04
「・・・危ない、危ない。急に話しかけるなんて、ハルったら・・・」
トイレに入ってきた私を探知して、便器が迎え入れるようにカバーを自動で開いた。やる気満々なトイレに申し訳ないが、別に私は用を足したかったわけでもなかったので、便座にそのまま腰を下ろす。
『ハル、どうしたの?』
『・・・少し話がしたいんだ、アオイ』
聞き慣れた声が私の中で響く。私の精神の中で声を発するのは、ハルという友人だった。
私の精神に住み、私をよく知る唯一無二の存在で、有体に言えば、二重人格の別人格というのだろうか。
私の中に住む、私以外の存在がハルだ。
『ハル。話すのはいいけど、話しかける場所はちゃんと選んでね。急に話しかけられると驚いちゃうから』
『・・・ごめんアオイ。けど、つい・・・』
ハルはいつも真面目で凛とした力強さを宿しているが、なんだかいつもと様子が違っていた。
『・・・アオイ、今だけ出てもいいかな?』
『・・・え?』
私は少しだけキョトンとした。
『お願い、アオイ』
『う、うん。大丈夫だよ、そんな改まって頼まなくても・・・どうかしたの?』
『ごめん、少し気になることがあったんだ』
『・・・よくわからないけど・・・遠慮しなくてもいいっていつも言ってるでしょ?だって私の体は―――――』
「――――わたしの体でもあるんだ、か・・・ありがとう」
目を開けるとトイレのドアが初めに目に映った。次に、わたしは何度か手を開いたり閉じたり動かして、次は軽く足を上げてみた。指の先から、つま先までわたしは丹念に動作確認をする。
「・・・よし」
一通り確認し終えると、一応用を足したようにノズルを引き、水だけ流してトイレを後にした。
「ありがとうございました。綺麗なトイレですね」
ライカさんは帰ってきたわたしを見てニコッと笑い「それは良かったわ」と言った。
「医務室の掃除は私の管轄だから、トイレも張り切って綺麗にしているのよ」
「へえー、お掃除上手なんですね。ライカさんがお嫁さんだったらきっと旦那さんは幸せですね」
「あら、まだ若いのにお世辞を言えるなんて。嬉しいわ」
「いやいや、お世辞なんかじゃないですよ」とわたしが言い、一緒に笑う。
白色の部屋で、あはははと二人の笑いが響く。
「・・・・・・ところで」
落ち着いたところでわたしはふと切り出すように言った。
「・・・ここって本当に病院じゃないんですか?こんなに真っ白で、すごく清潔なのに」
「いいえ、さっきも言ったけどここはただの研究施設の医務室よ」
「・・・ふうん。何の研究をしているんですか?」
「主に生物学の分野の研究かしら。私も大まかに言えば生物学の研究者よ。気になるの?」
「いえ、少しだけおかしいなあ、って思ったんです」
「あら、おかしいって?」
ライカさんはどこか変かしらとキョロキョロと部屋を見回している。
「わたし、倒れていたのに病院に連れていかれなかったのかなーって」
「あら、そんなこと。医学の心得がある人間がこの研究施設にもいるのよ。急だったから私も驚いて直ぐにここに運んできたの。ちなみにあなたは軽い貧血だったみたいね。安心してちょうだい」
ライカさんは優しい笑みを見せた。笑顔のバリエーションが豊かな人だ。
それに比べ、わたしの笑顔はどこかぎこちなかったと思う。
「へえ、貧血、ですか・・・」
「そう。一通り調べたけど、ほかに異常は見られなかったわ。橋の下で倒れているなんてほんと焦っちゃったわ」
「・・・なるほど。それにしても、よく気が付きましたね、わたしが橋の下にいるって。わたし人通りを避けてあんな暗くてジメジメしたところに行ったのに、あんなところに用事でもあったんですか?」
「実は、買い出しに行った時、あなたが橋の下に行くのが偶然見えてね。あそこは不良の吹き溜まりで有名な場所だから、女の子が入っていくなんて危ないなって不安に思って様子を見にいったのよ」
ライカさんの顔には依然として優しい笑顔が張り付いていた。
「それで、ここに運んで回復するまで休ませてくれてたんですね――――」
「そう、今じゃすっかり元気に・・・」
「―――――――三日間も」
徐々にライカさんの顔から笑顔が引いていく。
初めて見る笑顔以外の表情は、彼女の美しさの本質が柔和な感情ではなく、熱の無い冷たい瞳の灯にこそあるのだと知らしめた。