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さよならセーラー服

作者: 星宮尊

 昔から煙草が嫌いだった。

小学五年生のときに父親が死んだ。死因は煙草の吸いすぎによる肺癌。道徳の時間に見せられた喫煙の危険性を教えるためのビデオそのままの病状で、こんな安い芝居も侮れないものだと思った。

しかし父親はダメ人間だったわけではない。朝から晩まで仕事をして、時間があれば遊んでくれた。疲れていてもそんな素振りは見せない立派な人だった。酒と煙草をこよなく愛していたこと以外は。

父親は、煙草を肴にして酒を飲むような男だった。母さんが注意しても「大丈夫大丈夫」と笑って煙草を吸っていた。

ここまではほとんど母さんに聞いた話だ。実際に俺が父親について覚えているのは遊んでもらっていたときの笑顔とうまそうに煙草を吸う姿、そして灰皿に溜まった大量の吸い殻だけだった。

父親が死んでから母さんは俺を養うために仕事を増やし、家にいることが少なくなった。忙しさのあまり俺に構っていられないと態度が素っ気なくなったが、それも俺の為だと知っているので責められるはずもなかった。

幾ら立派だったと聞かされても、つまらない理由で死に、母さんにいらぬ苦労をさせた父親のことを俺はだんだん嫌いになって、いつしか墓参りにもいかなくなった。ついでに父親の死因の一つとなった煙草も嫌悪するようになった。今でも煙草の臭いを嗅ぐと今までの苦労を思い出し、無性にイライラする。

中学三年生になった頃に母さんが再婚して新たな父が家にやって来た。新たな父は気の良い人ですぐに打ち解け、今は不自由なく暮らしている。


そして高校生になった現在。経済的な理由から、受験に失敗して私立高校に進学するわけにはいかなかったので、第一志望だった隣の県の進学校よりもレベルを一つ下げた、確実に合格できそうな公立高校に進学した。父は、お金なら自分が払うから好きなところを受けろと言ってくれたが、受験料や授業料など、決して安くないものに関していきなり頼りきりになるのはさすがに気が引けた。

元々学校にはこだわりがなかったし、家が貧しく遊び道具もなかったため、勉強を暇つぶしにしていた。そのおかげで、学校のレベルを一つ下げても世間に恥じない程度の高校に入学することができた。むしろ特待生で入学できたので学費も安くなり良かったと思っている。

今通っている高校は自転車で二十分程のところにある。少し遠い気もするが、電車通学で毎日満員電車に揉まれるよりは随分良い。つい先日梅雨明けの宣言がなされ、夏休みを二週間後に控えた通学路は、降り注ぐ日光とアスファルトの照り返しで朝から外に出るのが億劫になるほどの暑さになっていた。

古くなった自転車の車輪が金切り声をあげながら学校前の緩やかな坂道を登っていく。

学校の駐輪場に自転車を停めてから人波に乗って校門をくぐり、一年三組の教室に入ると、冷房で冷やされた空気が俺を迎えた。汗で張り付いたワイシャツをぱたぱたと扇いで空気を取り込むと、一気に爽快感が体を駆け抜ける。席に座って制服の襟から風を取り込んでいると、藤田が教室に入ってきた。

「よう、聡志」

「藤田、おはよう」

挨拶を済ませたかと思うと藤田はすぐに俺の前を通り過ぎ、そのまま教室中のクラスメート皆に一言ずつちょっかいを出して回っている。

ほとんど全員に声を掛けてから俺のところに戻ってきて勢いよく椅子に座って足を投げ出した。

「今日の仕事終わり。人気者はつらいぜ」

藤田は俺の後ろの席に座る男で、クラスのムードメーカーだ。勉強はからきしだが頭の回転が速く、何か言うとユーモアの利いた言葉を即座に投げ返してくれるので皆から好かれている。

「俺は毎日こんなに一生懸命クラスの好感度上げようとしてるのに何でモテないんだろうな」

「うるさいからじゃないか」

「なんだと、そういうお前は根暗のくせになんでモテるんだよ」

適当に返答していると藤田がふざけて掴み掛ってきた。

「モテないよ。彼女とかいないし」

「作らねえだけだろ。お前何度か告られてるだろうが」

藤田が俺の制服の胸ぐらを掴んだまま前後に揺らす。

 ほぼ毎日こんなやり取りをしている。実際に俺は社交的な方ではないので根暗と言われても否めないが、やかましいこの男が後ろの席にいて、俺に構ってくれているおかげで増えた友達も多い。もしかしたら俺を孤立させないためにやっているのかもしれないとさえ思う。藤田はピエロを演じているがよく周りを見て誰に話を振るべきか常に考えているような節がある。

「聡志、今日放課後みんなでカラオケ行くんだけど、一緒にどうよ」

「あー、悪い。やめとく」

事あるごとに藤田は俺を誘ってくれるが、俺は勉強や課題を理由に断っている。実際にやらなければいけない課題はあるし、勉強を苦だと思ったことはないから、俺にとってカラオケなどの遊びは誘惑にはならない。それに、何となく面倒くさいと思ってしまう自分がいるのも事実だった。

「勉強勉強って、たまには人付き合いも学ばないと生きていけないぜ」

「お前は課題出さなすぎだよ」

 また深見にフラれてるー、と面白がって見ている女子の声が聞こえた。

「ただでさえモテないのに男にもフラれるんですか……」

藤田が泣きそうな声で叫んでクラスに笑いが起きる。

 賑やかな教室に担任教師が入ってきてホームルームが始まる。いつも通りの一日の始まりだった。


ふと顔を上げると夜になっていた。大きな窓に面した図書室のカウンター席から見える空は重くのしかかるような群青色に染まっていた。首を回して後ろにある時計を見る。七時半。宿題をやっていたらつい夢中になってこんな時間になっていたらしい。しかしこれだけ集中しても半分も終わっていない。夏休みの二週間前に通知する代わりに膨大な量の宿題を課すという暴挙に出た数学教師を恨みながら大きく体を反らせて固まった背中を伸ばし、一応スマートフォン禁止のため机の下に隠しながらスマホで母さんにいつもの夕飯の時間には帰れそうにないという謝罪と、残しておいてくれという内容のメールを送ってスクールバッグに荷物を放り込んだ。

外に出てみると茹だるような暑さだった日中に比べると、夜が近い校庭はいくらか涼しくなっていた。駐輪場に向かいながら、もう一度空を見る。真上の群青を境にして、紫がかった西の空から東の空にかけてグラデーションができている。昼間の青空は高く見えるのに、今見ている空の青はどちらかというと底の無い深い沼を見ている気分になる。

 駐輪場に着くとすぐに鍵を外して自転車を走らせて帰路に就く。

風を受けながら暗くなった道を走るのは、帰宅部で普段あまり学校に残らない俺には新鮮な体験だった。

 しばらく走っていると、家と学校の中間地点にある児童公園が見えてきた。この辺りから同じ高校の人間とは帰り道を別にする。

児童公園の中に目をやる。普段の帰り時間だとちょうど夕方だから子供たちで賑わっているため迂回しているが、この時間なら当然のごとく人がいないので突っ切ってショートカットすることができる。

 縁石を乗り越えて公園内に入ると、より一層非日常空気が濃くなった気がする。急ぐために入ったはずの公園内で、俺は無意識にペダルを漕ぐ足を緩めていつもは感じない暗い公園の、どことなく不気味な雰囲気を楽しんでいた。

 ふらふら徐行しながら公園の真ん中に鎮座する砂場の横を通り過ぎたとき、つんと鼻をつく臭いが砂場を挟んで向かい側のベンチから夜風に乗って俺のもとへ運ばれてきた。

 煙草の臭い。俺の一番嫌いな臭いだった。

 この公園にはベンチの横に灰皿が設置してあるので煙草を吸うこと自体は悪くない。しかし、気配に全く気付かなかったのと煙草が嫌いという理由でついベンチに座って喫煙する人物をじっと睨むように見てしまった。

「え」

ベンチの側に立つ電灯に照らされて喫煙者の姿が明らかになった瞬間、間抜けな声を出さずにはいられなかった。

――街灯の下に浮かび上がる人影は、俺の通う学校のセーラー服を着ていた。

「あれえ、うちの学校の制服じゃん。見られちゃったか」

セーラー服の女子はいたずらがばれた子供のような薄笑いを浮かべながらこっちに声を掛けてきた。

「そんなところで突っ立ってないでこっちに来なよ」

ここで逃げる手もあったが、同じ学校ならどうせ逃げきれないだろう。むしろ、いつか校内で声をかけられたりした日には最悪だ。ここは無理に逃げずにおこうと、自転車を押してベンチから少し離れた前に立った。

「こんなところでなにをしてるんですか」

明らかに警戒している雰囲気を出して会話に応じる。

「なにってそりゃ、一服してんのさ」

にやにやしながら目の前の少女は言った。

腕を捲ったセーラー服を着て、肩まで伸びた茶髪は色褪せて根元が少し黒くなっていた。

「俺、煙草嫌いなんで」

「そんなつれないこと言わないで少しお喋りしていこうよ」

酔っ払いみたいな絡み方だ。まさかこの女酒まで飲んでるのか。

「ちなみに煙草は吸ってるけどお酒は飲んだことないからね」

俺の思考を読んだかのように、考えていることに答える形で宣言した。

「君、何年生かな」

「一年ですけど」

「お、じゃああたしのほうが先輩だねえ」

セーラー服はスカートのポケットから三年生の学年カラーのブルーのスカーフを取り出してひらひらと振って見せた。

「今日初めて会うってことは君、普段はここ通って帰らないのかな。それとも時間がいつもと違うのかな。」

「今日は時間がいつもより遅いです。帰宅部だから普段は学校が終わったらすぐ帰るので」

そう、と言ってセーラー服女は煙草に口をつけた。少し動きを止めてから、溜息をつくように息を吐き出すと、白い煙がふわりと空気に溶けて消えた。

 その様子をじっと見ている自分に気付いてはっとした。

「じゃあそろそろ帰ります」

言いながらセーラー服に背を向けてハンドルを握った手に力を込めて歩き始めた。

「あれ、もう帰るの。また会いに来てよ、毎日大体この時間にここにいるからさ」

ちらりと振り向いてみると、彼女はだらしなくベンチにもたれかかったまま、ひらひらと手を振って俺を見送っていた。

 児童公園を出てから全速力で家に帰ったが、結局温めなおした夕飯が再び冷めてしまったと母さんに怒られた。


 翌日、授業が終わったらすぐに帰宅した。録画していたテレビ番組を一通り消化したあと、自室で勉強机に向かって両親の帰りを待つのが普段の俺の生活だ。

 英語の予習があと一行で終わるというところで、玄関が開く音がして母さんが帰ってきたのが分かった。

「ただいま。お父さんは今日遅くなるって言ってたからご飯食べちゃいましょう」

母さんは部屋にいる俺に聞こえるように大きな声でそう言ってから、すぐに夕飯の支度を始めたようだった。

「おかえり。もう少しで終わるから、そうしたら手伝うよ」

部屋の中からそう叫び返して急いで最後の英文の和訳に取り掛かった。

 夕飯を食べ終わってからふと時計を見ると、もうすぐ七時半になろとしていた。

 昨日の出来事が思い出される。目の前で煙草を吸う少女。何故だか不快感は少なかったような気がした。今日やらなければならない勉強は終わったし、この後の自習の前に夜風に当たるのも悪くないかもしれない。

「買わなきゃいけないものがあったんだった。デパートまだ開いてるよね」

そう言って家を出た。母さんはほとんど気にしていないようだった。

 ちょうど昨日と同じくらいの時間に児童公園の中に自転車で入ると、昨日と同じベンチに人影があった。

「あ、昨日の後輩君。本当に来たんだね」

見慣れたセーラー服を着た喫煙者はこちらに気が付くと破顔して声を掛けてきた。

「別に、勉強の合間に風に当たろうと思っただけですよ」

なんだか急に恥ずかしくなって、ぶっきらぼうに答えた。

「勉強してるんだ。偉いね」

ベンチの真ん中にふんぞり返っていた彼女は自分の左側を開けるように端に寄ってスペースを作った。俺は座らなかったが、向こうも気にしていないようだった。

「俺にとっては普通のことです。小さいころから勉強してたから、勉強が苦じゃない環境で育ったんです。ていうか、煙草やめてくださいよ」

昨日は不快感が少なかった気がしていたが、口から吐き出されるつんとした煙はやはり気になった。

「嫌いなんだっけ。でも、君が後からやってきたんだし、文句言われても。灰皿もあるし」

「そもそもあんた未成年だろうが」

つい敬語を忘れて突っ込んでしまった。

「そんな怖い顔しないでよ。どれだけ嫌いなのよ」

セーラー服が愉快そうに訊いた。

「冗談にならないくらいには大嫌いですよ」

出会って二日目の相手に身の上話をしたいとは思わなかったからあえて詳しくは言わなかったが、少しは相手にも煙草に対する嫌悪感が伝わったようだった。

「そうなんだ。ただの嫌煙家じゃないみたいだね」

悪いね、と謝っておきながらも、彼女は煙草の火を消す気配を見せなかった。

「毎日学校あるのに煙草なんて吸って、臭いとか大丈夫なんですか」

「大丈夫。あんまり行ってないから」

大体の予想はついていたからさほど驚くことではなかったが、できれば学校には行っていると答えてほしかった。実はもう煙草を吸える年齢でセーラー服はコスプレしているだけ、なんていうこともないわけではないのだ。

「ケアもしてるし、あんまり臭いついてないと思うんだけど。嗅いでみる?」

「嗅ぎませんよ、やめてください」

捲った袖を降ろして唐突に目の前に突き出された腕に、反射的に仰け反ってしまう。しかし、避けようとしても鼻の前を掠めたら匂いは入ってくるものだ。

 ほんのりと甘い香りがした。

「シャイだねえ」

「普通ほぼ初対面の相手の匂いなんて嗅がないでしょう」

ニヤニヤしながらこちらを見るセーラー服を睨む。

「嘘。さっきちょっと鼻で息吸ったでしょ」

お見通しだった。

「……完全にとは言わないですけど、あんまり分からなかったです」

でしょ、と彼女は嬉しそうに笑った。

時計を見ると家を出てから三十分近く経っていたので帰ることにした。

「明日はそっちが学校に来てくださいよ」

帰り際、セーラー服に言う声が少し上ずったような気がした。

「うーん、そうだね」

「三年生なんですよね。何組ですか」

「それは言いたくないな。三年の教室全部回って探してみてよ」

突然歯切れの悪くなったセーラー服は、今日はこれで終わり、というように片手をあげて目線を逸らし、新しい煙草に火を点けた。

こうして二日目の奇妙な会合は幕を閉じた。まだ彼女の名前も聞いてないことに気が付いたのは家に着いてからだった。


「聡志、飯だぞ。学食行こうぜ」

「ごめん、昼休みはちょっと用事があるんだ」

次の日、のんきな声の藤田の誘いを断って席を立つ。

五時間目の美術の授業が楽しみだとか、先生がかっこいいのに今日が最後の授業だから寂しいとか、美術選択ではない俺には関係のない話をしている女子たちの横をすり抜けて教室を出る。

教室を出た後、俺は三年生の教室があるフロアに来ていた。

 セーラー服を探す。クラスも名前も分からないが、昨日言われた通りすべての教室を開けていくしかない。

 そう意気込んだ俺は十分後に大きく後悔することになる。結局どの教室にも彼女の姿は見られなかった。

 今思えばあのセーラー服女を学校で探し当てても大したメリットはないし、もし彼女を見つけて、こんなところで絡まれたりしたら大変だ。むしろ見つからなくて良かったかもしれない。そもそも、彼女は「明日は学校に行く」なんて一言も言っていなかった。約束したわけでもないのに、俺が勝手に来ると思っていただけだ。

 とはいえ、三年生の部屋すべてに顔を突っ込んで、昼食の時間も満足にとれなかったのは少なからずあの人のせいであることは明らかだった。

 一言文句を言ってやろうと思い、図書室で夜になるのを待ってから児童公園に乗り込んだ。

「やあ。また来たんだ。あたしのこと好きでしょ」

「あんた、今日も学校に来なかっただろう」

訳の分からないことを言うセーラー服を無視して詰め寄る。

「まさか、本当に全クラス覗いて回ったの?」

一人大笑いするセーラー服を睨む。俺は遊ばれていたというのか。

「本当君って素直だよね」

「素直じゃないですよ……」

文句を言に来たはずなのに完全に敗北した気分だった。

「素直だよ。また来てって言った来るし、全クラス見て回ってって言ったらそうするし。それに、今日は何も言ってないのに来てくれた。これってもうあたしのこと好きだよね」

「好きなわけないじゃないですか。何言ってるんですか」

「じゃあどうしてあたしのクラスを聞き出そうとしたのかな」

「あなたが本当に同じ高校の人なのか確認しておかなきゃと思っただけです。夜の公園で不審者と世間話してました、なんて洒落にならないですから」

ふーん。と悪戯っぽい笑みを浮かべている。

 これ以上おもちゃにされたくはないと思い帰ろうとすると、腕を掴まれて引き留められた。

「せっかく来たんだからもう少しおしゃべりしていこうよ」

上目遣いの笑顔を見ると何故か力が抜けるようで、気付くと彼女の隣に座っていた。

「あ、なんか手首のところ黒いけど、どうしたの?」

座るとすぐに俺の手を取ってまじまじと見つめるので、何となく恥ずかしくなった。

 見てみると、墨が手首についていた。五時間目にやった書道の授業で付いたものだろう。手は洗ったがまさか手首にまでつているとは。

「今日、今学期最後の書道の授業があって。二学期からの抱負を書かされたんですよ。それで汚したみたいですね」

「へえ。書道選択ってそんなことやるんだ」

知らないということは、この女の選択科目は美術だったということか。

 そう思うと、この人が学校に来ていた時もあるのだと実感する。

「どうして行かないんですか。学校」

実感に伴って出てきた質問をそのままぶつける。

「面倒じゃん。周りは子供だし、勉強は面白くないし」

そう言った彼女の目が心底つまらなそうだったことをよく覚えている。

「そういえば、名前聞いてませんでしたね。名前教えてくださいよ」

「人に名前を訊くときはまずは自分が名乗りたまえよ」

慌てて話題を変えると、彼女の表情も少し柔らかくなったようだった。おどけてそう言うセーラー服に少し安心して自分の名を名乗る。

「深見です」

「下は?」

「聡志」

「深見聡志君か。なるほど」

咀嚼するように俺の名前を繰り返す。

「じゃあ、そっちの名前も教えてくださいよ」

聞きたい?と彼女は例の悪戯っぽい笑顔でこちらを見る。

渋々はいと答えると、すぐに教えてくれた。

「悠」

特別に教えてあげる、と言って彼女も名乗った。

 苗字も知りたいと思って訊ねようとしたら、それに被せるように、

「浅香悠」

と言った。

 浅香悠。綺麗な名前だと思った。柔らかい響きの中に凛とした強さがある。それは俺が彼女に持ったイメージと重なるところがあった。

「良い名前ですね」

これまでの経験から、また飄々とした返しではぐらかされるのだろうと思っていたが、彼女は照れくさそうにはにかんだ。

「ありがとう。じゃあこれからは悠って呼んでよ。改めてよろしく、聡志君」

すぐに切り替えたように快活に笑って、浅香悠は右手を差し出した。半ば反射的にその手を握り返した。


 それからは毎日、決まった時間に浅香悠と会うことにした。

 図書館で自習をしてから、辺りが暗くなり街灯の橙色の光でほんのりと道が照らされる頃になると学校を出て児童公園へと向かう。

明かりに照らされたベンチにいる、煙を吐く人影。児童公園には、一週間近く見てきた「いつもの風景」ともいえる光景があった。

彼女と会うことにはもう慣れたが煙草にはまだ慣れず、嫌悪感を隠しきれない。

「自分から会いに来てるのにあたしを見るたび渋い顔をするのは止めてくれないかな」

「この数日で俺が嫌煙者だってわかったでしょう。少しくらい気を遣って我慢してくださいよ」

「この数日であたしがそんなことできないってわかるでしょ」

……この手の会話は終わることを知らない。

諦めて煙草は俺が我慢することにする。

煙草の煙が嫌いというわけではなく、見ると胸が苦しくなる。妻子を残して煙草が原因で死んだ父への怒りや生活が安定するまでの日々の苦労を思い出してしまうからだ。

そうは言ってもトラウマというほど重い精神的苦痛を伴うわけではないと自覚しているので、俺が我慢することに文句はないが、喫煙者を見ていると馬鹿だなと思う。わざわざ高い金を払ってまで進んで体を壊しているのだから。

「煙草はどこで調達しているんです。最近は機械化してるから未成年は買えないはずですけど」

ふと思いついた質問をしてみる。

「家の近くの煙草屋のおばちゃんから買ってる。流石に制服姿の時は売ってくれないけど着替えれば売ってくれるんだ」

コツは店主と仲良くなることだよ、と彼女はニヤリとして言った。

「人と仲良くなるの上手そうですもんね、先輩は」

君とも仲良くなったしね、と言ってから

「ていうか、呼び方。悠さんって呼びなさいって言ったはずだけど」

と思いの外むっとした様子で自分の呼び方について指摘した。

「嫌ですよ、下の名前なんて。恥ずかしい」

シャイボーイめ、とからかわれるのを受け流す。

 毎日一時間程度の無駄話は俺にとって大事なイベントになっていた。

 俺は、確実にこの時間を楽しんでいた。


 先輩のことを知れば知るほど、彼女が学校に行かないことが気になってくる。夏休みを二日後に控えて浮足立つ学校で、俺はもう一度三年の教室を訪ねた。以前覗いた時にドアのすぐそばの席、苗字が「あ」から始まる人間の席が空席だったクラスだ。

 夏休み前には一日の授業が早く終わる。もうすぐ帰りのホームルームが始まる。

「すいません」

「あ、君この間も教室覗いてたよね。何か用?」

迎えてくれたのは眼鏡をかけた男だった。人のよさそうな笑みを浮かべている。

「このクラスに浅香悠さんっていませんか」

この言葉を聞いた瞬間、目の前の男の表情が変化した。人のよさそうだった笑みは消え去り、人を蔑むような嘲笑に顔を歪めていた。

「なんだ、君、浅香の友達か」

男がわざとクラス内に聞こえるような声で言うと、教室の中にいた他の生徒たちもクスクスと笑い、ひそひそと何かを話し合う声が聞こえた。

「あの、浅香先輩はどうして学校に来ていないんですか」

「あいつが平気な顔して学校に来れるわけないだろ」

「どういうことですか」

「あいつとどこで知り合ったかは知らないけど、あんまり関わらない方がいいぜ。君も学校辞めることになる」

数分の後、嫌な笑いの蔓延する居心地の悪い教室を逃げるように退出して自分の教室に帰り、大きく溜め息をついた。

 梅雨明けはもうしたはずなのに、窓の外の空は灰色の雲に厚く覆われて雨が降るのは時間の問題に見えた。

 三年生の教室で全てを知った俺はホームルームの後、昇降口に向かう生徒の波に逆らうようにして職員室に向かった。

 自室の白い天井。すぐに帰ってきて、何もする気が起きずにベッドに横になって見る部屋は薄暗い。

今日も彼女はあの児童公園で、煙草の煙をくゆらせながら待っているのだろうか。

いや、そんなはずはないだろう。寝たまま外に視線を移すと、いつの間にか降り出した雨が窓を叩いていた。

 ぐったりとしたままどのくらい時間がたっただろうか。雨の音が絶えず耳に入ってくる。時計の音が約束の時間が地数いていることを知らせ続ける。今日は雨だから自転車は使えない。歩いていくならもう家を出なければ間に合わないだろう。

気持ちが落ち着かないまま、しかし行動を起こすこともできずにいる自分に苛立ちを覚えて大声で叫んでみても、声は締め切りの部屋に吸収されていった。

一人で悩んでいても仕方がない。本人に話を聞くのが一番早い。

余計なことを考えることをやめて走り出した。

傘を一本掴んで家を出ると、家のドアの前で母さんと鉢合わせた。

「あら、どうしたの。もう夕飯だけど」

「急な用事ができたんだ。夕飯は帰ってきてから食べるよ」

すれ違いざまにそう叫んでマンションの階段を駆け下りる。

 傘を開いては風を受けて走れないので閉じたまま、体が濡れるのも気にしていられない。

 雨は強くなる一方で、水を吸った服が重くなる。呼吸が荒くなればなるほど、空気と共に雨が口に入ってきて溺れてしまうのではないかと思うほどだ。おまけに目に雨が入ってまともに目も開けられない。

 雨と汗でぐしょぐしょになりながらひたすらに走り続けて、やっと児童公園に到着した。いつものベンチには見慣れた、色褪せた茶髪の後ろ姿がいつも通りに座って煙を揺らしていた。まるで最初から雨なんて降っていなかったように、動じることなく、浅香悠はそこに座っていた。

「あんた馬鹿じゃないのか?こんなに雨降ってるのに……」

彼女の頭に持って来ていた傘を差し出しながら声を荒げる。しかし彼女は動じない。

「暑いから。濡れたほうが涼しいかなって」

「俺が来なかったらどうするつもりだったんですか」

「いいの。どうせ家には帰りたくないし、聡志君と会うまでは一人だったんだから。それよりも、こんな雨なのにいつもの時間通りに着くなんて、やっぱりあたしのこと好きだよね」

「好きだよ」

この二週間茶化すように何度も言われたセリフに、初めて真面目に返事をする。心臓が痛くなって、時間が止まったのではないかと思うくらい沈黙を長く感じた。

「好きだけど、あんたはまだ別の人のことが好きなんだろ。聞いたよ。あんたのクラスで」

先輩の肩がピクリと緊張して、すぐに緩んだ。

「そっか。聞いたんだ。本当に……」

馬鹿なことするよね。学校が面倒だと言った時と同じ、冷めきった声で先輩はそう呟いた。

「馬鹿はあんたの方だろう」

なんだかたまらなくなって、絞り出すように言った。


雨が降り出す数十分前、俺は職員室にいた。

「坂崎先生いますか」

職員室に緊張の糸が張りつめた。

「俺だ。何か用?」

一人の男性教師が俺のところに歩いて来て気怠そうに言った。

「少し話があるので来てください」

校舎裏の喫煙所に場所を移した。と言っても部屋になっていたり分煙用の仕切りがあったりするというわけではなく、校舎と、それに併設した体育館の間の狭いスペースに古びたパイプ椅子が三個並んで、灰皿代わりの空き瓶が置かれているだけの簡素なものだった。

「話ってなんだい」

坂崎は足元にミネラルウォーターのペットボトルを置いてパイプ椅子に座り、教師にしては長めの髪をくしゃくしゃにしながら煙草を一本箱から取り出して火を点けた。それはもう見慣れてしまった真っ赤な箱だった。

 坂崎は俺の高校の美術教師である。美術は選択科目で、習字との二種類から選択して授業を受けることができる。坂崎は女子からの人気が高いようで、しっかりと対面してみると、なるほど顔は整っている印象を受けた。俺は音楽選択だからこの男との面識はないが、彼女は面識があるはずだった。

「浅香悠についてです」

「……だろうな」

「何も思わないんですか」

「何もって?俺は違う学校に飛ばされるけど、あいつはお咎めなし。つくづく俺は不幸だなって思うよ」

「ふざけるのも大概にしろよ。先輩は今学校に来られなくなってるんだぞ」

「なんだ、お前あいつと付き合ってんのか?だったら気を付けろよ。あいつ依存度高いから。明るい髪色が好きって言ったらすぐ染めてきて、煙草まで吸い始めやがった。そのせいで関係がばれた」

あーあ。まさかこんなところでミスするとは思わなかった。

耳に張り付くような粘ついた声で坂崎がそう言った瞬間、もう我慢できなかった。気付いたら握り締めた拳を振り上げていた。

 一瞬の無音の後、手に衝撃が走る。拳に痛みが出てきてようやく、自分が人に手を上げたのだと気づいた。

「痛えな。顔はやめてくれよ、これからも使うんだから」

坂崎は腕で顔を守っていた。俺が殴ったのは腕だったようだ。

 自分の行動に驚きを隠せないまま呆然としていると、突然水が顔に噴射された。

「これで頭冷やせ」

そう言って坂崎が、口をこちらに向けたミネラルウォーターのペットボトルを握りつぶしていた。

「今水ぶっかけてやり返したから殴りかかってきたのはなしにしてやる。どうせ今から停学したって、明後日からたっぷり休みだろ。ああ、教師って不条理だ。こっちは殴られてるのに生徒に水かけたら俺が体罰教師だもんな」

俺に背を向けて立ち去るとき、

「じゃあな、あいつのこと頼むぞ」

職員室に戻る坂崎はそう言った気がした。

 俺は、拳がひどく痛むのを自覚しながら、動き出せないままその後姿を見送っていた。


「あたし、転校するんだ。今回の件で親が喧嘩しちゃって、離婚するから。お母さんの実家がある田舎に、誰もあたしを知らないところに行くの。だから今の学校なんてもう行く必要なかったの。行く気もなかった。後ろ指差されて、コソコソ噂されるような所」

先輩はあくまで軽やかに、どうってことないように話す。

 傘持ってきてくれて助かったよ。濡れた煙草は不味くて吸えたもんじゃないね。なんて言いながらスカートのポケットから、雨から守るようにハンカチで包まれた真っ赤な箱を取り出した。俺の傘の中で煙草に火を点ける。百円ライターの火が彼女の顔を照らし、煙草の先端をジリジリと焦がしていた。

少し顔を背けてため息のように吐き出した煙は、結局傘の中で滞留した。流れてくるヤニの臭いが鼻の奥でべたついて消えた。

「先輩は、被害者なんですよね」

「被害者も加害者もないよ。あたしが馬鹿だった。先生のこと好きになって、遊んでるうちに抜け出せなくなって、ばれて終わり」

「坂崎は……先輩を守ってくれようとしたんですか」

坂崎が俺の前でついた悪態を思い出す。言えるわけがなかった。言ったところで先輩が傷つくだけで誰も得をしない。

「どうなんだろうね。どうせあたしは未成年だし、大した処分じゃないよ。親が離婚しなきゃ転校しなくたっていい。まあ、死ぬほど怒られたけどね」

かわいそうなのはやっぱり先生だよ。告白したのはあたしなのに、罰を受けるのは全部先生なんだから。

こんなことになってもまだ坂崎を思う先輩の声に重なって、坂崎の言葉が頭の中で再生される。

あいつ依存度高いから。そのせいで関係がばれた。

「何がかわいそうだ。何があたしは大したことないだ。あんた捨てられてるんだぞ。あんた、学校に行けなくなって、親が離婚して、散々じゃないか。……坂崎も先輩もここを離れるんだ。もう会えないじゃないですか」

ふつふつと怒りが湧いてきて、言ってはいけないと思っていた言葉が止まらなかった。必要以上の大声で捲し立ててしまう。

「分かってるよ!そんなこと。でも、そんなに簡単に忘れられるわけないじゃん」

先輩も俺の声をかき消すように叫び声をあげた。

 ふと我に返り、表情を切り替えて微笑む。

「聡志君だって、もうあたしとは会えないのに、あたしのためにそんなに怒って。それと一緒だよ」

この二週間何度も見てきた、俺をからかうときの悪戯っぽい笑みだった。

「ありがとうね」

先輩は体を後ろに反らせて、ベンチの後ろに立つ俺を見上げるような形で俺の顔を掴んでキスをした。

 柔らかい唇が触れる。浅香悠とのキスは、雨に濡れた渋い煙草の味がした。

「何するんですか、いきなり」

いつも通りからかわれた時のような口調で反応できたかは分からない。

「夏休みと同時に引っ越すんだ。明日はもうここには来ないから。だからこれで終わり」

「どこに行くんですか」

「秘密。次の学校は制服がブレザーなんだよね。髪も黒に戻して、そうしたらもう別人だよ。誰もあたしを知らない土地で、全部忘れて、新しいあたしになるの」

俺の疑問には何一つ答えずに自分のことばかり話す先輩は、勢いでキスしたのをごまかそうとしているようだった。

「忘れられるんですか」

少し意地の悪い質問をしたつもりだったが、先輩はすぐに答えた。

「忘れるよ。だから君も、もう会うこともないんだからあたしのことなんて忘れて新しい日々を始めようよ」

俺が黙っていると先輩は、これももういらなーいと言って真っ赤な煙草の箱を握りつぶして雨水が溜まった灰皿に突っ込んだ。

 気付けば雨は止んで、黒い雨雲の間から群青色ののっぺりした空が見えていた。またいつ降り出してもおかしくない。

「雨止みましたね。今のうちに帰りましょうか」

「そうだね。傘、助かったよ」

びしょ濡れで彼女は言って俺に背を向けて歩き始めた。

別れの挨拶はしなかった。


時間が遅くなり、傘を持っているのにずぶ濡れで家に帰って母さんに怒られ、先に風呂に入った後、残しておいてもらった夕飯を食べた。

 翌日、一学期最後の学校に行って藤田とじゃれて馬鹿をやる。

 終業式で夏休み明けから違う学校に異動になったという教師の別れの挨拶を聞き流して、藤田やほかのクラスメートと一緒にカラオケについて行かせてもらう。

「お前が参加するなんて珍しすぎるぜ。お勉強はどうした?」

藤田が馬鹿にするように背中を叩く。

「うるさい。お前らと違って夏休みの宿題なんて一瞬で終わらせられるから」

「流石聡志。終わったら見せてよ」

「ブリント一枚二百円な」

「おい、数学の宿題すげえ量出てるんだぞ。いくら取るつもりだよ」

「冗談だよ」

藤田がこの世の終わりのような声を出すのでつい笑ってしまう。

「なんかお前、最近変わったよな。なんかあったのか」

流石、人をよく見ている藤田だ。

「失恋したんだよ。俺は生まれ変わるよ」

ふざけた調子で言ってみたが、藤田は大したことないような様子でそっか、と言って

「じゃあストレス発散だな、行こうぜ」

ともう一度俺の背中を叩いた。

 夏休みが始まろうとしていた。


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