【過去】『麻雀放浪記(全4冊)』(阿佐田哲也)
1969-1972年発行
クリスマス・イブに本書『麻雀放浪記』を読みふけっていたのはきっと日本で僕だけだったのではなかろ~か……
特に男性には(女性はあまり選ばないと思うので……)一度は読んでもらいたい“ピカレスク小説”ではありますやね。
漫画の『哲也~雀聖と呼ばれた男~』から入った方も多いと思うが、僕が「坊や哲」に出会ったのは和田誠さん監督による映画版『麻雀放浪記』である。
あの世界観が大好きだったので、(カラーの時代にあえて白黒で撮っているってのがまたイイ)いつか原作を読んでみたいと切望。ようやく『青春篇』『風雲篇』『激闘篇』『番外篇』の四冊をまとめて読破できた。
ちなみに映画で扱われてるのは『青春篇』のみですね。
時は戦後の昭和初期、「破滅の美学」──そんなものを抱えているような男たちの生き様。いや、てか、美学じゃないな。そう、決して美しくはないのである。
たいてい小説には──悪い奴なんだけど実は心が優しい──なんて、そんな悪役が出てくるけれども、本書はそれが皆無。
悪いやつはとことんまで悪い。そして薄汚い。徹底したピカロのみ。
愛することも愛されることもできない。まるで犬のようにのたれ死ぬことを自ら望んでいるかのような連中ばかり。
そして、結局のところ微かな人間らしさが(実際は僅かどころではなかったらしいが)あったため、結果『記録者』として“生き残って”しまった作者の哀愁すら感じる。
まとめて読んでみてると“時代の移り際”を描いた物語であることもわかる。望む望まざるお構いなしに移り変わっていく“時代”。そんな“新しい時代”についていけない者たち。そして自ら拒む者たち。
巨大な何かに踏みつぶされる直前の蟻たちが、“もがき苦しむ”物語はちょうど現代にも通ずるんじゃないかな。
「本物の勝負ってなァ、お互い傷つけ合うだけで勝ちもできねえ、負けもできねえ──(本書より)」
これなんか、いまだにギャンブル漫画で使われてそうな言葉ですやね。
後日、本書の著者である阿佐田哲也こと色川武大センセの遺作『狂人日記』を続けざまに読んでみたけど、こちらはまた違った意味で胸にぶっ刺さる始末。なんでもペンネームの使い分けで、色も雰囲気も変え、原稿用紙の字の大きさまで変えてたらしいですからね。
いつかの麻雀打ちは文学を書いたのでありました。
特に第二巻『風雲編』の最後の一行があまりにもカッコよすぎて震えました。
映画版も、もう一回観たいな~
(※【現在】の私から一言──『麻雀放浪記2019』もそろそろ観たいです。「坊や哲」が現代にタイムトリップしてくるというトンデモ設定ながらかなり期待している一本ですやね)
「俺たちの値打ちは、どのくらいすばらしい博打を打ったかってことできまるんだ。だからお前もケチな客をお守りして細く長く生活費を稼ごうなんてことやめちまえよ。麻雀打ちが長生きしたって誰も喜びはしねえよ」(第三巻、帯より)