【過去】『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』
2007年発行
尽きるところ世の中は『評論』であふれている。
隣で話すおばちゃんの話から、若い女性たちのガールズ・トーク、飲み屋でくだを巻くおっさんの話から、はたまた子供たちの会話なんかも八割はなんかに対しての評論なわけである。
「あれはよかった、あの人はどーだ、この店はいい、私はこう思う、ほにゃららら……」に溢れている。
それが共感できればいいのだが、共感できなかった場合はどうなのか?
「この人とは合わない、わかってない、がっかりだ……でらららら」
また、そう思われるのが嫌で、むりやり話を合わせてみたり、さしさわりのない言葉でお茶を濁したりする人だって中にはいるだろう。
で、そのくせまた言いたくなる。
「あれは良かった、あの人はどーだ、でゅらららら……」
まあ、これは仕方ない。僕だってやっぱりそうだし、この場でで本や映画の感想を書いたりしてると、時々、自分の書いていることが嫌になる時もあるわけで。
「おまえ、何さまのつもり?」みたいな自己嫌悪が沸き上がってくる時だってある。
まあ、あくまで感想なんだから気楽に話したり書いたりすりゃいいじゃんという気持ちもあるのだけど、それでも時々嫌になる。
別段、評論家になろうなんてさらさら思っちゃいないんだけど、そういえば『評論』というものをじっくり考えてみたことはあまりなかったな、と思っていた時、本書にたまたま出会った。
なんなのだ。評論トハ? ゴシップや噂話とはどうチガウノダ?
たとえば、著者の小林さんは「ゴッホ」のことを語る時もドストエフスキーの「罪と罰」を語る時、それを読んだことがない人たちや全く知らない人に語りかけるような言葉で接してくる。
「ひけらかし」や「知ったかぶり」のような表現はほとんど使ってないに等しい。
なるほどなと。これは素っ晴らしいなと。
作る側はきちんと作る。んで、それを見たり読んだりする側だって手放しでただ受動すればいいというものでは決してないんだなと。
やっぱりそこにはお互いの『礼儀』が必要だったりするわけで。能動としての受動がそこにはある。
それを踏まえたうえで「いい」トカ「悪い」トカを口に出すってことは、ひょっとすると物凄くギリギリの信頼関係がないと成り立たないのかもしれない。
いろんな意味で迷ったりした時にはまたこの本を開いてみたいと思う。
最後に本書からの引用。
・「人は批評という言葉を聞くと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える。そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である──」
・「感心することを怠りなく学ぶ事。感心するにも大変複雑な才能を要する。感心することを知らない批評家は、しょっ中無けなしの財布をはたいているようなものだ──」
他のいっさいを犠牲にして『批評』というものに人生をかけた人が言った言葉だと思うと充分な重みのある言葉だなーと思う。




