第二話 少女と騎士の話
戦災孤児であったセシル・ヴァーンハイトはケイロス王国騎士団の一人フィデル・ヴァーンハイトに拾われ彼の養子となる。フィデルの元で剣の修行を積んだセシルはケイロス王国騎士団へと入団しその強さを確かなものとした。しかし、ある時より父と母のために握る剣に疑問を持つようになる。
父より推薦され、ケイロス王国騎士団の任として向かったノクティル軍が制圧する中立領ルネリスにて剣を取るセシル、ノクティルの騎士と攻防譲らぬ戦いを繰り広げ、これを退けることに成功した。そして、任の終えた町には戦いの傷痕だけが残っていた。
騎士は強く、高潔でなければなければならぬと男は誓った。数多の戦場を友と共に駆け抜け、ときには剣を交え、ときにはその亡骸に誓いを立てた。剣は友たちとの誓いを守るため、そして騎士としての誓いと果たすためにと、決して離すことなく握り続けた。多くの勲章は男の誇りとなり、数々の異名は男の価値となった。誰もが男に憧れ、その強さに惹かれる。しかし、いつからであろうか、その意味に迷いを持つようになったのは。その強さも、その誇りもいつからか全てが空虚に感じるようになっていた。これは、その友を裏切ったからなのだろうか。
1.
ルネリスの中央広場へと多くの人々が集まっていた。保護されたルネリスの住民たちは騎士団の誘導に従い、怪我をしたものは衛生兵の治療を受け、無事なものはケイロスの騎士たちと復旧作業について話していた。投降したノクティル兵たちは騎士団に手を拘束され連行されていき、この戦闘で亡くなったものと既に息を引き取っていた住民たちの遺体は、騎士団とルネリスの住民たちによって、遺体を弔うために使用する大きな白い布製の袋「弔布」で包まれていた。
「状況はどうだ。」
バセットが中央広場に設置した簡易テントの中で報告書の作成していたアーデルに尋ねた。
「採石場側含め、ノクティル軍の投降者296名、死者42名、こちら側に死者はなしです。」
「街への被害状況は。」
「建造物への被害はかなり出ています。生活必需品などの供給は全て断線、水源もノクティル側からの供給のみに頼らざるを得ない形にしていたようです。」
アーデルはそう伝えると書き走らせていたペンを置き、報告書をバセットへと手渡す。バセットはそれを受け取ると、目を通しながらアーデルへ質問を続けた。
「恩義の強制か。ルネリス住民の死傷者は。」
「住民の死傷者に関しては少なく、特に見せしめなどを行なっていた形跡はありません。ノクティル軍によって殺害された人数も代表庁舎で殺害されたサルヴァン代表の家族合わせて数人程度で、侵略行為を受けたにしてはかなり少ない数です。」
アーデルの口答を聞き、バセットが住民に関して記載された箇所へと目をやる。アーデルの言う通り、計上されたルネリスの住民の死者数は思っていた以上に少なかった。投降したノクティル兵が語った話ではノクティルの軍がルネリスへやってきたのは今日から約3週間前のこと、その間ルネリスを占拠していたにも関わらずルネリス側としても特に外部への救援を求めている動きもほとんどなく、被害を被っていたのは文字だけで見ればサルヴァン一族に関係する部分がほとんどだった。中立領という区分故、一族経営する街では珍しくもないが、バセットにはほんの少し、その被害状況の傾向に違和感を感じる部分があった。
「後ひとつ、気になることが。」
「気になること?」
アーデルの言葉にバセットが聞き返す。
「ノクティル側の隊長、アグリッサ・キャンベルですが、庁舎の人間の話では交渉自体を始めたのは1週間前からのようです。その間の動向に関しては不明と。」
その報告にバセットの中の違和感がさらに増していく。
「占拠からの交渉までの間が空きすぎているな。侵略行為ならばすぐにでも手を出してもおかしくない。だが、だとすれば街への被害と死傷者の数が割りに合わない。」
バセットはそう漏らすと、アーデルから渡された報告書を閉じ、彼に返した。
「ケイロスへ戻ってから少し整理する必要があるな。ひとまずは保護が必要な人々との線引きが必要だ。サルヴァン代表とは私のほうから話しておく。本国へ護送用のアフバを追加手配してくれ。」
「ダンテール一位。」
アーデルとの会話を割ってバセットが誰かに呼ばれた。バセットがテントの外側へと目を向けると、そこには片目に眼帯をしたセシルがこちらへと歩み寄ってきていた。
「ヴァーンハイト六位、どうだ、右目の調子は。」
「まだ霞みますがそれほど問題はありません。恐らくあのノクティルの隊長が撤退したことで彼のオブリヴィオンの効力が薄くなったのかと。」
セシルの目はアグリッサのオブリヴィオンの能力により未だぼやけていた。衛生兵の手当も受けたが、外傷などは一切ないため治療の必要がなく、ひとまず眼帯だけをつけていた。
「そうか、まあ今回の任についてはこれで決着だろう。そしたら少し休むといい。」
バセットはそう言うとセシルの肩へ手のひらで優しく叩いてみせた。
「ありがとうございます。・・・あの、住民の方々はどうなるのでしょうか。」
セシルがバセットに恐る恐る聞くと、バセットは顎に指の背を当て少し悩む素振りをしたが、すぐに口を開いた。
「平和協定が結ばれている中立領である以上、直接的な復興の援助は我々にはできん。ルネリスの代表がこちらへ委任状を書けば話は別だが、多額の報奨金が必要となる以上、おそらくそうはしないだろう。完全に街が回復するまでの間、生活困難者だけは一時的にケイロスにて保護するつもりだ。」
バセットがセシルへそう伝えると、セシルは静かに顔を俯かせる。平和協定とは全ての対外貿易を平等に扱うというもの、そのため平和協定が結ばれている中立領への無償での支援、つまり「借り」をつくることは、重傷者や戦災孤児などの生活困難者の一時的保護以外ではどんな酷い被害を受けていたとしても固く禁じられていた。
「不服か。」
セシルのその表情を見てバセットがセシルに尋ねる。
「いえ、どこかが一度でも破れば協定の意味がなくなる。結果的な見方をしてしまえばノクティルのものたちと同じことだとは認識しています。」
セシルはそう言うと住民たちのほうへと目をやる。すぐにでもと復旧に取り掛かっているもの、散々たる状況に呆然と立ち尽くすもの、怪我の手当を衛生兵から受けているもの、遺体の前で泣き崩れているもの、さまざまであった。
「ただ歯痒いのです。見ることしかできないことが、見守ることしかできないことが、自分が騎士として剣を握る意味が本当に・・・。」
セシルがそう言おうとしたとき、バセットが手をセシルの口元へかざす。
「それ以上は思うな。自身のためにも、父のためにも。」
バセットはセシルにそう告げると、再びセシルの肩を優しく叩き後ろへと下がっていった。バセットが去った後、セシルは再びルネリスの住民たちの方へと目をやる。それはかつての幼い日の自身が見たものとまるで同じだった。瓦礫の山、遺体の並べられた光景、あの日自分が最後に見た故郷とまるで同じ、騎士となって何度も見た光景のはずなのに、今日のルネリスの光景はセシルに目に何故か酷く焼きついた。
「あの、よろしいでしょうか。」
街を眺めていると突然誰かに声をかけられる。その声に振り向くと、そこには見覚えのある顔の男性がこちらを向き申し訳なさそうな表情で立っていた。
「父から聞きました、命を救ってくださったようで。本当にありがとうございます。妻のことはまだ踏ん切りがつきませんが、あなたに助けられたこと、一生忘れません。」
その男性はグアマンのそばにいた人形のように動かなかった男だった。そして下に目を向けると太ももにしがみつくあのときの少年の姿もあった。
「お前もお礼を言いなさい。」
父に背を叩かれる少年、自身が救った命が今、目の前にある。それだけで今は十分だと思った。命を守れたことに付加価値などない。ただそれだけで良いとセシルは思った。
「・・・。」
「どうしたんだ。」
「・・・。」
少年はセシルの方に一瞬だけ目をやるもすぐに下へ俯き何も喋らない。再び少年の父が少年の背に手をやる。それを見てセシルが少し屈み少年の目線へと顔を合わせた。
「ほら。」
父にそう言われ口籠る少年、目の前にいる彼を守れたのだからとセシルが少年に微笑みかける。そのときだった。
「・・・どうして。」
少年が口を開く。そして一言、少年は言った。
「どうして、お母さんを助けてくれなかったの。」
突然のその鋭利な言葉がセシルの胸を突き刺した。
少年が言葉を発した後、すぐに父が少年へと強い言葉で叱りつける。少年は涙を浮かべたが、その父の目にも少しずつ涙が溜まっていくのがセシルには分かった。たしかに目の前にいる彼らの命を自分が助けた。しかし、それは同時に少年のこれから先の未来に母のいないときを過ごすことを強いることでもある。死より辛い生などあるはずがない。しかし自分と同じ、いや自分よりも辛い未来がその少年にはあるのかもしれない。両親さえも思い出せない自分と違い、少年は母の死顔を記憶に残しながら成長しなければならない。どれほどそれが辛いものなのかセシルには分からなかった。いや、分かりたくてもあの日から実の両親の顔を思い出せないセシルにそれを分かることはできなかった。
投降したノクティル兵をアフバへと連行していたベルノールがセシルを見つけ声をかけようとする。しかし、俯きただ黙って剣の柄を右手で静かに力強く握りしめた姿にベルノールは声をかけることができなかった。
2.
ルネリスをバセット・ダンテール率いる鎮圧部隊が出発しておよそ1週間、最後の護送部隊とともにケイロス王国騎士団がルネリスの生活困難者と投降したノクティル兵を連れケイロス王国へと帰還する。東門前へと続く途中の分かれ道、ルネリスの住民たちはアフバに揺られながら防御外壁を沿うように北の方面へと騎士団の兵たちに連れられていき、ノクティルの兵たちは東門左手にある地下勾留場への入り口からケイロス王国へと入っていった。
他の騎士団面々が東門より王国内へと到着すると、出発のときと同じように東門前広場にて隊列を組み並んだ。すると殿を歩いていたバセットが彼らの前に立ち兜を取って見せ、騎士団の面々へねぎらいの言葉をかける。
「諸君らご苦労だった。ルネリスの生活困難者はケイロス領北東、ダッフェルバウンにて一時的に保護することになる。ノクティルの投降兵はノクティル側への交渉材料として地下留置場へと一時的に勾留する。彼らの動きが大きくなっている今、隣国として我々にとっても危険がいつ起こるかは変わりない。」
先頭に立つバセットが隊列に対してそう言うと、さらに言葉を続けた。
「また、知っての通りだが平和協定を結んでいる中立領への介入はたとえ支援目的であっても禁止されている。もたらすものが幸であってもなくてもそれは許されない。それを諸君らには理解しておいてほしい。これをもって、第五二一派遣団を解散とする。」
バセットがそう宣言すると騎士団の面々はバセットに対し最敬礼をとり、彼が視界からいなくなるまでその姿勢を崩さなかった。そして、バセットが東門前広場から去ると、騎士団の面々も一人、また一人とその場から去っていった。セシルもまた、ヴァーンハイト家への帰路へと着く。バセットの最後の言葉、あれは自分に対しての言葉だとセシルは察した。バセットは育ての父であるフィデルの戦友であり、自身の生まれのことも知っている。だからこそ自分が決して踏み外さないようにとあのようなことを言ったのだろうとセシルは思った。しかし、だからこそ、何故自分だけがと思う自分もそこにいた。
いつも通り屋敷の重い扉を開くと、そこにはカルネルがいつものようにエントランスで他の使用人と共に待っていた。
「お帰りなさいませセシル様、お父様もお母様も食事場にてお待ちです。」
カルネルがそう言うと、セシルの鎧をいつものように使用人たちが外し、彼の直剣を受け取る。そしてカルネルに案内され、先に浴場へと通される。簡単な衛生管理はルネリスでもしていたが、その身体には多くの汚れが染み付いていた。セシルが汚れた肌着を脱ぎ、体を浴場で洗い流すため黙って降りしきるシャワーの下で湯を受けていたとき、不意に手のひらへ視線を向ける。そこには誰の血かもわからない赤い血の塊がこびりついていた。その血はゆっくりと湯で溶け、自分の手を真っ赤に染めてゆく。母と父を失った日であり、母と父を出会った日、あの日の記憶が朧げに湧き出す。そのとき、幼い日の自分とあのときの少年の顔が重なった。自分と同じ、自分とは違う、そうあの少年を思ったとき、セシルはただ静かに唇を噛み締め誰かのための涙を流していた。
表情を取り繕い浴場を出ると、カルネルが外でこちらを待っていた。そのままカルネルに案内され食事場へと通される。見るとそこには長いテーブルの上に豪華な食事が盛り付けられた皿が大量に並べられており、テーブルの中央には他と比べ明らかに絢爛な椅子へフィデルが既に座っていた。
「よく戻った。それでこそヴァーンハイト家のものだ。ほら、席につきなさい。」
フィデルに促されセシルがフィデルの目の前の椅子へと座る。すると厨房より茶色い長髪を後ろへ結った優しい顔をした中年の女性、母ラウラ・ヴァーンハイトが大皿を抱えて食事場の中へと入ってくる。ラウラ持っていた大皿をセシルの前へとゆっくりと置いた。
「あの人に頼まれてね。せっかく武功を立てたのだから好きなものを食わせてやろうって。だから、あなたの好物のマフスのローストを用意したわ。」
ラウラはそう言うとセシルの前に置いた大皿の蓋を開く。
そこには高級食材である家畜、マフスを丁寧に下拵えし燻焼いた見るからに美味な物と付け合わせの温野菜が色鮮やかに盛られていた。
「私もラウラの作ったマフスのローストは好物だ。」
フィデルはそう言うと使用人を手のサインで呼ぶ。すると使用人たちはローストを切り分けフィデル、ラウラ、そしてセシルの前へと置いていった。
「さて、食事としよう。セシル、今日の話しをたっぷり聞かせてもらうぞ。」
フィデルが笑いながら手元のグラスを取り、ラウラも席へと座り三人での食事を取る。ラウラも笑顔を浮かべるとセシルも二人の顔を見ながら、ルネリスでの任務の話をフィデルとラウラに語った。バセットに先陣を任されたこと、ベルノール王子と共にノクティルの兵の中を駆けていったこと、ノクティルの隊長と剣を交えたこと、しかしいくら二人に語ろうともセシルの心の中に刻まれていたのは、今のこの楽しげな空気の中では語ることができないあの少年の顔だけだった。
2.
家族団欒での明るい食事が終わり、セシルがただ一人自室ベランダから外を眺める。夜も更け、ちょうど良く月明かりがケイロスの街を淡く照らしていた。静まり返ったその光景に儚さを感じるのは、彼自身の今の気持ちからくるものでもあった。
「・・・・。」
分からない、自分の中にあるものが。父も母も喜び、課せられた任務は果たしている。しかし心の中にあるそのしこりが取れることはない。少年の母を救うことが出来なかったからか、あの日の自分を思い出したからか、自分の中にあるそれが何であるのかセシルには分からなくなっていた。結局自分はどうしたいのか、自分の思いは何であるのか、それに気づくことが出来ない。全て秘匿にただ隠してきた。マフスが好物だという話もただフィデルに話を合わせただけ、そうすればフィデルとラウラは喜んだ。何故ならマフスのローストはフィデルの好物であり、ラウラの得意料理だから。そうやって他人の顔色伺いながら物心をつけたときから生きてきた。そうしなければいけないと、生きていけないと思っていた。しかし、セシルはもう子供ではない。れっきとした成人の男である。だからこそ、今まで自分では疑問に思わなかったものが、一気に流れ出てきたのだった。
「弱いな、私は。」
ふと呟き街並みへと目をやる。見ると昼間には活気あふれる大通りの露店街も既に店の形はなく人の姿はなかった。静まり返った夜の街はただただ月明かりに照らされ寂しさを感じさせた。それを眺めていたセシルは自然と腰に護身用の短剣だけを携え軽装のまま自室を出る。階段を降り食事場の前を通るとフィデルとラウラがワインの入ったグラスを掲げ二人で微笑み合っているのが扉の隙間から見えた。自分の名前が話題に出ているのが微かに聞こえたが、その二人の中へ入ろうとはしなかった。
エントランスへと着くとカルネルが仕事を終え身支度を整えているところだった。人の気配を感じ、カルネルがこちらを向く。
「どちらへおいでですか。」
「少し夜風にあたってきます。父と母には内緒にしておいてください。」
セシルはそう言うと玄関のノブへと手をかける。そのときカルネルがセシルへ静かに言った。
「セシル様、貴方がどうお思いになろうとも、貴方はヴァーンハイト家の大切なご子息です。フィデル様もラウラ様も貴方を愛していらっしゃる。気負われないでください。」
「・・・・分かっています。」
セシルはカルネルにそう一言だけ残すと、外へと出ていく。閉まりゆく玄関の扉の向こう、カルネルはただ哀しげにセシルの背を見つめていた。
大通りはベランダから見た景色と同様、月明かりが寂しげに通りの石段を照らしているだけでほとんど人の気配はない。市場のある大通りと飲食店が並ぶ繁華街はほぼ城を挟んだ正反対の位置にあり、市場が閉まるこの時間には東門大通りに殆ど人が出歩く理由がなかった。そんな薄暗い通りをセシルが一人、目的もなく歩いていた。
「・・・・。」
ただ少しの間、一人になりたかった。屋敷にいれば自分は「ヴァーンハイト」の人間として振る舞わなければならない。いまはただの姓すら持たない「セシル」でいたかった。ここまで何故あの少年の言葉を重く受け止めたのであろう。今までも数多くの戦いは経験していた。多くの死を受け止め、そして中には同じように自分を憎む声も聞いていた。全てを流していたわけではい。しかし、全てを受け止め続ければ簡単に潰れてしまう。だからこそ、受け止め、抱え込まない方法を騎士としても父に習った。しかし、流すことができない。あの言葉だけは、あの光景だけは、出来なかった。
「動くな。」
一人想いにふける中、突然後ろから何者かに腹部へ何かを突きつけられながらそう囁かれる。次の瞬間、セシルのゼルフィスが瞬に現れ、突きつけられたものを弾き落とし、後ろに立っていたものの首元へと剣を突きつける。セシルが後ろの人物へと振り返り弾き飛ばしたものに目を向けると、それはただの木の枝だった。
「おい!待てって!」
男はそう言うと慌てて両手を上にあげる。その見知った顔を見たセシルは呆れた表情を浮かべ、ゼルフィスの姿が消える。
「危ねえ、お前分かっててやっただろ。」
「護身にはどんな時でも備えてる。切り落とさなかっただけ感謝しろ。」
飄々として眼鏡をかけた黒い短髪の男、ヨーク・ラフェスタという名のその男はケイロスの街において貿易商人を営む人物であり、セシルが通う店の関係者、友人と呼べる人物の一人だった。
「何でこんなところを歩きまわってる。」
「それはお互い様だろ、騎士団の人間がこんな夜更けにで歩いてるんじゃねえよ。短剣ぶら下げて歩かれるだけでこっちが緊張するわ。」
ヨークの言葉にセシルはため息をつき中央広場へと向かって歩いていくと、その後ろをヨークがついてくる。
「どうしたんだよ、うちに行かねえのか。」
「今日はそんな気分じゃないんだ。」
顔も向けずセシルがヨークへとそう伝える。ヨークの家族は繁華街にて飲み屋兼カフェを経営しており、セシルはそこの常連の一人であった。セシルが常についてくるヨークに対し足早になると、ヨークもセシルへ足早についてきた。
「・・・。」
そして少し歩くと、セシルは歩みを止めヨークの方へ振り返る。
「だから、どうしてついてくる。」
「店に来ねえなら、丁度いいからよ、ここでお前にまた試してもらおうかと思ってさ。」
ヨークは貿易商人という仕事柄さまざまなものを入手してはそれを実際に他国へ流通させるかの選別を行っており、時折セシルへその商品の試行をお願いすることがあった。セシルは何十回と見た下げられたその軽い頭にため息を吐きつつ広場の方へとヨークと共に向かった。セシルが広場のベンチへと腰を下ろすと、それを見たヨークが抱えていた何かの液体が入った筒状の容器をセシルへと手渡す。
「今度、海側の国へ売り出そうと思ってよ。コボンの実を発酵させて作った酒みたいなもんかな。ただアルコール分は子供や仕事前の誰でも飲めるように調整してあるんだ。飲めばたちまち元気倍増、さらにこの特殊な容器なお陰で持ち運びにも長期の輸送にももってこいだ。」
そう言うとヨークは全く同じものを取り出してみせ、セシルに蓋と思われる部分を向ける。そして真ん中に付いている突起部分を押し込むとどういう構造か、蓋が上へと迫り上がってくる。そして最後に「ポンッ」と音を立てると蓋が容器から軽く飛び出した。その蓋を手で取ると、セシルに開けた容器を手渡し、先ほど渡した閉まっている容器と交換した。
「面白えだろ。長期保存が聞くように中が真空になってるんだ。真ん中の凸部分を押し込むと中の圧が上がって蓋が迫り出す仕組みさ。」
ヨークはそう言うと、交換したもう一方の容器の蓋も開けてみせた。中を除くと、そこに入っていた液体は群青色のコボンと同じかそれ以上に淀んだ色をしていた。少し口をつけるのに勇気がいる色に躊躇うセシルだったが、恐る恐るその液体を口に入れる。しかし、その味は飲めたものではなかった。
「今日までの任務、ルネリスの街だったんだろ。あそこの生産者から紙重石をマフェレーの新しい加工業者に流すはずだったのにとんだ誤算だよ。手付金が完全にパアさ。」
本当の意味で苦い顔をしながら飲料を飲むセシルを横目にヨークはそう言うと、ヨーク自身も持っていた自分の飲料に口をつける。
「回収、出来るわけねえよな。さっきまでの顔見るに、相当酷かったんだろ。」
飲みながらそう話すヨークを、セシルが横目で見る。その言葉を聞いたとき、セシルはヨークが彼なりに自分のことを気にかけてくれたことに気づいた。
「・・・復旧の目処は立っていない。平和協定のせいで俺たちは難民の保護くらいしかできないんだ。助けたところで援助もできない。」
「それが原因か。」
「・・・・。」
ヨークにそう言われセシルが口籠る。
「お前はケイロスの騎士団なんだろ。だったらケイロスのためだけに戦うことは何ら間違ってない。そもそも中立領に住んでいる連中だってそれを理解したうえで中立領に住んでるんだ。王制の国が嫌ならマフェレーやカムラカンみたいな民主国家だってある。それでもなお中立領に住むのはその危険性を理解した上で暮らしてるってことさ。お前が悩むもんじゃねえよ。」
ヨークがセシルに正論を言う。確かに中立領に住むということはその危険性を承知したうえでのことであるのは間違いない。ヨークの言う通り、民主国家であるマフェレーやカムラカンであれば簡単に国内への居住の受け入れを行われるだろう。それでも国に属さないのは住んでいるものたち自身の意志であり、そこに対し不憫に思うことは筋違いだった。しかし、それを少年の母が奪われることの理由にはどうしても結びつけたくなかった。結びつけてしまえば、自身の生まれた村も本当の両親たちも、滅ぼされることは仕方がないこととなってしまう、そう感じた。
「国のための剣・・・か・・・。」
セシルは静かにそう呟くと、ベンチから立ち上がりヨークから受け取った飲料を最後まで一気に飲み干した。
「売るのは諦めろ。」
セシルはそう言い残すと、容器をゴミ箱に投げ捨て中央広場を後にした。セシルの姿が見えなくなったところでヨークが持っていた飲料に目をやる。群青色の液体は全く減っていなかった。
「あいつに飲ませて正解だったわ。」
そう言うとヨークは中身の入った容器ごとゴミ箱へと投げ入れた。
ヨークと別れた後、セシルは東門脇にあるマウの厩舎へ向かうと、一番手前の小屋にいるマウへと近づく。人の気配を察してかマウが耳を動かし辺りを見渡すと、セシルがマウの前へ立つ。セシルが優しくマウの首元をさすると、マウはその手の感覚に預けるように顔を傾ける。そしてマウが繋がれている綱を解くと、脇の壁に吊るされている鞍をマウの背にかけ、マウの背に乗り込む。背中にセシルが乗ると、マウは身体を起こし立ち上がる。セシルはそのままマウに跨り東門から外へと出ていった。静寂の夜、月光を背にセシルを乗せたマウが灯りもつけずに東手に広がるイェルコ渓谷の先を目指して走っていく。渓谷の先にある場所、それは難民受け入れの拠点とされた高原に広がる村、ケイロス領ダッフェルバウンだった。
3.
ケイロス領ダッフェルバウン、ケイロス王国の防御外壁の外側、北東部に位置するイェルコ渓谷を抜けた先にあるのどかな高原地帯を五代前の国王の時代に開拓した土地であり、特産物であるコボンの実や数多くの農産物を生産する農家たちが数多く居住する土地である。また、防御外壁の外側といえどケイロス領ではあるため王国騎士団、警備団が村の警護を行っており、城下街ほどではないにしろ安全面は確保されていた。また村には催事用に使用する規模としてかなり大きな講堂があり、今回のルネリスにて保護された生活困難者たちはそこへと受け入れられていた。
渓谷地帯に造られた文字通りの悪路をセシルのマウが器用に素早く駆けてゆく。本来であればダッフェルバウンへは渓谷を通らず、整備された迂回路を使用し安全に向かうことができる。しかし、緊急時などで急を要する場合はこの渓谷を削って作られた旧来のダッフェルバウンへの道を使用していた。セシルは渓谷地帯の道をマウの脚力を信じ抜けてゆく。マウは本来渓谷に住む生き物であり、崖を登ることやかなり細い悪路を進むことなど造作もないことだった。鞍上のセシルに悪路の揺れが大きく伝わってくる。セシルは手綱をきつく握りしめ、自身のマウに身を委ねた。
渓谷を抜けると、かなり拓けた地帯へと出る。辺り一面に高原が広がり、城下街のように所狭しに家が軒を連ねるのではなく、一軒一軒が広い空間に一つずつ配置されていた。目の先にはまだ距離はあるが大きな建造物が一棟、場違いに建っているそこがケイロス領ダッフェルバウンだった。
「なんのために、ここに来たんだ。来たところで。」
セシルが呟いた。自分でも分からなかったというのが今の気持ちだった。一人になりたいと家を出て、気づいたらここまでマウを走らせていた。
マウを再び走らせ目先にダッフェルバウンの講堂の全体像が見えてきたとき、講堂より手前で何か大きな光が立ち昇っているのがセシルの目に入った。その光景に自然とセシルのマウの速度が落ち、その光の上がる場所へとゆっくり近づいていく。光をよく見ると、それは勢いよく焚かれていた大きな炎の柱だった。炎の灯に照らされていた周りには、それを囲むようにルネリスからの難民者とダッフェルバウンに住んでいるものたちが目を瞑り、ただ静かに祈りを捧げているのがぼんやりと見えた。火は神への道標、それを高く焚き上げることは地上で亡くなったものたちを神の世界へと導く、このウェインラッドの古い習わしであり、柱炎と呼ばれ死者への弔いを意味していた。ルネリスの住民たちはただ静かに祈りを捧げ、亡くなったものたちへの弔いのために火を焚いていた。もしかしたらそれは唯の慣習としての意味合いだったのかもしれない、しかしその光景を見たセシルはそれ以上、マウを近づけることはせず、ただ遠くよりその炎を見つめていた。登っていくその柱炎から火の粉が多く巻き上がる。その火の粉ひとつひとつに死者の魂があり、それが消えればその魂は無事に天へと帰ることができたのだと誰かに教えられた気がした。
「すまない・・・。本当に、すまない!」
少年の言葉が何故あそこまで自分の胸に残るのか。何故、あの少年のことだけが気になってしまうのか。そのとき、セシルは気づいた。
「どうして、みんなを助けてくれなかったの。」
同じだった。血塗れでただ怯え、助けてくれたものに礼を言えず、ただ家族を救って欲しかったと想いを吐露した。村を離れる日、当時のケイロスの騎士たちが行ってくれた柱炎と。あの日の幼かった自分と。そう気づいたとき、何故か目からは一粒の涙が落ちた。
炎柱を行う難民たちへ近づくことが出来ずにダッフェルバウンから再びイェルコ渓谷を通り帰路へとつく。しかしその足取りは行きと違い、かなり重く遅かった。自分の中にあるもの、それがわかった気がした。大切に育ててくれた父と母のため、そして国のためにと剣を握り続けた。しかし自分は未だ「セシル・ヴァーンハイト」であることを心の底で受け入れることができていなかった。ケイロス王国に住む「セシル・ヴァーンハイト」でもあり、あの中立領、剣の村テンペックで育った名もなき少年が同時に彼の中にいた。「剣を握る理由」に少し疑問を持つようになったのもその理由の在り方がセシルとしてなのか、名もなきものとしてなのかを決められないでいたからだったのだとそのときセシルは気づいた。しかし、それに気づいたところでどうしようもない。今さら、かつての名前を取り戻すことも知るものもいない。セシルとして生きる以外、彼にはなかった。ならばせめて見つけたかった、セシル・ヴァーンハイトとして剣を握る理由が。
イェルコ渓谷の崖道を登る帰路の途中、山岳地帯の特に険しい道を渡っていたとき、何かが目の端で輝いているのが一瞬入り込んできた。マウの速度をゆっくりと落とし、セシルが目を向けると、そこにはぼんやりと、まるで人魂のような光が自分のいるイェルコ渓谷の崖道より遥かに向こう側の道などない方向へと向かっていくのが見えた。
「なんだ。」
不審に思い目で追っていると、光はケイロス王国の方面から反れイェルコ渓谷を構成するひとつ「禁域の谷」のある方向へと向かっていった。禁域の谷はかつてケイロス王国の罪人たちの留置場があった土地であり、現在の地下留置場が作られるまではそこで投降兵や罪人たちが勾留されていた。前国王が亡くなり、現国王であるダクベッド・ケイロスが王に即位した際、ダクベッドは地下留置場を建造させ禁域の谷へ何人も立ち入ることを固く禁じた。国民の中には何か国として知られてはならない秘密が眠っていると語るものや、谷底から歌声が聞こえるなどという噂からとんでもない大罪人が一人で「禁域の谷」に勾留されているなどと噂が流れるほどだった。しかし、誰一人としてその真実を知るものはおらず、知ったものがいたとしても国から消されたという噂が新たにたつだけだった。
不審なものを見過ごすわけにはいかないと、騎士としての務めから禁域の谷へとマウを走らせる。ただその光を手がかりにセシルのマウが駆けていく。ケイロス王国への道を外れ禁域の谷へと続く道へと入る。しかしそこは何年も使われていないのか道の体を成していない。しかし暗闇の中、目を凝らして見ると、たしかに何者かが入った形跡がそこにはあった。道を駆け上がり、崖の上へとセシルと彼のマウが辿り着く。しかし辿り着いたときには既にそこに光はなく人の姿などありもしなかった。周囲を警戒しながらマウから降り、護身用の短剣を抜き辺りを見渡すが、怪しい影もなく谷は夜更けの闇の中に静まり返っている。見ると、崖を挟んで向かいに小屋のようなものが立っている。谷の管理を任されるものが駐在に使う小屋であるそれを見つけたとき、セシルは谷の監視を請け負ったものの灯りであったのだと思った。
「気のせいか。」
セシルはそう言うと短剣を腰へと戻し、禁域の谷を崖上から下をゆっくりと覗き込む。崖の底は完全な暗闇であり、何かが見えることはなく、そこから風の流れからか時折、人の叫び声のように聞こえる風鳴りが湧き上がってくる。
「歌声か。」
この風の音が人の声に聞こえ「誰かが歌っている」などという噂があがったのだろうとセシルは察した。たしかに聴こえようによっては人が歌っているように聞こえなくもなかった。セシルがもう一度周りを見渡すがやはり光などどこにもない。そのときだった。
ギュン!!
後方から一本の矢がセシル目掛け飛んでくる。セシルがそれを認識した瞬間、ゼルフィスが自然と現れ矢を弾き飛ばす。矢が飛んできた方向へと目を向けるがそこに人影はなく、セシルは再び護身用に携えていた短剣を構える。
「ケイロス王国騎士団第六位セシル・ヴァーンハイトである。誰かいるならば名乗られよ。」
声に対する反応はない。しかし確かに自身を狙って放たれた弓矢にセシルが警戒を見せる。背後をゼルフィスに警戒させ、足裏をするように崖の淵からゆっくりと離れようとする。
ギュン!!!
再び矢がセシルに向かって飛んでくる。セシルはそれを見るとゼルフィスの剣の衝撃波にて矢が飛んできた位置ごと矢を吹き飛ばす。崖の一部が弾け飛んだその瞬間、吹き飛ばした場所より人影のようなものが一人逃げていくのが見えた。セシルがその影の行方を追おうと崖の淵より一瞬視線を外す。
グスッ
突然足に走る鈍痛、見ると岩場の下より男が一人、体を乗り出しセシルの足へ短剣を刺していた。男はまるで崖と一体化でもしているように地面の中から体を出していた。
「くそ!」
セシルはそう言い捨てると、ゼルフィスが崖の中の男へと斬りかかる。しかしセシルの注意が崖向こうの人影から逸れた瞬間、その一瞬をつき先程の吹き飛ばされた位置より逃げた人影が再び遠方より矢を構える。
「悪く思うな。」
そう呟くと人影がセシルへと矢を放つ。放たれた矢に気付き避けようとするセシルであったが、足の痛みから急所を外すのが精一杯であり肩で矢を受けることになる。肩に走る激痛、そのとき、痛みからバランスを崩したセシルの足が空を蹴った。
「!?」
気づいたときにはすでにセシルの体は崖下の闇へと飲まれる。その光景を崖上で男が二人眺めているのが落ちていくセシルの目にはっきりと映る。
「悪く思うなよ、青年。」
4.
崖上から落下を始め1秒も経たない間、セシルが生への考えを巡らせる。
「くそ、間に合うか!?」
セシルはそう言うと崖から落ちながらも、左肩に浴びた矢の傷口より血を拭い服の中へ入れていた術具へと擦る。それはルネリスで使用した術具と同じものであり、セシルが常に肌着へ忍ばせているものだった。そして崖下へと叩きつけられる寸でのとき、ゼルフィスを再び出現させるとゼルフィスの衝撃波に術具をのせ、それを地面へと叩きつける。術具のある地面へと落下するセシル、術具の効果により藁のようになった地面に体を打ちつけ即死は免れるが、ルネリスの代表庁舎から階層よりも数十倍はあるであろう高さ、そして崩れ体勢での衝撃は想像していたものよりもずっと強力であった。
「くぁっ・・・!」
地面とぶつかった瞬間、全身を鉄の塊で叩きつけられたような今まで一度も感じたことのない衝撃と痛みが襲う。
体を起こそうとするが、思ったように動かせば耐えがたい痛みが体中に細かく走った。どうにもならない状況に、仰向けになりながらただ空を仰ぐ。谷底という暗闇の中で見上げた夜空が恐ろしいほど明るい。そんなどうでもいいことに気づく。
「・・・戦場ではなく、こんな場所で死ぬのか。」
セシルが仰向けになりながら恐ろしいほど冷静にそう呟く。騎士として戦うことに指名を帯びたときから、いつか戦場で死ぬことは分かっていた。それが騎士の務めであることも理解していた。それを納得できるわけではないが、戦場以外でこんなにも簡単に死が近づいていることが悔しかった。
「・・・。」
無言になると同時に風が寂しく吹く。それに揺られ、セシルがもう一言、想いを吐露した。
「結局、一人、か。」
自分にそう聞いた。あのときの父にも母にも別れを言えなかった。今の自分もまた父と母に別れを言えない。あの二人はきっと自分の死を悲しんでくれるのだろうと思う。でも何故だろう、申し訳ないという気持ちはなかった。あの人たちの温もりを懐かしいとも思えない。死の間際になって初めて理解したのかもしれない、あの人たちに感謝しながらも温もりを感じながらも、それを求めていないことに、自分がそれほどまでに薄情な人間であることに。
次第に自分の呼吸が弱くなるような感覚を覚える。身体中の熱が冷めていくのを感じ、痛みも弱くなっていく。身体も既に生への執着を諦めたのだろう。もう終わり、そう感じたときだった。
「ーーんー、ーんーー、んー。」
かすかに歌声が聞こえる。先程までの風鳴りの音とは明らかに違う。それはたしかに誰かが歌っている音程のある高い声だった。
「・・・なんだ。」
セシルが痛みを押し殺し立ち上がろうとするが、動かせない。セシルは精一杯に振り絞りもう一枚の持っていた術具に自身の血を拭うと、それを握りつぶす。握りつぶされた術具は粉末状になり、セシルはそれを自分の肌着の裏の自身の体に擦りつけた。それは治癒の術具であり、そのおかげか必死に意識を集中すれば立ち上がることができるようにはなった。しかしそれでも崖にもたれかかりながら足を引きずるのが精一杯であり、痛みで集中できないためかゼルフィスを出現させることもできない。自分の力で必死に壁沿いに足を引きずりながら歩いていく。
「ーーんー、ーんーー、んー。」
声が大きくなっているのがわかる。たしかに誰かがそこにいる、そう感じた。次第に目も霞んでいく、術具を使ったところで怪我の大きさから気休めにしかならず、痛みもすでに限界なのか感じなくなっていた。文字通り最後の力を振り絞り探し続ける。そして、少し拓けた空間に出たとき、我の眼を疑うそれはあった。
「るー、るーーるー、るーー。」
牢屋だった。たった一人の少女が楽しそうに唄う。まるで子供部屋のように外見と合わない内装を施された場違いの牢屋に幻を見ているのではないかと疑う。そして少女がこちらに気づき、顔をこちらに向けたと共に身体の痛みが限界をむかえ、セシルは牢屋へと息切れるように倒れ込んだ。少女が何かを話している声が薄れゆく意識の中にしまわれていった。