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第3節—神様の居る温泉—

 ベッドの上で、横になりながら僕はふと、家族みんなで食卓を囲んでいた頃のことを思い出す。

 僕と伊代姉が並んで座って、その向かいに父さんと母さん。母さんの作る美味しい料理を囲みながら、色々な話をしていたあの頃。

 僕が東京で、父さんが他界してから今まで、その食卓には母さんと伊代姉の二人しか居なかったんだよね……。

 母さんや伊代姉にとっては、あの頃、流し気味に聞いていた父さんの小難しい言い伝えの話。そして、父さん自身が見てきたかのように話す、妖かしや神様の話も、恋しく思えたことだろう。


 うん、僕も恋しいんだけど。その頃から、真剣に聞いてはワクワクしていた身にとっては。

 今、父さんがいなくなって、母さんは女手ひとつ、僕らを育てていかないといけない。

 久々に会った母さんは、やっぱり顔に疲れの色が見て取れたんだ。なんていうか、その。

 

「父さん……やっぱり天国に行くの早すぎだよ……」


 僕はまだまだ、母さんを十分支えてあげることができないのに……。


 そんなことを考えながら、僕は、窓の外から聞こえる虫の音を、無心に聞いていた。時計の針を見ると、もう17時前。もうそろそろ、入浴時間がやってくる。

 僕は、アンニュイな気分でそそくさと着替えやら何やら、入浴セットを用意する。自室を後にし、旅館の方へ。

 縁側を歩きながら、中庭に面した場所にきた。そこで、雪駄に履き替えて行くわけなんだけど。

 もう、そこから温泉までの庭園風景っていうのが、とっても見ものなわけなのです。

 庭師さんにお願いして整えてもらってるから、松の木や生け垣なんて均整のとれたアートみたい。枯山水やそこに置かれる岩、庭の間を流れる細い川。赤らんできた景色に溶けこむように揺れる灯籠の灯。

 そして、涼やかな音色を演出する高く澄んだ虫の音。夜になると、ここは蛍も飛んじゃたったりするからすごいんだよ。


 石畳の上、雪駄の底をかろんかろんと鳴らしながら庭園を抜ける。と、石階段が山の方に向かって続いてる。登るにつれて、眼下のものになっていく、まさに日本の原風景とも言える旅館。それを横目に、山のくぼみに作られた温泉に行くための、人二人が並んで歩けるほどしか無い、小さな洞窟の前に出る。


「この立て札を立ててと……」


 満月の夜には少し特殊な立て札を立てる。本当はまだ立てなくてもいいんだけど、どうせもう、この先入るの僕しかいないしね。忘れないよう、事前に立てておこうと“銀狼様ご入浴中”と、墨で書かれた達筆木札を目立つところに、と。


 銀狼、その名の通り、銀色の美しい毛を持つ狼の神様。その昔、ここにあった村を荒らしていた、恐ろしい神様。そんな神様が、とても気に入っているというのが、この先の温泉なんだ。

 満月の夜になると入りに来る。そんな言い伝えが残る、いわくつきの混浴温泉だけどそこは、僕にとっても大のお気に入り場所なんだ。


 満月の夜、狼様のものとなるその温泉。その時は、お客様はもちろん、僕や母さん、伊代姉の柊家の人間でも、その温泉には入れないことになってる。

 従業員、旅館の主だからといって例外はないんだよ。

 そして、その夜になる前の一番ぎりぎりの時間帯が今の時期17時から18時。これが冬になると、もっと早まるんだけどね。


 少しひんやりとしたその洞窟を歩いていると、なんだか別世界への入り口を進んでいるみたいな感覚になる。

 この先には幻想的な世界が広がっている、そんな錯覚。

 いや、幻想的な景色は広がるんだ。視界が開けたかと思うとそこは、四方を山の斜面で囲まれている。竹垣が立ち、温泉が湧き、湯船を満たしていっている音が聞こえてきた。

 ふんわりと淡く香る硫黄の匂い。これが独特な温泉の香りを演出してる。


 立ち上る湯気に、ほのかに赤らんだ空。ああ、この感じ久しぶりだな。


 温泉の手前には、まだ瑞々(みずみず)しい色を残した、木造の小さな更衣室。そこへ飛び込んで、スパッと着ていた服を脱いでいく。

 で、生まれたままの姿になった僕。姿見の鏡をあまり見ないようにしつつ、ガラガラと引き戸を開けて浴場へ足を踏み入れた。

 石材で出来た床の、冷たく硬い感触が足の裏を伝ってくる、頬を撫でる暖かな湯気と、鼻孔をくすぐるまったりとした温泉の香り。

 そして何より、眼前に広がる、一人で入るにはあまりに大きな温泉。

 そう、ここの温泉は結構広いんだ。だからといって、色んな種類の温泉があるわけじゃないけどね。まんまるな形の湯船の簡素な湯船と、温泉が落ちてくる滝があるくらい。

 このシンプルさだからこそ、雄大な景観を味わえるんだ。


「とりあえず身体洗お、身体」


 僕は、ごきげんに鼻歌を歌う。石鹸で、体を丹念に洗って、流して、タオルを絞って風呂桶に入れてと……。

 さて、ようやくあっつい温泉に入るわけだけだ。でも、この琥珀色の温泉は熱い。43度、44度位はあったような。

 慣れてさえいれば、熱くないような温度だろう。でもこれがまた、外の気温で冷やされた身体にはこたえるんだよね。

 だからゆっくりと足の先から……と。


《アオオオォォォォォォォ――……ン》


 驚いて落ちた。豪快に上がる湯飛沫。すごく熱い。心臓が飛び出すかと思った。

 なんだよ、今のは。まるで狼の遠吠えじゃないか。

 山間に反響して耳に入ってきたそれは、とても犬の鳴き声とは思えないものだった。いやいや、狼ってまさか。日本に狼って今いるの? すごいよ、こんなそれらしい狼の遠吠え聞いたの初めてだよ。


「わぷっ……あ、熱いよ」


 勢いでもう、肩まで浸かってしまった。だから、あとはこの熱さが馴染むまでじっとしていよう。


「今のすごかったな。日本に狼ってまだいるんだ」


 いやいやいや、ちょっと待って、ここで冷静になっちゃだめだ。狼がいることに、僕は別段疑問はわかない。むしろとても嬉しいし、奇跡の出来事に直面したかのよう。

 でも、だ。この遠吠え、ここで聞こえたってことは、結構お客さんにも聞こえてるんじゃなかろうか。下手をすれば密猟者が現れるなんてことも……。

 

 いや、でも重ねてちょっと待って……眠い。


 突然に、その眠気はやってきた。 

 無意識のうちに、口元まで湯に浸かってしまって、視界はいつもの半分もない。

 まぶたが重たくて上がらない。

 暖かい温泉のせい? それとも旅の疲れが出たから?

 違う、このどうしようもない眠気は……。東京に居た頃は、とんと無くなってたからもうこの体質、治ったのかと思ってたのに……。


「だめだ……ここじゃのぼせるし危ない……」


 もうほとんど意識はまどろみの中。それでもなんとか湯船から出て、おぼつかない足取りで脱衣所へ向かって、扉を閉めた。そのあと、持ってきていたタオルを体に巻いて……そこまでは覚えてる。

 そこからは……もう、完全に、暖かなまどろみの中……。


 そして、僕は夢を見る……。


――……。


「お母さん、鯛、焼けたわよ」

「あらあら、中まで火は通ってるかしら?」

「うん、しっかり。他に手伝うこと無い?」


 買い出しから帰ってきた伊代は、夕食の準備をする母、千鶴の手伝いをしていた。八割がた準備は整っており、香ばしかったり、甘かったり、辛かったり。煮付けや、焼き物の様々な料理の匂いが、リビングを満たしている。

 

 千鶴は流石、旅館の女将だけあって、おっとりとした口調とは裏腹に、てきぱきとした動きで料理をこしらてしまった。一方の伊代はというと、次々と仕事をこなす母のフォローを着実にこなしていたのだ。

 家事については長く母を手伝っているおかげで、次は何をすればよいか、直ぐに判断をつけ動くことができている。


「そろそろちぃ君呼んできてくれますかぁ?」

「そうね、もう19時前だし、部屋に戻ってるか中庭にいるかしら」


 もう、流石に温泉からは上がっている時間だ、上がっていなければならない時間なのだ。外はもう暗く、まんまるな月も出てしまっているだろう。


 こういった言い伝えに関することに執着する千草のことだ。言い伝えで満月の夜の温泉に入ってはだめだと禁忌を定められているのなら、あの子が守らないはずがない。

 その認識に例外はない、はずだった。


「千草ー?」


 居ない。部屋にも居ないし中庭にも居ないし、まさかまさかの温泉にいるのかと中庭を抜けて石段を抜けてみてもちゃんと入浴禁止の札が立っている。


「どこに行ったのかしら?」


 ふと夜空を見上げてみると、そこには縁から灯りが漏れる雲の姿が。

 まんまる満月は隠れてしまっているようだ。



 昔から、僕にはおかしな異変が起こることがあった。

 簡単に言うと、突然眠くなってしまうというものなんだ。それがまた、我慢できるような代物じゃない。

ナルコレプシー症候群と言うものがあるよね? でも、お医者様が言うにはそういった病気じゃ無いらしい。

 なんで眠くなるのか、わからないんだ。例えるならそれは……そう、催眠術にかかったような状態。


 そうして眠った時は、決まって同じような夢を見る。

 白い、白い柔らかな夢を。


……。


「ふあッ」


 ふと意識が現実感を持ち、体に重みが戻ってくる。うつ伏せで寝ているからお腹や頬が冷たいよ。

 うう……まさかこんな時に寝ちゃうなんて……なんてこったい。


 タイミングが悪いなんてものじゃないよ。ほら、もう時計は七時回っちゃってるよ! 軽くレッドゾーンだよう……。


 とりあえずタオル巻いだけだったから少し寒い、体が冷えちゃってる。本当は湯に浸かり直したいところなんだけど、急いで出ないといけない。


 服を来て、僕は脱衣所から外へ出ようと引き戸に手をかけた……んだけど、開かない。

 建て付けが悪いのだろうか、まだ新しい扉なのに。


「ううううん」


 開かない。嘘だぁ、入って来る時はあんなにスムーズに開いてくれたじゃないか!


 他のところから出ようと思っても、この脱衣所の窓には木の格子が取り付けられていて出られないし……。


「こうなったら一度浴場の方へ出て女性用脱衣所から出るしか……」


 一瞬なら大丈夫じゃないかな、うん……なんて、思っていると浴場の方から音がした。


 ざばり、ばしゃり。持ち上げられた湯が湯船の湯に落ちる音。


 息をするのを忘れるほど、僕は驚いた。身体中の筋肉が硬直し、ただその音が空耳じゃないかと、何度も確認することしかできなかった。


 誰も入っていないはず、立て札もすでに立ててあるし。でも、お客様が間違って入っているってことは、ありえないとは言い切れない。僕が寝ていたのは男性用脱衣所だ。女性用脱衣所は素通りできるようになっていたし。


 でも、この体の芯を震わせるような緊張感は? そしてなぜか、この場を満たす不思議な空気感がもたらす懐かしさは一体……。


「もし、かして……いるのかな。銀色の狼、その神様が……」


 見てはいけないと頭ではわかっているのに、止められない好奇心。

 恐ろしいと記されていた、かつての神様の姿はそれはもうすごいものなんだろう。大きな大きな狼の姿をしているのか、はたまた別の何かか。


 どうせ、ここからじゃ出れないんだ。ずっと待っとくくらいなら……少しくらい覗いたって罰は当たらないんじゃないかな?


「いや、入り口が開かないんだ。もし浴場側の扉も開かなかったらどうしよう」


 ひたひたと浴場に出るための引き戸へ近寄って、取っ手に手をかけ少し力を込めてみる……と、少し動いた。驚くほどあっけなく。

 湯が落ちる音はまだ聞こえてる。覗けるくらいの隙間を作って、高鳴る鼓動を抑えながらぐっと息を止め、恐る恐るその隙間へ顔を近づけて……。


 淡く立ち上る湯気の中に、その後ろ姿を見た。


(銀色の……髪?)


 体毛、じゃなかった。狼だったらなんて思っていたから、髪であることに違和感を持ったんだ。おおよそ日本人とは思えない、艶やかに輝く銀色の長い髪を細くて白い背に這わせ、それを伝って湯の球が滴り落ちてる。


(それに……頭とおしりの……)


 小さな頭にツンと立った獣の耳。それに張りのある、形の良い、柔らかそうなおしり。その尾てい骨あたりからふわりと生えている、大きくて立派な、銀色の毛を持つ尻尾。


 その尻尾はゆっくりとだけど、左右に振られてる。明らかに、偽物の尻尾じゃないことが伺える。


(なんて……綺麗な……)


 今自分この世のものとは思えない、美しい幻想を見ている。その自覚がどんどん表層に出てきて、引き戸を閉めないととするけどどうも、そのあまりに妖艶な後ろ姿から目が離せなくなっていた。


 まばたきをすることも忘れて、その後姿を凝視してしまった。すると、彼女の頭の尖った獣耳がぴくっと動いたことに気がつく。


「ここに人間が来るのは久しいの……かかっ」


 足は向こうを向けたまま、腰を捻って肩越しに僕に見せた横顔。僕は逃げることすら忘れてしまうほど魅了された。悪戯な笑みを浮かべ、口角の上がった唇と、切れ長の目に覗く宝石のように紅い紅い瞳。


 やけに扇情的なその声は、優しく、蕩けるように僕を誘惑してきていた。


「そこで覗いておるのはわかっておるぞ……? くふふ、お前さんの視線で肌が焼けそうじゃ。ほれ、その戸を開いて顔を見せるがよい」


 頭がくらくらする。甘く囁くように誘うその言葉は僕の脳髄を溶かしてしまったようだ。出て行ってはいけない、これは禁忌なんだと考える思考もどこかへ飛んでしまっていた。


 ぼんやりとした頭でその戸を開けようとする、と。僕が開けるまでもなく、すごい勢いで引き戸が開く。僕の身体が、まるで強い磁力に引っ張られるかのように、浴場へ放り出された。


「うわわわ!」


 蕩けていた頭が、冷水をかけられたかのように引き締まり、意識がはっきりする。

 前につんのめりながら、僕は怪しく笑みを浮かべる全裸の獣耳お姉さんの前へ姿を晒してしまう。

 一方のお姉さんは僕がいるのに全く動じず、その美しい身体を隠そうともせず露天風呂から上がって、ここに入ってきた僕の前へ。


 息を飲むほど綺麗な顔立ち……とても豊かな胸と、薄く割れた腹筋にくびれた腰つき。牙のような尖った歯をにやけた唇からちらりと覗かせ、背の高い彼女は少し前かがみになって僕の顎に指先を当てて、顎を上げさせられ。


「うぬが何者かは知らんが、月が満ちる夜にこの場所へ入るのは禁忌じゃ。分かっておろうの……?」

「う、うん……ごめんなさい」

「くふふ、いんやぁ? 許せんなぁ。……さて、どうしてくれようか。このまま山へ連れて餌にしてもよいが……かか、やけに愛らしい顔をしておる。慰み者として飼い殺すのも良いかも知れぬ」


 相変わらず、艶っぽい色のある声でそんなことを口にする彼女は、本当に銀狼様なんだろうか。そんな疑問よりも言われていることが物騒で僕はなかなか正体を聞き出せずに……。


「うう、勝手に入っちゃってごめんなさい……僕、夜になる前にここに入ってて、それで寝ちゃって……」


 多分、怖さが好奇心に勝っちゃんたんだろう。声が上ずって、少し涙も出てきた。情けなく潤んだ瞳で、彼女を見つめて許しを請おうとすると……。


「ほう、よい、よいな、たまらんのう。くふふ……なんと儂の琴線に触れることよ。うぬは餌として食わず、儂が飼ってやろう。衣をひん剥いてその身体貪った時の嬌声が今から待ち遠しいわ……かかかっ」


 とても楽しそうに、愉悦からくる興奮に、表情を歪ませてそんなことを言う彼女。だめだ、彼女の中で僕の処遇は決まってしまってるらしい。多分、彼女は僕を連れて行く。どこかはわからないけど、もうここへは戻れないところへ。

 それは嫌だ。やっと僕はこの家に戻ってきたんだ。これから新しい高校にも通う。

 でも、だめだ。そこに僕の憧れた言い伝えがあるかも知れないと思うと、完全に拒絶する気にはなれない。


「あなたは……言い伝えの……神様なのですか?」


 ようやく言うことができた。ここに来て、変な躊躇いを持ったことが幸いした。自分の中でのはっきりとした道標を得るために、その質問を捻出することができた。


「言い伝え、のう。うぬの言うところの神、と言えばそうじゃの。この立派な尾と耳が見えんか? 誇り高き狼じゃ。それを聞いてどうする?」

「いえ、なら僕は本当に、何の疑いの余地もなく、禁忌を破ったんですね……。なら、なら僕は大人しくあなたについて行きます。銀狼様」


 そう言うと、彼女はたいそう冷めた表情を浮かべて、言った。


「ふん、何じゃつまらんの。もう少し虐めてやろうと――……ん?」


 ふい、と、視線が僕からズレた瞬間を見計らって、踵を返し全力で駈け出した。その突然の僕の行動に呆気にとられたのか、神様はあろうことか棒立ちで……。


 いやいや誰が大人しく付いて行くってんですか。帰ってきて間もないのに神隠しなんて笑えないし。


「あの壁さえよじ登れれば……!」


 脱衣所横の外から、中が見えないように立てられたその壁は、よじ登れないほどの高さじゃない。こうして勢いをつけてやれば問題なく登れるだろう。


 このままいければ、だけど。


 なんだろう、僕の走る足音以外に、犬か何かの足音が横から聞こえてくる。まだ遠いけど、それはとんでもない早さでこっちに向かってきてる事がわかる。

 ふと、横目にその姿を捉えてしまった。温泉周りに立てられた長い衝立の上。その、人では到底歩けないであろう強度と、細さのそこに飛び移り、こっちに向かって走ってきている……凛々しい犬。いや、狼。灰色の毛を持つ狼だった。


 その狼は衝立の上から僕に狙いをつけると、その細く不確かな足場を蹴って跳んできた。


「うぼっ」


 前足、両方の前足が僕の顔面を押さえつけるように直撃。衝撃で後方にすっ転び、危うく後頭部を硬い石の床に打ち付けるところだった。


『わうっ』

「いたたた……」


 あろうことか、僕より小さな動物に制圧されてしまった……。僕の顔面を踏みつけた狼は僕を威嚇することもなく、大人しく仰向けに倒れた僕のお腹の上に座ってる。


「ようやったの、汰鞠。まさか逃げ出すとは思わなんだ。かかかっ」


 倒れた状態のまま、上を見上げるようにして近づいてくる声の主を見る。神様は素っ裸で堂々と歩いてくる。あ、ヤバいこれアングルやばい。たまらず視線を逸らしてしまったけど、僕の頭上で彼女はしゃがみ顔を覗きこんできた。垂れた銀色の髪が僕の頬を撫でる。


「逃げても無駄じゃ。儂には優秀な子らが居るからの」

「うう……もう煮るなり焼くなり好きにして……」


 手も足も出ないってのは、こんな状況のことを言うんだろうか。あーあ、できればせめて最後に、母さんと伊代姉の顔を見ておきたかったな……。


『わう』

「うん?」


 と、神様と狼の様子が少し変わる。狼が僕の服のポケット辺りに鼻を這わせてすんすんと匂いを嗅いで、一度鳴く。それに反応した神様は何の躊躇いもなくポケットを弄り……。


「あっは! くすぐったいよっ」

「これ、大人しくせんと喰うぞ」

「ごめんなさい」


 で、そのポケットから神様が見つけたのは、僕が父さんにもらった御札だった。


 僕のポケットからするりと抜き出したその御札。それを、まじまじと見た銀色の神様は、その御札が何なのか察しがついたらしく。


「この札は……つかぬことを聞くが、うぬ、柊京矢を知っておるか」

「えっ、なんで父さんの名前をっ?」

「ぬ、父とな」


 えっ、えっ? なんだか風向きが変わってきたぞ? 何故か目の前の神様は僕の父さんの名前を知っていて、僕がその息子だと知ると途端に様子が変わってしまった。


「うぬ、京矢のせがれか?」

「う、うんそうですよ?」

「ほう……、ほう、うぬが……、かかかっ! そうか、そうかそうかうぬが京矢のせがれか! 匂いも見た目も似つかんからわからんかった!」


 急に大人しくなったかと思うと、快活に笑い出す始末。僕が父さんの息子だったら何なんだろう。


「くくく、脅かしてすまんかったの。まさかうぬのような愛らしいのがあやつのせがれとは。この札はあやつから預かったのじゃろう? ん?」


 僕が誰なのかわかったっていうのに、彼女はタオルも巻かず全裸のまま笑いかけてきて、ずいずい寄ってくる。


「これは父さんから預かりました。でもなんで父さんを知ってるんですか?」

「うん? 京矢とはよくここで酒を呑んでおった。まぁ、呑み仲間じゃな」


 ええええ!? 父さん神様となにしてるんだよ!! その神様は楽しげにお尻の尻尾をふりふりと左右に大きく振りながら僕に背を向けてもう一度湯船の方にぺたぺたと歩いて行って、ザパリとお湯に浸かってしまった。


「ほれ、ぬしも衣を脱いでこっちへこんか。身体が随分冷えとるじゃろ?」

「でも僕男だし……」

「かかか、細かいことを言っておるでないわ。風邪をひいてはいかん、早くせい」

『わうっ』


 神様に急かされて、足元の狼さんに吠えられて。僕は、脱衣所でそそくさと服を脱いだ後、タオルを巻いて湯船に直行した。

 そして、言われるがままに神様の隣にしゃがんで、暖かな湯を堪能……できるか! ヤバいすさまじいスタイルのお姉さんが、獣耳尻尾の銀髪お姉さんがすぐ隣にいるのに落ち着いて温泉に入れるわけないじゃないか!!


「なんじゃ、随分緊張しておるな。口まで浸からんでもよいじゃろ」

「流石にこの状況で緊張するなと言われるのは無茶ですよ……」

「ふむ、まあよい。それよりもこの札じゃがな」


 ぺらりと僕の前に差し出してきた赤い御札。それを……。


「ぬしの手で破って欲しいのじゃが」

「や、やぶっ!? それ父さんが遺したものなんだけど!」

「そうするために、奴はぬしに持たせたのじゃ。そうすることで儂は京矢との約束を果たすことができるようになるでな」


 元々僕に破られるためにこの札はあったのか? それに、父さんとの約束って……。でもまあ言うとおりにしてみれば何が起こるだろう。渡されたその御札を、僕は急かされるままに思い切り良く真っ二つに破ってしまった。


「こ、これでいいんですか」

「うむ、よい。見事封を破ってくれたのう」


 その破った御札を、彼女はその艶やかな唇で挟む。すると、おもむろにパクリと口に入れて、ゴクリと飲み込んでしまった。そんなものを平気で食べてしまう辺り、彼女は本当に人では無いらしい。


「何の封だったんですか?」

「儂を山と祠に封印しておくためのものじゃ。月の満ちる夜だけ、ここへ来ることができるがの。まぁなんじゃ、これで儂は自由の身になったわけじゃが」


 えっ……その封印って破っていいものだったの? 祠に封印ってことは、この神様が恐ろしい神様だから封印していたってことだよね。


「くふふ、ぬしが何を考えておるのか丸わかりじゃ。コロコロと顔色がよう変わる。わかりやすくてよいの」

「うう……」

「安心せい、儂も随分丸くなった。よほどのことが無い限り暴れたりせんわ。それよりじゃ、この封をぬしが破るのは京矢との約束じゃった。そして、その封を破るかわりに頼まれたことがあっての」

「頼まれたこと?」

「そう、奴は最後にここに来た時こう言った」


“君を縛る封印を解く、その代わりひとつ約束して欲しい。僕が、この世を去った後、僕の大事な息子の面倒を見てやって欲しいんだ”


「とな」


 父さんが何故、そんなことを彼女に頼んだのかはわからない。でも……。


「かかっ、律儀に守るような約束事でもないのじゃがな。しかし、儂も今の人の世には興味がある。それに封が解けるのは魅力的じゃ」


 銀狼様はそう言いながら立ち上がる。その筆舌に尽くしがたいほど美しい肢体に、釘付けになってしまった。うっすらと割れた腹筋が、彼女の狼らしさを際立たせているみたいだ。彼女は、むっちりとした太ももで、湯をかき分けながら浴槽の中央へ歩いて行った。


「ふふ、この稀有な出会いも何かの縁じゃ。儂は京矢の言葉通りこの永き命、ぬしのために使うてやろう」


 と、銀狼様は高く上がったまんまるお月様を仰ぎ、高笑いした。僕はその神秘的な光景にただただ圧倒され続けていて、しばらく呆けていることしかできなかったけど。


 彼女はそんな僕を愉快げに一瞥し、湯船から出てお付の狼さんを呼ぶ。その狼さんの背には黒い着物と、その上に絹で出来た、いわゆる僕達の言うところのバスタオルが。

 いやいや、タオルが絹ってどういうことなんだと。一瞬、帯かと思ったけどぜんぜん違うようで。湯でしっとりと濡れた、白く柔らかそうな珠肌をさらりと拭きあげた。そのあと、何の神通力なのか、その着物と腰帯を浮かせて纏ってみせた。

 

 最後にまとめあげた髪を簪で留めて。


 それにしてもきれいな着物だ。少し厚い黒い生地に銀色の刺繍が施されてる。まさに神様が着るにふさわしいものなんだろう。でも少し着崩して胸元は大きく開いてる。胸がとんでもなく大きいから見える双丘の谷間も相当な深さがある。

 まるで花魁じゃないか!


「あの……下着は」

「下着? あの無駄な胸当てと、股ぐらの布のことかの? いらぬ。鬱陶しいだけじゃ」


 って、つけないはいてない神様なんだよ銀狼様って……。



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