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Earth

作者: 凸神 桜花

「こんにちは。気分はどうですか?」

 私は目の前に座っている男にそう声をかけた。私が彼らと話をするとき、必ずこの言葉から始めることになっている。

 目の前の男とは別に友人と言うわけではないし、まして恋人なんてものでもない。「知り合い」と言う表現も正直微妙な所だ。ではなぜ私がこの男に声をかけたのか。それは一言で言うと、仕事だからである。

 ちらりと男の表情を覗き見る。透明な防弾ガラス越しに映る男の表情は見るからに良好とはほど遠く、やつれきっていた。なにやらぶつぶつと呟いているようにも見えるがこちらには全く聞こえない。

 私はくるりと眼球を下に向けて再び机の上にある書類を見つめる。ペンをノックしてペン先を押し出し、男にいくつか質問を投げかけた。

 静かに答える彼に対し「そうですか。」と簡単な返答をしてペンを走らせる。確か、この男もここに来た当初は威勢のいい、健全な悪人だったような気がする。いや、おそらくそうだった。質問をしながら私はああ、この男もそろそろ限界かな、と思った。

 思っただけだった。

「以上です。ありがとうございました」

 規定の質問を終え、私は男にお辞儀をする。横のボタンを押すとガラス越しの扉から刑務官が入って来て、男の腕をとり、立ち上がらせた。

「──だ」

 不意に、これまで弱々しかった男の声に力がこもった。

「お前らは悪魔だ! この人でなし!」

 咄嗟の刑務官の静止も振り切り、男が防弾ガラスに思い切り体当たりをした。怒声と衝突音で、一瞬凄まじい振動が周囲を駆け抜ける。男はそれでも、私に詰め寄ろうとしているのか、じりじりと額をガラスにこすりつけていた。

 私はじっと男を見つめた。

 言った。

「そうですか」

 男はまたもや何事かを叫んでいるが、もはや何と言っているのかは聞き取れない。私はこのことを速記の如く書類の補足欄に書きなぐってファイルに閉じて静かに立ち上がった。

 その時にはもう、応援に刑務官が数名駆けつけて、男は無理矢理引き摺られていった。

 扉の方へと向かい、面談室から退室する。廊下へ出ると護衛か監視か、こちら側の扉の方に立っていた刑務官が私を見て敬礼をしていたので、ぺこと軽くお辞儀を返す。

 そして正面の窓には我らが故郷──青い地球の姿があった。

 聞く話によると、かつて月は高貴な人々が住まう、清浄な地である言われてきたらしい。そして罪を負った月の民は穢れた地上に流されたと。

 もしそれが本当の話ならばなんて悪意のある悪戯であろうか。行き過ぎた科学文明は月の権威を失墜させた。

 今や人類は容易に月へと行くことが可能になったがこんな草木も生えぬ荒れた星、誰が好き好んで住みたいと思うだろうか。受け入れられなかった土地は自然に受け入れられなかった人々の為の場所となった。

 『医務室』と書かれた札が立てかけられた部屋の前で立ち止まり、ぎいと扉を開ける。

「お疲れさまです」

 先に入室していた私の先輩が返事をするが、これもまた私と同様に機械的な受け答えをしただけで、彼は私の方へは一瞥もくれずにずっと目の前のパソコンと向かい合っていた。

 彼の傍をすっと通り抜けて、奥の自分の席へとたどり着く。狭いデスクの約半分を占めているファイルの束をもう少し端へとずらし、今回のファイルをぽす、と置いた。そして起動させたパソコンに今回の結果を整理し、打ち込む。

「ああ、そういえば。星野さん」

 カタカタと規則的なタイピング音だけが響くこの部屋。ある種の静寂にも似たこの状況を最初に打ち破ったのは先輩の方からであった。

「なんですか?」

 手を止め、くるりと椅子を回転させて彼の方を向く。彼はぼりぼりと頭を書きながら、赤い表紙のファイルを私の方に差し出してきた。

「三日後に新しい囚人の方々が数名、こちらに来るそうです。そこでその中の一名を、新たにお願いしたいのですが」

「ああ、分かりました」

 そう言って、私はファイルを受け取る。ぱらと一枚表紙をめくると、その囚人の写真付きのプロフィールが印刷されてあった。

「女性……ですか」

「ええ。同性同士の方がやりやすいだろうと思いまして」

 彼はそう言いつつも、姿勢はすでに自身のパソコンの方に向いていた。

「別に男性でも構いませんが」

「ああ、その資料と補記のデータ化したものを今送りましたので、そちらも活用してください」

 聞いていなかった。諦めて再び目の前の資料に何気なく目を落とす。

 名前は、秋原千里。年齢は──私より丁度五つ年上か。しかし私は、目の前の写真を見る限り、もう少し年上の様に思えた。その写真には他の免許証の様に無表情の真顔が写っている。決して老けた顔をしているわけではない。むしろその面で言えば、真逆のように思える。顔立ちはそれこそ、あと五年若ければ高校生と言ってももしかしたら通用するかもしれないと思った。さらりとした黒髪のショートヘア。小柄な丸顔で目は少し細く、おとなしそうな感じである。肌は雪のように白いというわけではないがニス塗り立ての鮮やかな樹木の色よりはもう少し白い。端正な顔立ちではあるが美しいというよりも可愛らしいと表現した方が似合う。そんな印象を受けた。

 しかし何故こうも顔立ち相応の、歳の印象を受けないのだろう。例えば目尻の少しした角度。また例えば頬の少しした強張り。または口角の微かな引きつり。そういった所から彼女が実年齢よりも大人びて見えるのか。それとももっと別の、何か違う要因がそうさせているのだろうか。

 まあ、そんなこと考えても仕方のないことであろう。そう感じながら、私はある項目に目を奪われた。

「無差別に……?」

 無差別殺傷事件。それはこの女がしたことであった。某日、突如として都市部にて誰とも構わず、凶行に及んだらしい。その項目に思わず私は眉をしかめる。

 無差別殺傷なんて、ほぼ滅んだと思っていた。くるりとパソコンに目を向け、送られて来たPDFのファイルをクリックして開く。確かにこの書類のより詳しい情報が書かれてあった。見た所、違法ドラッグの経験、前科もないようだ。しかも、結構いい大学を出ている。

 ふむと、無意識に右手を顎にかけて。そこで知らずの内に彼女に興味を抱いていることに気付き、思わず画面から目を背けて苦い顔を浮かべた。チラリと再び一瞥した後、はあと一回溜め息をついてそのファイルを一旦閉じる。

 いつからこうなってしまったのか。そうは思うものの、かといって、どうすることが出来ようか。少しの逡巡の後、結局考えないことにした。はっきり言って、当日までに知っておくことなんて名前だけで充分だ。私はまた先程の報告書の作成に取りかかった。


 全ての犯罪は心理学で解決出来る。とある心理学者が打ち出したこの学説は、社会に衝撃と賞賛をもって迎えられた。当時より、物質的幸福をある程度満たした人類は精神的充足を求めていた。便利な物が身の回りに溢れていても、幸福に感じない。いやむしろ、どんどんと精神は惨めなものになっていっているのではないか? そんな考えが、次第に社会へと浸透していったのである。

 そんな折りにその学説が大々的に打ち出されたのである。人が犯罪を犯してしまうのは、その人の精神の状態が犯さざるを得ない経験下及び環境下におかれており、ある特定の経験をし、特定の環境下におかれるとどのような聖人であっても同様の犯罪を犯す。従って、どのような経験をしてどのような環境下にあるとどのような犯罪を犯すのかが分かれば、犯罪は撲滅することが出来る。未だに犯罪率が下がらないのは、その機構が未だ解明されていないからである。そしてそれは、幸福についても同様の理論が成り立つ。

 その学説により、精神の幸福追求を求める動きがより一層高まることになったのだ。裏で、いや、星の外でどのようなことが行われているかもおそらく、知らずに。


 今日は例の新しい罪人、秋原千里と初めての面会の日だ。いつもの様に透明な防弾ガラスで仕切られている面談室に入り、中央の──防弾ガラスを壁とするなら、奥と表現した方がよいか──椅子に座り、書類を机の端に置く。彼女はまだ来ていない。予定通りならあと少しで来るであろう。四方の純白の壁は、いやらしい清潔感を与えているように思える。積み重ねられた書類の一番上のファイルをめくり、一ページ目に貼られている女性の顔写真を再度確認する。そのとき、がちゃりと扉の開く音がして私は反射的にファイルを元の状態に閉じて戻した。一人の刑務官に連れられて中に入ってきた一人の女性。それは紛れもなく写真に写っていた女性、秋原千里であった。写真よりも元気でもなく、かといってげんなり青ざめているわけでもない。

「こんにちは。緊張せずに、どうぞお座りください」

 私はにこと微笑みながら掌を向かいの椅子へと向けた。

「嗚呼。それでは失礼しようかしら」

 秋原はそう言い、椅子へと歩み寄ってぎしと腰掛けた。それを確認し、私も席に着く。その間も、私は笑みを絶やさないでいた。人を侮蔑するようなものではもちろんなく、暖かく、誰かを迎え入れる笑みを作った。ぶよぶよとした生暖かい一枚の皮を顔全体に覆っているような感覚がする。

「ええと。秋原、千里さんですね? 初めまして。私は星野絵美と言います」

 私は普段よりも一トーンほど高い声で、それでいて機械的な紹介を進める。秋原の方は何を語るわけでもなく、じいとただこちらを見つめていた。どこか気味が悪い。秋原に対し、そんな第一印象を抱きながら、私は続ける。

「私はここで皆さんの健康を管理させていただいております。風邪等の病気やちょっとしたアクシデントによる怪我はもちろんですが、皆さんのメンタルケアで主に皆さんに接しております。どんな小さな悩みでも構いませんので、どうぞ、打ち明けてください」

「ふく。」

 私はそこで、一瞬思わず眉を顰めた。目の前の女性は私の説明を聞いて、口をにやと歪ませて笑ったのだ。これまでにも笑う者はいた。しかしそれは私を見下す下品な笑いであったり、半分壊れた、空虚な笑みであった。しかしこれまでの経験からか、直感からか、彼女の笑いはそれとは違うと感じた。何が含まれているのかは分からない。分からないが、どこか私の心をざわつかせた。

「ええと。そうですね。それでは、今の段階でなにか悩みとかありますでしょうか? なんでも構いませんよ」

 そんなことは悟られないように、私はマニュアルを先へ進めた。尋ねながら、横に置いてあったファイルをはらと再度開く。

「悩み──ですか。ないですね、今のところは」

 秋原はそう、落ち着いた口調で答える。その口調からは一般的にもの静かで大人しそうな人物像が浮かび上がり、彼女も大人しい、という点においてはそういった人物層に当てはまるようにも見える。無差別殺傷事件なんてものを起こしていなかったらの話ではあるが。

「そうですか。では、何かありましたら気兼ねなくご相談ください。それで次は、あなたのことをもっとよく知りたいのでいくつか質問をさせていただきます」

 私はマニュアルを進め、いくつかの質問を投げかける。それは好きな食べ物、色、スポーツなど、他愛もなくて簡単なものだ。小学生でも行うような子供騙しの心理テストのようなものだ。秋原もそれに淡々と答えていく。そして、その日最後の質問が終わった。

「お疲れさまでした。これで今日の質問は以上です。ありがとうございました」

 私がそう微笑んで一つお辞儀をしてこれで面談を締めくくろうとすると、秋原は手をひょこと挙げそれを制止させた。

「あ、ちょっといいですか?」

「はい、なんでしょう」

「今日はこれで御仕舞いですか?」

「そうですね。今日の予定はこれで以上となります」

 私がそう言うと、秋原は少し申し訳ないような顔を浮かべて言った。

「そういえば、悩みがあったことを今思い出したのです。もしよろしければ、私の話を聞いてくれませんか?」

「──分かりました。どういったものですか?」

 私は閉じかけたファイルを今一度開く。秋原はありがとうございますとお礼を言って、薄く笑った。

「実は最近、おかしな夢を見るのです」

「夢、ですか?」

 はい、秋原はそう頷いて、静かにその内容を語りはじめた。

「気付けば私は廃墟にいました。辺りは電気もなく薄暗いのですが、何故か周りが見える。私は二階にいましたので、一階へと下りていきました。すると、その一階のある一室で、絵を見つけました。クレヨンで、幼稚園児が不器用ながらも愛を込めて描かれたように思われました。そこには多くの人が互いに手と手を取り合って、笑っていました。みんな笑顔で、にことしていました。私はそれを見て、どうしようもない嫌悪感と嘔吐感に襲われたのです」




 私は医務室の方へと戻り、そこで今日の分の報告書を作成していた。それを終えた後、今度は刑務官への指示書を作成しなければならない。私はデータを送信後、エクセルを起動させてファイルを開く。

 先程秋原に言ったように、私たちの仕事は彼らの健康管理も含む、「メンタルの管理」だ。それに関することであれば、私たちは刑務官に指示をする権限を持っている。

 ただ、そう言うと少し誤解が生まれるかもしれない。

「10342番は同じ薬剤を引き続き。10499番はちょっと強いモノに変えて──」

 私たちは彼らを治療する為に居る。

 なぜ彼らがそのような犯罪を犯したか。彼らのそれまでに置かれていた環境、体験した出来事を隅から隅まで調べ上げるのはもちろん。それと平行してどのように改善すれば犯罪が起こらないかを調べるのだ。具体的に言えば開発したばかりの、もしくは働きがまだ全部が明らかになっていない薬品の投与、限定環境下においての心理学的調査、問診、あるいは脳手術、あるいは電流。

 建前は彼らの治療、更生。だが有り体に言えば実験だ。モルモットや猿の動物実験では精度に限界がある。結局の所、それらは人間とは違う生き物なのだから。そもそもの話、死刑代替制度のこの島流しに救済なんて必要なわけがない。

 ああ、なんと素晴らしいことなのでしょう。社会に被害を与えた彼らの存在が、社会の貢献に寄与しているのです。

 そんな大義名分を掲げていても、もちろんこのことを社会に公にすることはできないが。

 そんなわけで、私たちの仕事は彼らの健康管理も含む、「メンタルの管理」なのである。研究者がサンプルを丁寧に管理するのは当たり前だ。

 大抵のケースは既にマニュアル化されており、てきぱきとそれに従う形でエクセルを埋めていく。ある者には甘美を。ある者には恐怖を。ある者には疑心を。そこで、キーボード上を蠢くように這っていた私の指がある項目でピタリと止まった。最後の一人。今日入ってきた囚人、秋原千里の項目だった。

「みんな笑顔で、にことしていました。私はそれを見て、どうしようもない嫌悪感と嘔吐感に襲われたのです」

 これまでにも、頭のおかしい奴は何人も見てきた。しかしどうもこの女を彼らのカテゴリに入れるのは早計な気もする。だがそれ以前に、私は彼女を不快に思っていた。一つ一つの細やかな動作が原因か。おかしな夢の噺が原因か。それはまだ解らない。ただただ気持ち悪く、私を苛つかせた。

 私はまた少し考えて、彼女には三番目に強い薬を投与させることに決めた。初めからあまり強いモノを与えるのは本来非推奨ではあるのが……一人くらいはこういったサンプルが居ても上もいちいち口を出してきたりはしないだろう。

 指示書のエクセルを全て埋め、送信する。はふうと一つ溜め息をついて、ぐうっと伸びをした。パソコンに表示されている時計を眺める。日本時間では、今は深夜の二時。草木も眠る丑三つ時だ。だが夜の闇を克服した現代人、特に若者にとってはこの時間は眠ることなく、貴重なモラトリアムの時間として迫り来る朝と眠気に闘いながら青春を謳歌していることだろう。私はふわりと数年前のことを思い出す。数年前は私もそのようにビール片手にネットを楽しんだり、必至に試験対策の勉強や、期日の迫ったレポートを片付けたりしながら未だ見ぬ将来に思いを馳せていた。その夢見てた将来は、こうしてマイクロ洗浄されたコーヒーを片手に異星で人間の(モルモット)を管理することであったのだろうか?

「このコーヒー。やっぱり美味しいわ」

 誰も居ない医務室内。気付けば私はそんな独り言をポツリと呟いていた。



「よろしくお願いします、星野さん」

 二回目の秋原との面談。私は正直驚きを隠せなかった。彼女は最初のときと同じように、何も変わらない様子で面談に応じていたのだ。

 確かに、彼らには実験を行う時初めにこれは実験であるということだけは伝えてある。だが具体的にどんな実験で何を調べているのかは伝えておらず、当然、囚人達の意志は無視される。

 そのため、どのような者であっても二度目の面談では、何か信じられないものを見たかのような目で私を見るのだ。そして次に飛んでくるのは大抵質問の山と罵倒の山。

 そんなものにはもう慣れていて。対処法も心得ているつもりで。

 それであるが故に、今回の秋原の普段と変わらぬような対応に少々面喰らってしまった。

「どうしましたか?」

 秋原が不思議そうな表情で私を見つめているのに気付く。

「あ、いえ……」

「ああ、もしかして。寝不足ですか? 先生ってお忙しそうですし」

 そう言って秋原はくくりと笑い、つられる形で私もあははと愛想笑いを返す。

「それで──ええと、何か体調が優れないであったり、気になる点はございますか?」

 本体ならば、特に初めての場合はそんなことはこちらから聞かずとも、向こうが勝手に話し出す。やれ頭痛がするだ、やれ気分が悪いだ、やれ俺をどうするつもりだだ、どうでもいい事まピーチクパーチクと。だが、いざこちらから聞くとなると、慣れないからか、なんともむず痒い。当の秋原は私の問いを聞いてううんと唸る。

「そうですねぇ。少々、目がからりと廻って、そう、右の腕の手首から肘にかけて、そう、丁度この辺りをサナダムシが這い回り、腕がピリピリと痺れはしましたが、それだけです」

 一瞬、刑務官が秋原に投与を忘れたか、間違えたのかとも考えたが、どうやら予定通りに実験は受けていたようだ。だとするとなぜこんなに平然としていられるのか。こんな異星の収容所に連れてこられて、よく判然としない実験をさせられれば、普通は誰だってパニック状態に陥ってもおかしくないだろう。それなのにこんなに平然としていると言うことは、やはり彼女は普通ではないのだろう。

「なるほど、そうですか」

 私はとりあえずそう答えて、メモに「厄介」とだけ走り書きした。ただ単に、今の自身の気持ちを表しただけだ。あとはまたマニュアルに沿って質問を投げかける。秋原もまたそれに、淡々と答える。質問はこれまでの彼女の把握と実験状況の把握が主だ。前者はマニュアル通りで問題ないが、果たして後者はどうするか。私は質問しながら、頭の片隅でそのことを考えていた。今回はまあ初回だからさして問題ではないだろう。ただし、今後とも秋原が数あるマニュアルに沿う反応になるとは万一にも言い難い。実験的にはこういったイレギュラーがいるのはむしろ当然で、在るべき存在なのかもしれないが、如何せん面倒だ。

「それでは、最後に何かありますか?」

 そんなことを脳内で逡巡していると、気付けば最後の質問になっていた。私の問いを聞いた秋原はにいと笑って一つだけ聞いてくれますかと尋ねた。

「また、おかしな夢を見たのです」

「夢、ですか」

 またか。率直に私はそう思った。しかし、夢と言うのはその人の投影ともいえる。これを蔑ろにすることは、この仕事を携わる者として出来なかった。

「はい」

 秋原は語った。

「気付けば私は公園に居ました。その公園を見ますと、何人かの男の子どもが一人の少女を囲んで虐めているのです。ぐるぐるかこって、虐めていたのです。私はこれは悪いことだと悟り、囲っていた男の子たちを殴りました。次々に、殴りました。気付けば少年たちの顔は真っ赤になっていました。私の手も真っ赤です。私は即座に警察に捕まってしまいました。そしてすぐさま裁判にかけられてしまいました。そこで、証言に立ったのは、あの虐められていた少女でした。彼女は証言台で私の行いを糾弾します。それはもう涙ながらにです。聞けば、少年達は一生病院で過ごさねばならぬ身体になってしまったそうです。私の判決は有罪、極刑でした。連れて行かれるとき、私は見たのです。少女の笑顔を見たのです。にこりとした、綺麗な笑顔でした」




「お疲れさまです」

 そう言って私は医務室へ入る。案の定、既に先輩がパソコンと向かい合っていた。私は書類を自身の胸に押しやり、いそいそと私の席へと向かった。ばさりと書類を積み重ね、ギュルリと音を鳴らして椅子に座り込んだ。

「大丈夫ですか?」

 思わず、ぎょっと声のした方を見つめる。今の声は、間違いなく先輩の声であった。相変わらず顔はパソコンの方を向いているが、聞こえた声の方向と距離からみれば、間違いないだろう。

「は、はあ……」

「まあ、大丈夫であるのならばよいのですが」

 あの朴念仁でぶっきらぼうな先輩が私にそのような言葉をかけるなんて夢にも思わなかった、と言えば少しオーバーではあるが到底考えられなかった。雪でも降るのではないだろうか。そんなことを思って反射的に窓をチラリと見て、ここが月だと思い出す。

「あ、あはは。私なら大丈夫です。ありがとうございます」

 即座に脳裏にあの秋原千里のことが浮かび上がったが、この段階から彼に相談をすると言うのもどこか気が引けた。これくらいであれば、普段通り私一人で対処すべきだろう。それが私の仕事なのだから。

「そうですか」

 先輩はそう言って、傍らに置いていたコップを手に取り、ぐいと立ち上がった。どうやら彼の方は終わったらしい。

 それでは私は先にあがります。そう言って先輩は部屋から出ていった。お疲れさまでしたとだけ、既に誰も居なくなった扉に向かって声をかける。私の方はやるべきことがまだまだ残っていた。机の上に積まれた書類から一番上に置かれたファイルをつまみ上げる。

「私は即座に警察に捕まってしまいました。そしてすぐさま裁判にかけられてしまいました。」

 一般に、裁判で被告となって裁かれるような夢は良心の呵責や、罪の意識に苛まれていることを暗示していると言われている。しかし、秋原の場合それに当てはまるのだろうか。あの夢は後半はどこか重きが裁判そのものではなく、自身が助けた少女に置かれているように思える。しかし、結局どちらにせよその少女も夢の中の秋原を叫弾している。ということは、やはり後ろめたさを示しているのか──。そこまで考えて、私は今していることが業務からは若干ズレているのではないかと感じ、くちと舌打ちをし、傍らのお茶をぐいと一気に飲み干した。そもそも、まだ全然情報が足りない。なに、まだまだ時間はあるのだ。ゆっくりと、じっくりと解剖していければいいのだ。

 私はくうと再び伸びをして、パソコンに向かって今回の分の指示書と報告書の作成に取りかかった。





 ぴくぴくと。何かが蠢いている。よく見ると、それは蛆であった。くねくねと。少しずつではあるが私の方に向って来ている。そしてついに、私の身体を浸食し始めた。一匹一匹がもぞもぞと私の身体を弄る。まるで私を乗っ取ろうとするかのように。首の辺りまで這って来た蛆をよく見ると、それらは一匹一匹、人の顔をしていた。白い、苦しんだ表情の誰かの顔であった。

「あなた達はなんだ」

 そう問うと、一匹の蛆が答えた。

「私たちは、もとは人間だった」

 問う。

「なぜ、蛆になっているのか」

 答える。

「前世の行いが悪かったからだ」

 問う。

「なぜ私を襲うのか」

 答える。

「襲っては居ない」

 問う。

「では、何をしているのか」

 蛆は這って、答えた。

「待っているのだ。お前がこちらへ来るのを。今か、今かと」





「────」

 あれから、二週間が経った。しかしまあ、一生、もっと言うと宇宙が出来、地球が出来、月が出来た時の流れと比較すると、二週間という百二十万九千六百秒の時の流れなど刹那に等しいわけで。

「────」

 あれから、ほとんど全く変わらない日々が過ぎていた。

 つまるところ、彼女、秋原千里もあれから何も変わっていないと言うことだ。複合作用の調査に強い薬を複数投与したり、精神を抉るような心理実験を行ったが、時折体調が悪そうに見えるものの、それでも未だ面談では平静を保っている。そして、その都度私に見た夢の話を聞かせるのだ。ある日は壊れた玩具の話。ある日は英雄として担がれる話。ある日は蛆が自身をたかる話。その夢に何かの暗示を見出すことは出来ても、その夢と夢を繋げることは出来なかった。それらを繋げるには明らかにバックストーリーが足りない。だが、彼女は自身の過去については深くは語ろうとはしなかった。ある程度まで踏み込むと、すいません、これ以上はまだ語りたくありませんと拒むのだ。そろそろ、強く攻め込むべきなのかもしれない。私はそう思った。

「──っおい! 聞いてんのか!」

 その怒声で、はと我に帰る。そうだ。今はまた別の囚人の面談をしていたのだった。

「ああ、すいません。それで、なんでしたっけ?」

「だからよぉ。もう許してくれよ……限界なんだ。頭も痛くていつも誰かが見ていて。勘弁してくれよぉ……」

 目の前の、囚人である彼はそう言ってえぐえぐと泣き出したが、それとは裏腹に私の心は急激に冷めていった。

 ああ、結局いつもの言葉ではないか、毎度毎度。お前らそう言って更生したことあったか? いい加減、覚えろよ。──解れよ。お前ら屑共は死ぬまでここで試されるんだよ。そんなことで私の頭を患わせるな。

「前向きに検討しますね」

 だから、私も何も考えずにいつもの決まり文句を返す。彼は今にも私の首を締め付けて、殺してやると言わんばかりの殺気の籠った目をこちらへ向けてくる。ただそんなもの、こちらからすればこれからの実験の参考になるだけだ。

 うん、前言撤回。こういう屑は苛つかせはするが頭は使わないで済む。あまり贅沢を言ってはいけないのかもしれないな。そんなことを半ばぼんやりを思いながら早々と彼の面談を終わらせた。

 面談室を出て、チラリと腕時計のディスプレイを見つめる。現在、日本時間午後四時二十五分。

 近く秋原との面談が差し迫っている。ふわと溜め息が一つ、自然に零れ、慌てて準備に取りかかることにした。まあ準備と言っても物理的な準備は医務室から資料を取り替えるだけなのだが。どちらかというと、必要なのは頭の準備の方であった。

 彼女をまだ何も掴めていない。そんな焦りが、私の心の中に少なからず燻っていたのかもしれない。頭を一度整理しながら、私は彼女の面談室へと向った。

 室内へ入って来た彼女はやはりいつも通りであった。多少やつれ、足下がふらりとおぼつかなくはなっているがそれでも、心は全く変わってないように感じた。

「こんにちは、秋原さん」

「こんにちは、星野先生」

 互いに形式的ともいえる挨拶を交わし、席に着いた。

「何か体調が優れないであったり、気になる点はございますか?」

 彼女の場合、まずは私からこう切り出すことになっている。いい加減このやり方にも慣れて来た。秋原もそうですねと言って今回の症状を伝える。こうも平然と語られるとその結果が正しいかどうかの信憑性が薄くなる感じも初めはしたが、他のサンプルと合わせてみても嘘をついているようではない。

「それでは、いつものように後いくつか質問させて頂きますね」

 そう言って私はくるりと眼球を手元の資料の方に向ける。さて、今回こそこいつの化けの皮を剥がさねば。そう思ってその為の質問を選りすぐろうとした時。

 不意に、くつりとした笑い声が聞こえた。

「それにしても本当に、お優しいのですね、星野先生は」

 そう、秋原は唐突に言って。

「まるで、カウンセラーさんみたい」

「は?」

 ──そう、続けた。

 何を言っているんだ。私はもとよりカウンセラーとして──いや確かに、やってることの実態は到底カウンセラーとは言えることではないけれど。でも、さっきのあの口ぶり。まるで。そうだ、まるで、初めっから私たちの実情を知っていたかのような口ぶりだ。いや、そんな、でも……。

 ああ、頭がぐるぐると混乱する。これまでの思考が、構築した論理が一気にごろりと崩れ去るような感覚を味わう。

 そしてその合間に、私は見た。

 目の前。そんな私を見透かしたかのような、にへらと笑う彼女、秋原の顔。

 そこで、私の中の何かが切れた。

「っふざけないで! 立場をわきまえなさい!! なんなの貴女は!? なんで、そう……」

 気付けば、私は今にも防弾ガラスを突き破って襲いかかろうとするような勢いであった。即座に我に返るも、心臓はまだ高鳴り続ける。おかしい。こんなのおかしい。なんで、追いつめるべきの私が、こう追いつめられているのだ。ああ、目の前の彼女が憎い。私の全てを解った気になっている、彼女が。お前に、お前に、私の何が解るのか!? 何人も人を殺した、頭のいかれた犯罪者風情が、どうして私のことを知ることができようか。何も解ってないくせに。私だって……。

「私、だって……」

「「最初は救おうとしたさ」」

 声が、重なる。私の声と、そして、秋原の──。

「っ!」

 そう。そうよ。私だって。初めは救おうとした。彼らの、囚人のことを、心の底から。でも、努力して、親身になって、解ろうとすればするほど、返ってくるのは怨嗟の声。

「しょうがないじゃない! だってこれが私の仕事なんだもの! 私がやらなきゃいけないことなのだもの……」

「地球に住む、市民のために?」

「そうよ」

 きっと秋原を睨みつける。

「ふく。」

 その時の秋原の顔は、最初であった時の、あのにやと歪ませた笑みをしていた。私は今、彼女のこの笑みがどういったものなのか悟った。これは私を見下す下品な笑いでも、半分壊れた、空虚な笑みでもない。私を心の底から同情した、憐れみの笑みだったのだ。

「あんた……なにもの?」

 睨みつけたまま、再び聞く。この問いは今まで何度も接して来た相手に使うものではないだろう。だが、それ以上に適した質問が、今は見つからなかった。

 少しの間、お互いがお互いを見つめあう。その間、どちらも声を押し殺していた。刹那の静寂の後、ふうと溜め息をついて、秋原はゆっくりと口を開いた。





 帰って来た。ようやく、帰って来たのだ。この地球に。懐かしの我が母星に。

 ああ、みんなが幸せそうに笑っているよ。

 なにも知らずに、笑っているよ。

 にこにこと、みんなとても充実してそう。

 それは、私にとってもとてもとても嬉しいこと。

 幸せなこと。

 ──おかしいな。

 そのはずなのに。

 私は、どうして、

 どうしてこんなに、


 気持ち悪く思うんだろう──。





「私はね、昔。ここで働いていたの」

 彼女から発せられた一言は、私の言葉を失わせるには十分なものであった。

「ここで、貴女と同じように日々囚人の相手して、様々な実験もしたわ。でもね、ある日耐えられないことが起きてこの仕事を辞めて、地球に帰ったわ。依願退職の場合だったら、秘密義務はあるけれど記憶は消されないのは知ってるでしょう?」

 私はゆっくりと、一回首を縦に振った。

「久々の地球は楽しかったわ。この仕事は給料も保障も良いからお金には困らない。でもね、なんでなんだろ。どうしても、そこで暮らす人々を、彼らの笑顔を気持ち悪く感じてしまったの。嫌悪感、とはちょっと違うのかもしれない。えも言えぬ恐怖ににた気持ち悪さだったわ。そう、まるで深夜にひっそり稼働して、ひとりでクルクルと光廻っているメリーゴーランドのようだった。どこか絢爛としていて、どこか不気味で──」

「そ、それで、あんな事件を起こしたの?」

「事件を起こすつもりなんて最初は毛頭なかった。いつかは慣れるだろう。あの仕事のことも、心の奥底にしまわれて、いつの日かは周りの皆のように笑って日々を暮らせるだろうと。でも、駄目だった。いえ、正確には次第に周りにも馴染めるようになってきたわ。でも、今度はそんな自分がどうしようもなく気持ち悪くなった。結局、私はどこまでいっても私だったのよ。過去を完全に封じ込めることも出来なければ、その過去の経験で私は形作られている」

 私は、メモを取ることも記録を付けることも忘れて、ただ呆然と彼女の話を聞き入っていた。秋原の行動、心理。それを私に置き換えることも容易であった。

「気付いたら、あんな事件を起こしてた。それで解ったわ。これこそまさに、『精神の状態が犯さざるを得ない経験下及び環境下』にあったのよ。このまま月に収監されると決まったとき、心のどこかで安堵したわ。またあそこに、今度は囚人として戻れるのだ、とね。そこでモルモットとなるのも悪くないって。でも、貴女を見て──」

「私を見て?」

「心が揺れたわ。私は一目で直感して、そして話していくうちに確信しました」

「何を……」

 それを聞くのだけで、精一杯であった。声が詰まる。息が苦しい。秋原はにいとした笑顔のまま、顔を私の方に防弾ガラスギリギリにまで近づけて、答えた。

「私は貴女よ」

「は?」

 一瞬、彼女の言っていることが解らなかった。それなのに、その言葉はまるで蛇のように私の耳から侵入し、脳をぐるぐる回して浸食し、溶け込む。

「貴女を見てると、本当に働いている時の私にそっくり。だから、貴女が今何を考えているのか、手を取るように分かった。ごめんなさい、貴女で弄ぶような真似をしてしまって。でも、これだけは忘れないで。私は貴女、そして、貴女は私よ──」





 医務室に戻ると、私は即座に先輩の胸ぐらをつかみあげた。パソコンががたがたと音をたて、書類がばさりと床に散らばる。しかし、なんにも驚いた様子を見せない先輩を見るに、彼もこうなることを予想していたのか。いや、今はそんなことはどうでもいい。私は相変わらず無愛想な顔をしている先輩に質問を投げかけた。

「先輩。新しく入ってきた秋原という女性。元ここの職員と知っていましたよね? なぜ教えてくださらなかったのですか?」

「聞かれませんでしたもので」

「聞かれなかったから答えなかった? 隠したの間違いでしょう。書類も、全部先輩が改ざんしたのですか? ここの職員の記録も」

「職員の記録の抹消は上の指示です。ミイラ取りがミイラになってはならない。それが上の方針だったようです。彼女個人の履歴も、今頃は正式に書き換えられているでしょう。ですが、あの時貴女に渡した書類を書き換えたのは確かに私の意志です」

「どうして!」

 私が更に力を入れると、彼は少し苦しそうにしながら答えた。

「ご自身で真実に辿り着く。それがあなたの為だと思ったのです。あなたと彼女は、どこか似ていましたから」

「っ」

 私は彼を離す。ごほごほと先輩が咳き込むが、それを無視して、私は自分の席に勢いよく座り込んだ。いいようのない怒りがこみ上げてくる。それと同時に、涙がぽろぽろと零れた。なんで流れているのか、私にも分からない。悔しさか、悲しさか。だけどそんなことどうでもよかった。

 私は改めて、心底自分のことが嫌になった。




 嗚呼、虫が這ってくる。

 嗚呼、誰かが笑ってる。

 私は誰? 私は何? 

 私は一体何をしたと言うの?

 私は何を見ていたの?

 嗚呼、声が聞こえる。早く来いと、早くいけと。

 メリーゴーランドが廻っている。からころと。ころからと。

 そこで、笑っている貴方は誰?

 嗚呼……!




 それはその翌日のことだった。

 秋原千里が自殺した。どこからくすねたのか、ヒモで首をくくって死んでいた。私が駆けつけた時には、彼女はぷらぷらと、部屋の真ん中で揺れていた。首はくてんとなり、舌をべろんと出し、顔と身体はぶくりと膨れていた。ズボンは濡らし、それはそれは惨めな姿であった。こんなことはたまにあるので刑務官や私の動きも慣れたものであった。

 だが私は、もうこの仕事は辞めようと思った。

 その数日のうちに私は辞表を提出し、今私は地球へと向う船の中に居る。この船だと、もう一眠りすれば起きた頃には地球の空港に着いている。

『私は貴女よ』

 彼女の声が響く。

『貴女は私よ』

 彼女の声が染み付いている。

 徐々に近づく、青い星。私は迫り来るそれを見て、おえと舌を出した。


〈Fin〉






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― 新着の感想 ―
[良い点] (><) 怖かったです! 夜中に開いてひさびさにお手洗いに行けなくなった。
2015/10/22 09:13 退会済み
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