恋ではなくて、愛でもない
「姫様!!! 本日もご機嫌麗しゅう!」
騎士団仕込みの大きく通る声が廊下に響いた。
「ごきげんよう」
笑う彼にちらりとだけ目をくれて、ミリアは挨拶を返す。
ああ、なんて可愛らしいんだろうか!
ロニの仕える姫君は他人に関心が薄い愛想がないなどと言われる。しかし彼にしてみれば関心が薄いのではなく表情が出にくいだけだし、愛想の示し方が分からないだけの不器用な美少女だ。
今日も王女殿下は可愛いなあ髪型が昨日と違って結ばれていないでもサラサラの漆黒の御髪が肌に映えて大変よい――
「ロニ」
「なんでしょうか?」
「今日も、図書室に行くわ」
「了解致しました!」
小柄な彼女の後ろについて行きながら、ミリアに仕えるのが自分一人で良かったと心底思う。
「ロニ」
「はい!」
「貴方がわたくしの騎士になって、十年経ったわね」
「そうですね。騎士の誓いをしたのが姫が7つの時、俺が18の時ですからね……年月が過ぎるのはあっという間でございますね」
王城で迫害されていた幼い少女を拾ったことは今では奇跡だと言える。忌むべき色の黒髪だからと放置され愛する者もない、七歳の少女には生きづらい世界。
けれど幼い彼女は嘆くことをせず気丈に知識と教養を身につけ、この十年で王に認められるまでなった。彼女が遠い国に嫁ぐのは、あと十日ほど後のこと。
さすが愛しい姫様だとロニは嬉しく思う。優秀で美しい彼女だからこそ、国と国を結ぶ糸になれるのだ。なんと誇らしいことか。
「そうね。わたくしも結婚する年齢になった」
「本日も図書室で、嫁ぎ先の国の調査ですか?」
「ええ。手伝ってちょうだい」
「もちろんですともお姫様」
ロニはニコニコと答える。彼はミリアの隣にいることが幸福だから、側にいられるのなら理由はどうでもよかった。
「ありがとう」
とミリアは小さく返した。
***
「ロニ、その棚は全て読んでしまったわ」
「おや、そうでしたか? 聡明な姫、申し訳ありません。貴女の読書量を把握していませんでした」
困ったように眉を下げてロニは目の前の棚から移動した。ならばと数冊の本を抜き取り、ミリアに渡す。彼には何と書いてあるかすら分からないが、どうやら彼女の求めるものだったらしい。満足げに頷いて読み始めた。
そうなるとロニは暇になる。だから日課の姫観察をすることにした。
黒の御髪はサラサラつやつや。侍女がいい働きをしているらしい。長いまつげに縁取られた黒い瞳は無関心とは無縁にきらめいている。薄く紅を塗った唇は緩んでいて、本が面白いのだろうな、と察することができた。白い肌と黒い髪、侍女が選んだ青のドレスは調和して、美しい彼女をいっそう美しく飾る。
「……なにを見ているの?」
「そりゃあもう、美しく麗しい聡明で優秀で愛らしい姫を、ですよ」
「よくもまあ口が回るものね」
「姫への賛辞が尽きることなど一生ございませんとも。このロニ、貴女を深く敬愛しておりますので」
ふうん、とミリアは流した。彼の歯の浮くような言葉はこの十年で聞き慣れたからだ。
ふと彼女は本から目を上げ口を動かす。
「ロニ、わたくしが嫁ぐ相手のお名前、知っている?」
「アルファルト=ゼーダ様、でしたよね? その二つしか覚えていませんが……」
本来王族はずらずらと長い名前になるものだがロニは記憶していなかった。
遠い北国の、その中では力を持つ大国の王。歳はミリアよりも三十ほど上だという程度の情報しか彼は把握していない。
「彼の国周辺地域では、苗字の後に名前がくるのですって。だから、わたくしの旦那様のお名前はゼーダ様、らしいです」
本をなぞる彼女に「へえ」と素直に感心した。
それすらも知らないのは当たり前だろう。この婚姻は非常に急な話だった。心ない者からは『国が傾きそうなんだ』『北の王が珍味を求めた』と噂されている。実際はそうではなく、ミリアの優秀さを認めた王が彼女に相談として嫁ぎ先を口にしただけだ。そしてミリアは告げられた一月後には嫁ぐ、と決めていただけのこと。
「良かったですね、あと十日というところで知れて」
「ええ」
そこからまた会話がなくなり静かになる。ページを繰る音だけが図書室に響いた。
***
やがてパタリと本を閉じ、ミリアは立ち上がった。
「ロニ、部屋に戻りましょう」
「仰せのままに」
姫は歩く姿だけでも可愛い、と考えつつロニは彼女に付き従う。
「ところで、ロニ」
「なんでしょうか?」
「ロニは、わたくしに対してずっと『好きだ』『愛してる』と言っていたけれど、押し倒してはくれないの?」
ゴホ、と噎せた。
「ここ八年ほど言ってないでしょう! というか押し倒すなんて男に言ってはいけません!!」
「あら、あなたになら押し倒されてもいいのだけれど」
ゴホゴホ、とさらに噎せる。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃっ、なっ」
勢いよく咳き込む彼にミリアは足を止めて待った。
「はー……」
「落ち着いた?」
「まあ、なんとか……姫は俺のこと好きなんですか?」
決死の問いかけは
「ロニがわたくしを好いているのは知っているわ」
とさらりと流された。
ぐぅと悔しさに喉を鳴らし、彼は負けじと反論する。
「そういう言い方をするということは、俺から想われているのは嫌ではないのですね? お嫌でしたらもう俺は側にいませんもんね?」
「そうね」
どんな返答が来るかと身構えたロニにはあまりに素直な言葉で、むしろ衝撃を受けた。
姫様が素直……! 可愛い!
しかしそんな浮ついたところに
「あなたが最近――一月前ほどからわたくしのことを伺っているのが鬱陶しくて。さっさと言うなら言えと思ってしまったのよ」
と冷えた苦情が刺さった。思わず涙目になるほど深く傷付いた。
「ひっ姫様……そこまで仰るのであれば止めを刺してくださいよ! 嫌いではないんですよね?!」
「わたくしがロニをどう思っているかは言わない。言えないわ。だってわたくしは王妃になる人間だもの。旦那様以外を一番に据えることは、許されない」
静かな言葉だった。ミリアらしい、彼の愛した姫様らしい言葉。
どんなに心ないことを言われようとも前を向き、王女らしく生きる姿に見惚れた。幼いくせに、味方が少ないくせに自分に頼ろうとしない強情さにロニは負けたのだ。
この方を、男として愛すのではなく、騎士として側にいようと。そう決めたから、彼女を自分に縛り付けるような言葉は言わなくなった。愛を告げないのは彼の決意表明だった。
ロニの背筋が伸びる。ミリアの夜のような瞳が、まっすぐ彼を射貫いた。
――分かっていたわ、と言われたようだった。
ちっぽけな男の決意を、彼女は抱きしめるように目を細めた。
「わたくしは、わたくしがあなたをどう思っているか、言わないわ」
「――はい、姫様」
「でも、ずっと隣にいることを命じるわ。ロニ、あなたはわたくしの隣に、片時も離れずにいなさい。嫁ぎ先にもついて来なさい」
「貴女に邪な想いを抱えている人間を、ですか」
そう言いながら、ロニは答えを知っていた。欲しがりの騎士にお姫様は薄く笑う。
「線引きを間違えたら、首を切ってあげるわ」
「ふっ」
本気の彼女にロニも笑う。そして丁寧に跪いた。十年前の誓いの時のように。
「ミリア様に、一生お側にいることを誓います」
「ロニ=ディータに、許すわ。これは、一生の命令よ」
ロニは、何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。
二人の、お互いのその感情は、恋であっても愛であってもいけないのだ。