第4節—大神様の、名付け親—
どうやら神様には羞恥心というものが無いようだ。まだ温泉に浸かっている僕に、もう体は温まったじゃろうとか言ってきた。
いやもうね、緊張やら何やらでぽっかぽかですけれど。のぼせる一歩手前だよ。
湯船から上がった僕は、タオル一枚腰に巻いた姿で、所在なさげにしていると。
「ぬし、名はなんという?」
「僕? 僕の名前は……」
こんな格好で名乗るのも失礼なんだけど、僕は言った。柊千草という名前を。
「ちくさ、か。なんと書く?」
「えっと、漢数字の千にその辺に生えている草と書いてちくさと。たくましい雑草のように強い子に育つようにって」
「ふむ……その名の意味としては弱いが、よい名じゃの。では千草、これから世話になるし、世話をする仲じゃ。儂が神だからといってあまり気を遣ってくれるな。普段通り、家族と接するような心持ちで儂とも接してくれると嬉しいぞ」
そう穏やかな口調で言いながら、彼女は僕の濡れた頭を優しく撫でてくれた。本当にこの神様が、言い伝え、昔話に出てくる強い神様なんだろうか。
「ほれ、そのままでいると風邪をひく。儂は外で待っておるからはよう着替えてこい」
「うん、わかった」
そう言って僕は、脱衣所へ向かう。後ろで神様とあの狼さんが何かを話しているようだ、でも、湯冷めしそうだったから聞くことはせずに、そそくさと脱衣場へ入った。
「ご苦労じゃったの、汰鞠。これからのことは先ほど話しておった通りじゃ。山に帰ってみなにそう報告せい。小鞠にもよろしくの」
神にそう言われ、その狼は山の斜面を駆け上り、月夜の山奥に消えていってしまった。
そして彼女もまた、女性用の脱衣所を通り外に出る。ここへ来るための、そして旅館に行くための小さな洞窟に入り歩を進めていった。封がされていた時は、この洞窟の手前でもう止められていた筈。ここから先は遥か昔見た現の世。
「あれ、神様いない」
脱衣所から出てみると、外で待ってると言っていたはずの彼女がいない。さっきまで外に出れず、あまりに突拍子のない出来事に出会ってしまったからか、さっきまでのことが夢に思えてしまうんだけど。
とにかく僕は洞窟に入って旅館を見渡せる高台に出ようと足早に石畳の上を行く。
月夜の明かりが差し込む洞窟の出口、そこに彼女は立っていた。まだ乾ききっていない銀色の前髪に露を滴らせ、やんわりと夜景に浮かぶ暖色の旅館の明かりを眺めながら。
「随分様変わりしたのう。昔はなんてことない、村の民宿じゃった場所が」
本当にこの神様は、外に出るのが久しいみたいだ。鋭い、切れ長の目をまん丸にしてこの高台から見える景色にただただ感動してる。
そうだ、神様とか彼女とか呼んでしまっているけど、名前はあるんだろうか。
「神様」
「うん?」
「僕、神様の名前が知りたいんだ。僕の名前は教えたけど、あなたの名前を知らないから」
「ふむ……、名前のう」
そこから、彼女はしばらく考え込んでしまった。なんだろう、やっぱり神様だから堅苦しい名前なのかな?
「銀狼、大神、大狼神、荒神などといくつも名を提げられたが、ぬしらのような呼びやすい名は無いのじゃ。うーむ……、ん。のう、ぬしよ。儂になにか名をつけてくれんか?」
「ええ!? 僕が神様に名前をッ?」
「おおう、そう構えずともよい。ぬしら人間は仲の良いものに言いやすい呼称をつけて呼び合うのじゃろ? それと同じじゃ」
かっ、神様に名前をつけるなんてそんな……でも。実のところもうこう呼びたいなっていう名前はあるんだ。
満月の夜を背にした、夜露に濡れたような温泉上がりの彼女の美しさ。そこから連想される名前なんだけど。
「じゃあ、うん。気に入ってもらえるかどうかはわからないけど」
「おお、仕事が早いの! よいよい、言うてみよっ」
尻尾をぶんぶん、頭の狼耳をピンと立たせて、期待度マックスなのがプレッシャーだけど。僕はそこでやけに落ち着いてその名を言った。
「銀露。その綺麗な銀色の長い髪と夜露の露で銀露」
僕がその名前を言うと、期待を込めて向けられていた、狼の神様の目が爛々と輝いて口角が上がり。
「ほう、ぎんろ、銀露か。よい、よい名じゃ、美しいの! ……くふふ、よいものじゃな、こうして呼び名をつけられるというのは」
満面の笑みでそう答えてくれた神様……。いや、銀露はその名を反芻しては、喜び、にまにまと表情をほころばせてた。こんなに喜んでもらえるとは思っていなかったな。むしろ、気に入ってもらえなかったらどうしようなんて不安があったんだ。その分、僕としては喜びというより、安堵の方が大きいかな。
「うむ、では改めてよろしく頼むぞ、千草」
「うん、こっちこそよろしく、銀露」
僕はこの小高い丘で、旅館と満月を背にして神様と握手を交わした。その白くて柔らかい手は暖かく、とても恐いと言われている神様だなんて思えない。
花魁のような華やかさを持ちながら、柔らかな笑顔を向けてくれる銀露に、僕は魅入られてしまっていた。
そうして僕は、満月の夜に狼の神様と出会った。幻想的な出会いというより、一波乱あったせわしない出会いだった。けど、言い伝えを目の前にして僕は少し高揚していて、この後のことを考えていなかったんだ。
そう、一緒に生活するとなると。
「ちぃ君?」
「千草ァ?」
只今20時過ぎ、家のリビング。すっかり食卓にはたくさんの料理が並んでいた。しばらく行方知れず、しかも帰ってきたと思ったら獣耳、もっふり尻尾の超絶美人をなぜか連れ帰ってきた僕。まあ当然ながら、お説教ってこってす。二人の般若の前で正座させられていた。
「あの、話せば特に長くなるわけでもな」「おお、なんじゃこの美味そうな食料は! 華やかじゃの、これは食わんのかっ?」
「ごめんちょっと静かにしてて銀露」
指をそろえた右手の平を銀露の方に突き出して、制止する。神様っていうのは豪胆なのかただ空気が読めないのか、このギスギスした雰囲気をものともせずに食卓に並んだ料理の数々に目を輝かせてる。
「さて、どうなってこうなったのか、説明してもらいましょうかねぇ、ちぃ君?」
「と、いうか誰なの? この獣耳尻尾の超絶美人さん」
「話せば長くなるわけでもないから一息で話しちゃうけど、信じられないからって怒らないでね……」
さて、事の顛末を語ると。あらまぁ、目の前で剣呑な目つきをし、仁王立ちしていた伊代姉と母さんの目が丸くなっている。
これは見事に予想どおり。結構丁寧に説明したんだよ? 最後のまとめで銀露は言い伝えに出てくる神様だってこと。その神様が父さんと約束を交わしていて、その約束のおかげで、その神様と僕は一緒にいることになった。って、具体的にまとめたりもして。
「つ、つまりこの人の耳と尻尾は本物だと?」
「うふふふ、あの人ったら、私の知らないところで何をしていたのかしらぁ……?」
あ、あれ。銀露の揺れる尻尾に目を奪われている伊代姉はともかく。母さんは、誰に怒ろうとしているのか忘れてるみたい。まさかの、天国の方に怒りの矛先が向いているぞ。
「千草、儂が直接話そう。これからここで世話になるのじゃ。アイサツも必要じゃろう」
「じゃあ、バトンタッチ」
母さんと伊代姉、そして僕と銀露が向かい合うように座卓をはさんで座る。湯飲み一杯のお茶を用意し、場を整えて改めてお話し、というか面接みたいな雰囲気になってしまったけど。
さっきまで料理を見て、はしゃいでいた銀露もこういう場では真剣な表情だ。一度落ち着けば、すとんと凛とした雰囲気に。まさに神聖な、人ならざるものみたいな趣に、隣に座った僕もドキドキしてしまう。
「さて、先ほどこやつが説明したように、儂は数百年存在する銀毛狼の神じゃ。月が満ちた夜にこの宿の温泉を借りておった。昔は人里によう迷惑をかけておったが、今はこの通り落ち着いておる。そう身構えんでよいぞ、京矢の妻よ」
「京矢さんの事を、名前で呼ぶところを見ると、身構えずにいられませんねぇ?」
「くふっ、かかかっ。あやつはよう愛されておったみたいじゃの。そなたみたいな別嬪に愛されて、あやつも幸せじゃったろう。安心せい、京矢はお節介にも儂の暇つぶしに付き合っておっただけじゃ。ぬしが危惧しておるようなことは何もないよ」
母さんの敵意もなんのその、銀露は自分のペースでのらりくらりかわして見せてる。その銀露の言葉に、何の裏もないのが母さんにもわかったみたいだ。目の前の神様に対する警戒を解いていってる。
「京矢が生きておった頃に、儂はこの子を守ってやってくれと頼まれての。こうしてここに厄介になりに来たわけじゃ」
「千草を守ってって……そんなこと、あなたにやってもらわなくても私が守るわよ」
伊代姉は伊代姉で、そこに納得がいかないみたいなんだけど……あれ。銀露自体の、神様っていう存在には何の疑問を抱かないのかな?
「お姉ちゃん。銀狼様はとても強い神気を持った方だと聞いています。ちぃ君についていてくれるならこれ以上安心できることはありませんよ」
「そうだけど……」
「聞いているって、父さんから聞いてたの? なんだか伊代姉も、母さんも神様っていう単語に慣れてるみたいなんだけど」
いい加減、伊代姉と母さんの順応力が気になっていた僕は、話に割り込んで聞いてみることにしたんだ。すると……。
「お父さんが言い伝えとか、そういったオカルトに詳しいのは知ってるでしょ?」
「うん」
「あんたが東京に行った後からかしらね。お父さんがそういった、言い伝えの“現物”を持ってきたりすることが多くなったのよ。だから神様とか、そういうのを信じるっていうどころか、もう見ちゃってるからね。そこまで拒否反応起こすことはないのよ。一度、すっごいアクティブなお菊人形持ってこられた時があったわね。私、その日、1日泣いててたわ、怖くて。あはは」
笑う伊代姉だけど、目が死んでる。それだけ怖い思いをしたのか。
でも、僕が居る時は、そんなこと持ち込むなんてことはしなかったのに。……っていうかすっごいアクティブなお菊人形って何!?
うわあ、すごい気になるな。まぁ、話の本筋からどんどんずれちゃいそうだったから、その話を掘り下げようとするのはやめにして。
「だから、目の前に言い伝えの中の神様が出てきても、ひっくり返らないでいられるわ。お母さんなんてもっと慣れてるから平気でしょうね」
「ええ、平気です。しかしまあ、お話にあるほど悪い方ではなさそうですね。母さんとしては、京矢さんが、ちぃ君をこの方……銀露さんに任せたということを、受け入れない理由はありませんねぇ」
ほんわかとそう言った母さんに、僕と伊代姉は目を丸くした。口は挟まないけど、やっぱり納得いってないみたいだ。
「うむ、物分かりのよい母君じゃの。儂としては話が早くて助かるが」
そこで銀露は、自分の前に置かれた湯飲みに右手を伸ばし、ずずっとお茶を啜る。その所作は粗野なものだったけれど、やっぱりどこか気品は感じられた。
「姉は不満そうじゃの?」
「別にそんなことはないけれど……。いきなり弟を守るなんて言われて、素直に納得できるほど私、人間できてないのよ」
「お姉ちゃんはちぃ君のこと大好きですからねぇ〜」
「お母さん、余計なこと言わないで」
さらに何か言おうとした母さんの口を、左手で押さえに行った伊代姉。でも、見事に手首を掴まれて止められてしまっていた。
おっとりしたように見えて、母さん実は色々とアクティブな人なんだよ。その……昔の経歴からわかるんだけど、それはまた後ほど。
「でも……お母さんがそう言うなら、私はしばらく様子を見るわ。あなたが本当に、千草の面倒を見る必要があるのか。その理由を把握するのにも必要だし」
伊代姉は伊代姉で、自分の中の不満とうまく折り合いをつけてくれたみたいだ。できた人間じゃないと言う伊代姉なんだけど、はっきり言って僕の姉はよくできた人なんだ。
容姿がいいとか勉強ができるとか、そういった簡単に説明できるような部分ではなくて、内面的な部分で。
銀露は銀露でその言葉を聞いて、僕と一緒にいることを承諾されたと受け取ったみたい。
「うむ、様子でもなんでも存分に見るとよいぞ。千草を守るとは言ったが、別にぬしらとの関わりをおろそかにすることはない。積極的に関わってくれた方が儂もこの世界に、環境に溶け込みやすいからの。くふふ」
と、僕がなかなか入っていけなかった話に、ようやく終止符が打たれて、緊張も何処へやら。安心した僕のお腹がぐうと鳴る。
さっきからおいしそうな料理の匂いが漂ってきているから、もう腹の虫を抑えることができないよお。
「うふふ、ちぃ君のお腹が鳴りましたし、早く夕食にしましょうか。お料理温め直すので、お三方は席についていてくださいまし〜」
「おお、儂の分もあるのか? よいのか、足らんようになって千草が腹一杯にならんと言うなら儂は遠慮するが」
「先ほど目を輝かせていた方が何をおっしゃるのですぅ?」
「っていうか、我慢する気ないわよね。目が据わってるわよ」
「銀露もお腹空いてたんだね……」
「うむ、空いておった。儂はもう餓死寸前じゃあ」
そんなことをちょっと怖い目で言う銀露だけど、この夕食の量は余裕があるらしい。僕の帰郷祝いに母さんと、伊代姉が張り切ったみたいで、作りすぎちゃったんだって。