあいつが決めることだ。それが不幸にするものでもそうでなくても俺はそれを見届ける。それが俺の役目だ。」

 フィデルがそう答えると、バセットがフィデルへ静かに呟いた。

 「それは、本当にセシルのためか。」

 バセットのその言葉にフィデルの動きが固まる。

 「フィデル、俺もお前も他の人間が思うほど立派な人間ではないことは互いに分かっている。セシルを救ったことさえ正しさで語れば間違いだった。だが、私たちの中にある正義がそれを許せなかったから私たちは彼を助けた。」

 バセットが言葉を続ける。

 「俺はただ彼を救いたかっただけだ。だがフィデル、お前は彼に何か違うものを見ようとしていないか。それにあの時のテンペックの一件、お前は何を隠している。それは友人であり戦友でもある人間にも言えないものなのか。」

 バセットがそう言うとフィデルは沈黙とともに扉の方へと歩き出す。そして軍議室を出ようとした瞬間、一言バセットへと呟いた。

 「俺はセシルにやれる事をやっているつもりだ。・・・お前とは違う。」

 フィデルはそう言い残すと軍議室を後にした。バセットはフィデルのその言葉に一人残る軍議室の中、内ポケットより何かを取り出す。それはすでに錆びかけている汚れた王族勲章であった。

 「・・・果たせるなら、私だってやってやりたいさ。」


3.

 明るい日差しがベッドの上で寝ていたセシルの顔へと差し込み目が覚める。気がつくと時刻は既に昼過ぎになっていた。バセットから言い渡された二日間に及ぶ久しぶりの休暇が今日から始まる。騎士団は常に国のための役目を負わされるのが義務ではあるが、暦のうち年に数日だけ任から解放される日が設けられていた。ベッドから立ち上がりそのまま自分の部屋から廊下へと出ようとしたとき、不意に扉の側にある姿見に映った自分の姿に目をやる。ラトーリアから着るよう促されたサイズの合わない服装は見てくれにかなりの違和感があった。

 「このままじゃ、な。」

 セシルはそう呟くと服を脱ぎ、棚にあった自分の服を着る。いつもの服に袖を通していたとき身体の違和感に気づく。姿見に写った自分の身体は矢を受け、崖から落ちたにも関わらず傷ひとつなかった。恐らく昨日の治癒の術具の効果なのだろうと察したが、それは同時にあの術具が計り知れないほどの上質なものであることを察した。そのとき何かが袖元から落ちた。見るとそれは先ほどの黒鳥の羽根であり、今見てもとても美しかった。セシルは自身の部屋の小棚の中から少し薄汚れた小物入れを取り出し、その中に黒鳥の羽根をしまう。それはセシルが故郷でフィデルに拾われた日より彼がずっと持っていたものであり、彼にとっての思い出の品の数々が中に納められていた。

 小棚に小物入れを戻し、服を着替え部屋の外へと出ると、使用人の女性が廊下の掃除をしていた。

 「おはようございます、セシル様。」

 「おはようございます。」

 使用人からの時間のずれた挨拶にセシルがそのまま返す。セシルがエントランスの方へ向かおうと階段を降ろうとしたとき、一階から何かの機械音が小さく聞こえてきた。

 「どうされましたか。」

 階段で立ち止まっているセシルに別の使用人が話しかける。

 「母上の裁縫室からでしょうか。」

 「ええ、多分そうだと思います。先ほどフィデル様の外套(がいとう)をお持ちになったラウラ様をお見かけしましたので。」

 「ありがとうございます。」

 セシルは叩きを片手に持つ使用人の女性へそう言うと、特に理由もなく裁縫室へと向かった。そして裁縫室の前へと立つと深呼吸をした後、扉をノックする。

 「誰かしら。」

 内側からラウラの声がする。

 「母上、失礼します。」

 セシルはそう言うと裁縫室の扉を開ける。中へ入ると、そこには壁一面にラウラの作った上質な生地に施された絢爛なタペストリーが飾られており、他の部屋とは比べ物にならないほどの収納が多くあった。そして、部屋の中央にある大きな裁縫機の前に向かう眼鏡をかけたラウラの姿があった。

 「どうしたのセシル。」

 ラウラが手を止め、セシルへ向き直り話しかける。

 「いえ、音がしたので。こうして母上が裁縫機を動かしている機会を見ることもあまりないと思いましたので。」

 「そう、昔はよく私の脇で見ていたものよ。」

 ラウラはそう言うと、再びフィデルの外套を裁縫機の上で滑らせる。セシルがラウラの手元を見ると、フィデルの外套は既に至る所に継ぎ接ぎの後があり、ラウラはそれを同じ色の糸を使い目立たないよう縫い合わせていた。

 「父上の外套、そんなにも使い込まれていたのですね。」

 「あの人に新しいものを薦めても変えようとしないのよ。これは大切なものだから、決して捨てるわけにはいかないって。」

 ラウラはそう言うと、再び手を止め外套を広げてみせる。中央には兜と剣の形をしたヴァーンハイト家の紋章、そして散りばめるように使われた金色の糸で縫われた羽根のような模様、それはフィデルが戦場でいつもはためかせているものだった。

 「あの人が第二位になった日、差出人の分からない届け物の中にこれが入ってた。あの人は送り主が誰なのか分かっているのかもしれないけど、私には何も教えてくれなかったわ。」

 ラウラが外套を見ながら呟いた。

 「母上は気になさらないのですか。」

 「ええ。だって、今あの人が愛してくれているのが私であるならそれで十分。」

 セシルの疑問にラウラはそう簡単に答えると、裁縫機につけていたボビンを外し、横に置いてあった違う色のものと取り替える。その光景を見ていて、セシルが不意にラウラへと聞いた。

 「母上は何故ご自分で修繕されるのですか。」

 「え、どうしたの急に。」

 「すみません、ただ気になったので。多くの使用人の人たちがいるこの屋敷でも、料理や裁縫は母上ご自身が行われる。何故なのでしょうか。」

 セシルのその質問にラウラは裁縫機の前に出していた手を止め、違う道具を裁縫機の下についた引き出しから取り出しながら答える。

 「私は彼の妻であり、あなたの母でもある。ただそれだけよ。」

 そう言うとラウラは取り出した小さな鋏で外套の生地からほつれている縫い糸を丁寧に切断しながら言葉を続けた。

 「あの人はそばにいてくれるだけでいいと言ってくれたけど、それじゃ私が納得できない。ヴァーンハイトの姓をもらったのだから、私はあの人が恥ずかしくない妻でありたいと思う。ただそれだけ。あなたにとっても同じよ、セシル。」

 ラウラはそう言うとセシルへと視線を向ける。しかしセシルは下を俯きながらラウラへと言った。

 「私はヴァーンハイト家として、母上や父上の子供として恥ずかしくはないでしょうか。」

 その言葉を聞くとラウラは小さくため息を吐き、セシルの元へと近づく。俯く視線の先にラウラの足が見え前を向くと、ラウラがこちらに笑みを浮かべながらセシルを見ていた。

 「いずれ貴方も、もっと上の位を持つようになる。そしたらいずれ外套が必要になるわ。これは騎士団の人にとっての強さと誇りの証なのだから。」

 「あの人も期待している。貴方は自分にとって特別な存在だからって。私もあの人を信じるわ、私たちの息子を。」

 ラウラはそう言うとセシルの頬を優しく撫で笑いかけた。ラウラのその優しい顔にセシルはただ黙って頬を差し出し、触れるラウラの手へと目をやる。そのか細くも優しい手のひら、その温もり、それは紛れもなくセシルに向けられた母の手だと感じた。こんなにも優しいのに、こんなにも温かいのに、自分が嫌になった。

 「さあ、外へ出て。もう少しで終わるから、気が散らないようにね。」

 ラウラはそう言うと再び裁縫機の前へと腰をかける。

 ラウラのいた裁縫室を出ると、ラウラに撫でられた頬へとセシルが自分の手を合わせる。

 「まだ、こんなに幼かったのか。」

 成人となり、騎士位としても第六位となった。自分の中ではもう大人になったつもりでいた。だからこそ自分の抱えるものに向き合おうとしている。しかし、たったひとつのその温もりに自分の幼さを感じたのだった。セシルはそのままエントランスへと向かうと屋敷を後にした。


 昼下がりの城下街北大通り、国内外から取り揃えられた生活必需品や食品が市場形式で多く売られる東大通りとは違い、北大通りでは一般的な飲食店や雑貨店、娯楽施設など普通の商店が多く立ち並んでいた。朝の時間は東大通りの方が人通りが激しいが、昼間から夜に関してはその多くがこの北大通りへと流れ込む。多くの人が行き交うその中に屋敷を後にしたセシルの姿もあった。

 多くの店が立ち並ぶ中、軒先に花壇のある赤い花輪が飾られた店へとセシルが入っていく。中にはセシルにとって見慣れた一人の恰幅の良い男性がカウンターの裏から静かにセシルへと会釈をする。客席に人がほとんどいない店内、セシルがその男と向かい合うようにカウンター席へと座ると、奥から紺色の髪をした少女が笑顔でこちらへと近づき、セシルへメニュー表を差し出しながら話しかけてきた。

 「あれ、セシルさんの方が先に来るなんて珍しいですね。兄はまだ来てないですよ。」

 「今日から少し休暇なんです。ヨークにも、特には何も言ってないので。」

 「へえ、いつもご苦労様です。まあ、後10分もすれば顔を出すと思います。」

 「ダウルクレトナ」という名のこの店は、セシルの友人であるヨーク・ラフェスタの家族が経営する飲食店だった。カウンター越しに立つ恰幅のいい男性はヨークの父であり店の名前でもあるダウル・ラフェスタ、メニューを差し出した少女はヨークの妹で看板娘のセノ・ラフェスタだった。

 「そういえばセシルさん、ベルノール王子の前期指南役に任命されたんですか。兄と歳が変わらないのに大出世じゃないですか。」

 「そんなことありません。ただ、剣を振ることしか知らなかっただけです。ベルノール王子も既に第七位という位にありますし、あの方の腕ならばすぐに第六位にもなるでしょう。」

 セシルがセノの言葉に謙遜をする。セノは決して家族以外を貶すことはせず、お客全員を気持ちが良くなるほど褒めるのが上手かった。それゆえ彼女のファンとなりお店の常連も多いが、そのほとんどが成人男性であり彼らが来るのはお酒の提供が始まる夜がほとんどだった。ヨークとたわいもない会話をするために店へ来ているセシルにとっては今の時間が最も都合が良かった。

 「それでもすごいですよ。やっぱり貿易商人なんかより騎士団の騎士の方がカッコいいなあ。」

 セノはそう呟きながらカウンターの奥へと入っていく。側から見れば羨ましいのかもしれないが、本当に剣を振ることのみを学び続けてきたセシルにとってはその感覚がいまいちわからなかった。そのとき、店の扉が勢いよく開いたことでドアベルが大きな音で鳴り響く。

 「親父、頼まれたもん持ってきたぞ。」

 その声と共に、店の扉を足で蹴り開けながら両手で大量の荷物を抱えたヨークが店へと入ってきた。

 「お兄ちゃん、セシルさん来てるよ。」

 カウンターの奥へと入っていたセノがヨークへ聞こえるように大声で言う。ヨークが扉近くのテーブルに持ってきた荷物を置くとセシルの方を見た。

 「お、珍しいな。俺より早いなんて。」

 「今日から休暇なんだ。たまにはな。」

 セシルがそう返すとヨークはセシルの横の席へと腰をかける。ヨークが持ってきたのは店で出す多品目に渡る食材の山だった。セノが店の奥から籠を持って出てくると、一つずつチェックしながらその籠へ移していく。

 「おいおい、そんなことしなくたって大丈夫だって。」

 「そう言いながらお兄ちゃん、この間持ってきた山菜だって半分は食べれないものだったじゃない。値切るのはいいけど、ちゃんと中身をチェックしてよ。」

 セノの言葉にセシルは少し頷いた。

 「ったく・・・。親父、今日はコーヒーで頼むわ。これから紙重石の件でルネリスの貿易商人と商談なんだ。」

 ヨークがそう言うとヨークの父は黙って燻てある豆を手作業で砕き始めた。

 「ルネリスの件って、もうか。」

 セシルがおもわず呟く。

 「ああ、やっぱり中立領の人間は強いよな。絶対流れちまうかと思ってたけどよ。こっちで見積もり出してくれるならなんとか間に合わすだってよ。」

 「あんなことになったのに。」

 「お前が思っているよりも、人間は頑丈ってことさ。体も心も。」

 ヨークがそう返すと同時にダウルが彼の前へ鏡面加工の施された白銀色コーヒーカップを置き、そこへ真っ黒のコーヒーをゆっくりと注ぐ。

 「飲むかい。」

 「あ、いただきます。」

 ヨークの父が不器用にセシルへ聞くと、セシルが答える。するとヨークの父はセシルの前へともう一つカップを置く。カップの中には既に食用のシウからとれる乳液が適量注がれており、そこへヨークの父がゆっくりとコーヒーを注ぐとカップの中でゆっくりと白と黒が混ざっていく。

 「ダッフェルバウンへと避難した連中も、きて早々に退居の手続きをとってるって噂だ。あそこの代表も案の定、委任状はサインしなかったらしい。まあ、噂じゃサインできない理由があったらしいなんて言われてるけどよ。」

 カップを眺めていたとき、ヨークの言葉にセシルが静かに驚く。自分がルネリスで見た光景は真実であり実情なのは間違いなかった。そうであるにも関わらず、ルネリスの人々は強く生きようとしている。自分が過去に囚われているのにも関わらず、彼らは前を常に見ている、そう感じた。

 「一人一人が自由に自分の生き方を決めればいい。それが今の時代を生きるということだ。」

 ヨークの父が意味ありげにそう言うと、コーヒーを注いだカップをセシルの前へと差し出す。ダウルの言葉が少しラトーリアの言葉と重なる。セシルが差し出されたカップを口につけると、ヨークが横から話題を変えて話しかけた。

 「そういえばよ。昨日言いそびれたけど、こないだちょっと変な奴を見てさ。」

 「・・・変な奴?」

 セシルがカップから口を離して聞き返す。するとヨークも持っていたカップを置き話し始めた。

 「ああ、南門の運搬口から店用の仕入れ品を受け取ってたら、西門側に繋がる連絡橋へ登っていくやつがいたんだよ。あそこって改修作業で今は閉鎖されてるだろ。最初は改修作業の関係者かと思ったんだけど、どうも違うっぽいんだよな。」

 ヨークはそう言うと左手をテーブルの上へと出す。すると彼の手元に羽ペンのような形をした彼のオブリヴィオン「ゲイヴィー」が現れる。

 「こいつでそいつを描いてみたら、どう見ても騎士団や警備団の人間には見えないんだよ。城下街の人間だったら大体見た顔だから分かるんだけどよ。どうも見ねえ顔だし、しかも一番君が悪いのがこいつを目で追ってたらいきなり目先から消えちまってさ。隠れたとかじゃなく、本当に一瞬のうちにいなくなっちまったんだ。」

 ヨークのオブリヴィオン「ゲイヴィー」はヨーク自身が見たものを事細かく描き起こす能力を持っていた。それはヨークの記憶と結びついておらず、ヨークが知覚したものを写実的に絵として描き起こすことができた。ヨークは一枚の紙を取り出しそこに「ゲイヴィー」のペン先をはしらせる。まるで活版印刷のような速さで人の全身像が描かれていく。そして、その描かれた姿にセシルは見覚えがあった。

 「この男・・・。」

 そこに描かれたのは忘れようもない、昨日自身を谷底へと突き落とした地面から這い出てきた男の顔だった。

 「お前、こいつを知ってるのか。」

 ヨークにそう問われ、セシルは悟られることなく自然に首を横に振る。そしてコーヒーを一口啜るとヨークに対しセシルが問いかける。

 「ヨーク、禁域の谷に何があるか知っているか。」

 「禁域の谷?さあな、噂じゃやべえ罪人がいるって聞いたことがあるけどよ。だから今の国王はその罪人を他と干渉させないために地下留置場を作ったって。」

 「罪人・・・か。」

 そう言われセシルはあの少女のことを思い出す。少女が罪人だとセシルには到底思えなかった。しかしラトーリアがそう言ったように、あの少女があそこにいるのは間違いなく理由がある。それが何であるのかは今の自分には分からない。 

 知りたいと思う自分が心の奥底にいるのをカップに反射する自分の顔で知った。そのとき、目の前にいたダウルがセシルのカップへ再びコーヒーを注ぐ。

 「人生は苦悩の連続だ。少しずつでも確かに前へ進めればそれでいいんだ。」

 「お父さん、さっきからのそれ、この間の学者の人からもらった啓発本に書いてあった言葉でしょ。」

 再びダウルが呟いたとき、奥から顔を出したセノが彼に言った。ダウルはばつが悪い顔をすると、静かにカウンターへ並べてある展示用のコーヒー豆の入った瓶を整え始める。その光景にヨークがしばらくの沈黙の後噴き出すと、セシルもつられてしまった。セノも、そして当人のダウルも笑い「ダウル・ラフェトナ」の店内は温かった。

 

 ヨークが商人との商談へと行くのを店の前で見送ると、セシルは何気なしにそのまま北門の方へ訳もなく向かった。北門の防御外壁の上へと登ろうとしたとき、警備団の人間が入り口でセシルを止めようとするが、彼の顔を見知っていた一人が防御外壁の階段の前を空ける。外壁内部の階段を上がっていき、連絡橋の上からいつも通りのケイロスの城下街を見下ろす。少女のこと、自分のこと、両親のこと、細かく絡みつく一つずつの悩みが彼の心を締め付けていた。

 「自由な生き方、か。」

 ダウルの言葉をセシルがふと呟く。自分の望むものが本当は何であるのか分からない。いや、元々そんなものなどなかったのかもしれない。父と母への恩返しという理由で剣を握り続けた結果、そこに自分はいなかったことを昨日知った。

 セシルはゆっくりと腰に携えていた直剣を鞘ごと取り出すと、自身の眼前に構え鞘を抜く。丁寧に研がれた煌めく刀身に情けない自分の顔が映ると、その迷いを抱える目と目があった。自分の中でも分かってはいる、いつまでもこの気持ちのままでいてはならないことは。迷いを持ち戦えばおそらく他者の剣に容易く討たれてしまう。それどころか自分が起因に同志を失うことになるかもしれない。それだけは、決して許されない。そんな情けない理由で命を落とすことなど許されなかった。


 「あなたにはあなたの生き方がある。」


 「・・・そうですね。」

 ラトーリアの言葉を思い出しセシルはそう静かに呟くと、抜いた剣を鞘へ戻し、瞳を瞑りひとつ大きく体全体で息を吐く。そして後ろへ向き直ると外壁を急いで下り、再びマウの厩舎へと走って向かった。

 北門から走って東門にあるマウの厩舎へ訪れる。息を切らしながら前を見ると、セシルのマウが静かに伏せていたが、彼の気配を察してか耳を立てると首を上げ辺りを見渡した。セシルがマウへ近づくと、マウはセシルを見るなり背筋を伸ばし立ち上がる。その背をセシルが撫でるとマウは体勢を低くし、その背にセシルは跨ってみせた。そのとき、厩舎の影からマウの世話を行なっている厩務員がマウの飼い葉を抱えた姿と目が合う。

 「ヴァーンハイト六位、どうされました。」

 厩務員が不思議そうにセシルへと尋ねる。

 「外の見回りに連れていきます。日が落ちる頃には戻りますので。」

 セシルはそう言い残すと慌てる厩務員に目もくれずマウを走らせ、東門より出ていった。ひとつひとつ解いてゆこう、自分の中に絡みつく疑念たちを、そう心に誓いながら。



4.

 まだ昼下がりのケイロス領の草原をセシルを乗せたマウが足を弾ませるように駆けていた。今朝のイェルコ渓谷からの道を辿るように禁域の谷へと向かう。自分の中にある気持ちに踏ん切りをつけるため、まずはラトーリアへ改めて礼を言いたかった。彼女に救われたからこそ、今の想いを得た。だからこそ、この想いをラトーリアへと一番はじめに伝えたかった。いや、それも理由のひとつだが、セシルの中にはあの「牢屋の少女」がいた。彼女が何者なのかを知りたい、彼女のことを知りたい、あの異様な光景にある彼女にセシルの心は惹かれていた。そしてそれがセシルにとって今、一番初めに組み解きたい疑念であった。

 昨日の帰路を走り続けしばらくし、前を見上げるとあの管理小屋が見えてくる。少しずつマウの速度を落とし軒先まで辿り着くとマウの背から下りる。小屋を囲む柵の手前にマウを落ち着かせ、そこでマウを伏せさせる。小屋へと近づくと木製の玄関の前、自身の息を落ち着かせ、木製の扉を手の甲でノックする。

 「はい。」

 ノックの音に反応し、小屋の中から誰かの声がしたとき、セシルはその声に少し戸惑う。扉越しで籠って聞こえにくくはあったが、その声は間違いなく男性の声だった。

 扉が開くと、そこにいたのは父よりも少し歳を取った中年の男性だった。

 「あの、何か御用でしょうか。」

 男性がセシルへと問いかける。ラトーリアの家族かと思い、男性へと話しかけた。

 「昨日こちらにいらしたラトーリアという女性へ会いにきたのですが、いらっしゃいますでしょうか。」

 セシルが男に尋ねると、男は不思議そうにセシルの方を見る。

 「・・・何を言ってるのか分かりませんが、ここには私一人しか住んでいませんよ。」

 男のその言葉にセシルが聞き返す。

 「そんな訳は、昨日確かにこの場所でラトーリアという女性に怪我の手当をしていただいたのです。そのお礼のために。」

 セシルの必死そうな言葉に男は訝しむ。

 「そう言われましても、私はここで一人で家族もいません。もしかして他の管理小屋と間違えてませんか。イェルコの管理小屋はここだけではありませんから。」

 男性にそう言われセシルがふと考えるような顔で周りを見渡す。たしかに広大なイェルコ渓谷にある管理小屋はここだけではない。しかし禁域の谷のそば、今日の朝のことを間違えようことなどあるわけがなかった。

 「本当にご存じありませんか。」

 「申し訳ありませんが。」

 男性はそう言うと小屋の中へと戻っていく。セシルは扉が閉まると小屋を後にしようとした。自分の勘違いなのだろうか。だとしたら他の管理小屋もあたってみるべきか。そう考えを巡らせていたとき、不意に物陰に何かが垂れ下がっているのが見えた。それに目を向けると、それは綺麗に洗われ穴をあて布で補修された昨日自分が着ていた肌着だった。

 再び玄関をノックする。

 「あの、何度聞かれましても。」

 男性はそう言いながら軒先へと出てくる。

 「あの服、あれは一体。」

 セシルはそう言いながら木陰に干してあった服を指差す。指を視線で追い、服を見る男性だったが、それに何かを勘づいた様子はなかった。

 「・・・私のではないですが、誰がこんなところに。」

 男性の言葉にセシルが再び男性に聞く。

 「あの、昨日の夜から今朝の日の出前までの時間、どこにいらっしゃいましたか。」

 「昨日の夜から、今朝まで・・・。あれ、確かここにいたような気はするのですが。でも、何でだ。何も。」

 男性の言葉にセシルが何かを察する。たしかに自分はここにいた。おそらくあのラトーリアという女性も、そしてあの少女と同じようにラトーリアにもまた、何かある。ただ疑念がひとつ増えただけだった。


 「都合の良い夜に、ここへ来なさい。」


 ラトーリアの言葉を思い出す。夜でなければいけなかった。夜でなければ、彼女はここに住んでいない。彼女は夜だけ、この小屋の住人でいるのだ。

 「最後にひとつだけ、禁域の谷に何があるか知っていますか。」

 セシルが男に尋ねる。

 「さあ、私は人が入らないように見張っているだけなので。」

 男がそう答えたとき、セシルはこの男性もまた何も知らないということを知った。

 「他を当たってみます、ありがとうございます。」

 セシルはそう男性へお礼を言うと、マウを連れ再び帰路へと着く。もう一度、今夜訪れようと決めながら。

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