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第10節—死角の世、肌を曝け出す狼“お姉さん(仮)”—

「この姿では、初めましてでございますね。昨夜は突然飛びかかり、失礼いたしました。銀狼様に仕える汰鞠と申します」


 灰色の髪の上に、銀露と同じく獣耳を生やした、僕より年上に見える、落ち着いた女性がそこにいた。左側だけやけに長い前髪で、片目は隠れてしまっているけれど。とても整った顔をしているのがわかる。

 

「た……汰鞠ってその、狼だったあの汰鞠?」

「はい、少しお待ちを」


 頭に疑問符だらけの僕を置いてきぼりにして、汰鞠は着物をするりと脱いで、白く滑らかな上半身を露出させる。

 

 固。


 置いてきぼりにされたと思えば、陶磁器のように艶やかな肌を露出させて。僕は、そのスラリとした腰のくびれに魅せられ、完全に固まってしまった。下に降ろされた着物が漂わせる甘い匂いに、胸が高鳴る。おっぱいは、銀露に比べれば控えめだね!

 視線は汰鞠の裸から逸れるどころか、釘付けになってるし。汰鞠はというと、そんな僕を見てなにが面白いのか慎ましやかに笑ってて……。


「ふふ、この背にあるあざが証拠となりましょう?」

「あ! まんまるの模様……」


 くるりと背を向けた汰鞠。そこにあったのは、狼だった汰鞠の体に現れていた、まんまるの白い模様と同じ。まんまるな形をしたあざだった。


「汰鞠と同じ模様だ。じゃあ、本当に汰鞠なんだね」

「はい、ようやくお話できましたね、兄様。汰鞠は嬉しゅうございます」


 そう言って、落ち着いた黒の着物を再び纏う彼女は、淡い微笑みを浮かべてくれた。

 なんだろうこの安心感。全く知らない……というか、現実なのかどうかも疑わしい場所にいるというのに、目の前の汰鞠の頼もしさにほっとする。


 汰鞠が言っている、嬉しいということも嘘じゃないようだ。後ろに見える尻尾は、可愛らしく大きく振られてる。もふもふとしたボリュームのある尻尾の毛と、着物が擦れて音がするほどに。


「ここはどこ? 見た所、さっきいた祠の前じゃないようだけど……」

「ここは銀狼様のお屋敷でございます。祠はあくまでも門でしかございません」

「お屋敷……は見えないけど」

「銀狼様がご不在のため今は屋敷を雲で隠しております故……」


 んん、なるほど、セキュリティってところかな。それにしても流石は銀露の住む世界。常識が一切通用しねぇや!! 


「で、どうして汰鞠が人の姿に? 化けてるってことでいいのかな……」

うつつに生を受けております身でありながら、わたくしは神の遣いを担えるほど神気が高く、こうして“死角の世”では人の姿を取ることができるのでございます」

「そうなんだ……。死角の世っていうのは?」

「現の者が本来目を向けない、向けられない場所。現世うつしよにとって死角となっている現世うつしよ。それが死角の世でございます」


 現世にとっての死角……ってことは、ここは別にあの世とか、全くの別世界ってわけでもないのかな。

 ちゃんと現実にあるけど、そこは人の目、動物、もっと言えば、生命のある何かしらがまったく目を向けない場所にあるところ……。

 と、いうことは、だ。この死角しかくの世という世界と現世うつしよというのはそんなにかけ離れた存在ではなく。

 目を向けようとすればちゃんと観測できる場所、行ける世界だということなんだろうか。

 

「ああ! そうだパンツ!!!」

「ぱんつ……でございますか?」


 突然僕は下着のことを思い出し、口に出し言ってしまった。それを聞いた汰鞠は、ピンと耳を立ててから首をかしげる。

 うわあ、なんだかとても品があるというか、愛らしい挙動なんだけど、いちいち気品が漂うなあ。

 そんな気品漂う汰鞠に、ぱんつとか言わせてしまうなんて……ありだと思います。


「そう、僕の下着をなんで汰鞠が持ってたの? 銀露からもらったもの?」

「はい。銀狼様が目付役になる人間の匂いを、仲間たちに知ってもらう必要があったもので……。失礼ながら、ご自宅に伺わせてもらいました際に、銀狼様からお預かりいたしました」


 仲間たちに知ってもらう必要が……か。わからないでもないか。狼の頂点に君臨する、とも言えるだろう銀露が、どこの馬の骨ともわからない人間と、一緒にいることになるんだから。そりゃ一緒にいる人間のことは知らないとだもんね。


 でも……そうか。


 汰鞠、僕のぱんつ口でくわえてたなぁ……。


兄様あにさまわたくしの顔に何か?」

「ううん。なんでもないよ」


 しまった。汰鞠の艶やかな唇に目を奪われてしまっていた。でも大丈夫、僕の目これまでにないくらい綺麗に澄んでいたから。聖人みたいな目をしてたはずだから。

 ……小さな口が開くたびに見える、鋭く尖った牙が見えるたびになんだか、僕の煩悩がいましめられるみたいだ。


「そっか、じゃあ今日、山道に出てきてくれたのも、僕の匂いがしたからなのかな?」

「そうなのですが……。本来ならば、山道へは立ち入らない決まりになっているのですが。妹の子鞠が、兄様の匂いがすると、ふらふら出て行ってしまいまして」


 あの子には困ったものでございます。なんて言いながら、お耳をたたんでふぅとため息をつく彼女は、とても色っぽい。

 片目が隠れてるからか、すこしミステリアスな雰囲気も……。銀露のように、後ろで髪を束ねてるけど、解けば長いんだろうなあなんて。髪を解いた時のギャップを想像しつつ。


 でもなるほど、人が通る可能性のある山道に出てきていたのは、子鞠が原因だったのか。

 子鞠といえばあの小さな幼い狼だよね……?

 かわいい子狼だったな……。汰鞠がひょいひょいと山道を登って行くのに対して、歩幅が狭い子鞠は必死に早く足を動かして頑張ってたっけ。

 

 途中、滝で休憩をとったのも、子鞠が汰鞠に対して遅れ気味になってたっていうのもあるし……。

 

 あれ、そういえば汰鞠はここに来て人の姿になってまで、僕を迎えてくれたわけだけど。一緒にいた子鞠はどうしたんだろうか。


「そういえば子鞠はいないの? 汰鞠と違って人の姿になれないとか……」

「子鞠ならば兄様あにさまの後ろにおりますよ」

くう……! また僕は、知らないうちに背後を取られていたのか!

 確かに言われてみれば、何者かの気配はする……。意を決して僕は、体ごと後ろに振り返ると……。


「んん? だれもいない、けど?」

「ああ、申し訳ございません。まだこの子は人の姿が恥ずかしいらしく……。動かぬよう言い聞かせますので少しお待ちを」


 どうやら、僕の振り返りに合わせて、子鞠が汰鞠の方へ移動してしまったということらしい。けど、素早いにもほどがある! 僕が汰鞠の方から後ろ向くまで、1秒とかからなかったはずなのに!


「お待たせしました。もうこちらを向いていただいてもよろしいですよ」

「ではでは」


 汰鞠に言われるがまま、もう一度振り返る。


 と、苦笑いする汰鞠の後ろ。正確に言うと、汰鞠の腰あたりから獣耳がぴょこんと片方覗いているのと、太ももあたりを握る柔らかそうな小さなおてて。


「子鞠、出てきて挨拶なさい。あなたにおかしなところなど一つもありませんよ」

「……あにさま、こまり見て笑ったりしない……?」

「兄様はよくできたお方……だと思います。笑ったりはしませんよ」


 真ん中の間はなんなんだろう。いや、そりゃまだ会ったばかりだし、話したのなんてついさっきだし、そりゃ間が空くのはわかるけど……。まさかさっきの、僕の煩悩が見透かされてのことだったのか……!?


「笑わないよ、子鞠。僕にお顔を見せて」

「う……おねえちゃん……」

「早くしないと兄様は帰ってしまいますよ?」

「あにさま帰っちゃやだ……」

「なら早く顔をお見せなさい」


 汰鞠の語彙が少し強くなったところで、汰鞠の太ももの辺りを握っている、子鞠の手にぎゅっと力が込められたのを見た。僕は、自分の拳まで強く握ってしまっていることに気がつく。

 思わず力がこもっちゃったんだろうな。なんだか知らないけど、恥ずかしがっている子鞠が、一生懸命僕の前に出ようとしているのを見て。


「……!」


 汰鞠の後ろに隠れている子鞠が片目を覗かせた! くりくりっとした淡い碧色の目。灰色の髪は癖っ毛なのか、ぴんぴんと横跳ねしちゃってるのがわかる。


 でもそこまで。目がピタッとあったかと思ったらそこで止まったままに……。


「子鞠、失礼でしょう。早く出てきなさい」

「あにさま……あねさま……???」

「……僕、男だよ、あにさまであってるよ」


 止まったのは僕が本当に、あにさまなのかどうかわからなくなったからか……。

 小さな子は純粋だから気を遣ったりすることがないし、言葉もストレートに心に突き刺さるなぁ。


 で、僕があにさまだってちゃんとわかった子鞠は、恐る恐る汰鞠の後ろから出てきて僕と向かい合った。


 簡単に言うと、おかしなとこなんて一つもないし、笑いどころなんてないはずだった。

 

「えへ」

「……?」


 それでも顔がにやけてしまった。尻尾でまくようにして持っていた、赤や金の刺繍が目立つ、まんまるな鞠を両手に抱えるようにして。ちらちらと、不安げに上目遣いでこっちを見る仕草のいじらしさがなんとも可愛かったから。

 そしてふわふわな髪の毛と、小学三年生くらいの、幼く小さな体躯に振袖姿といういで立ちに、心を打たれたというか射抜かれたというか……。

 とにかく愛らしさで胸いっぱいだったから自然と笑顔が……。


「……」

「笑ってないよ! 子鞠があまりにも可愛いから……その、悪い意味で笑顔になったわけじゃないからね!」


 子鞠の横一文字に結ばれたお口が、不満げに三角形に! でもとっさのフォローで、その不満が、疑問符になった。あれ、子鞠にわかってもらえなかったみたいだ。汰鞠がそこで子鞠に、挨拶をするよう促すと、子鞠は……。


「こまりだよー……?」

「初めまして、子鞠。僕は柊千草っていうんだ、よろしくね」

「うん……!」


 元々が人懐っこいのか、僕に近寄ってきたかと思うと、鼻を近づけて僕の匂いを嗅いだ。その後、顔を上げて、それはもう太陽のような笑顔を見せてくれた。


「あにさまいいにおい……」

「そ、そうかな?」


 頭の小さなお耳を小さく何度か動かして、ご満悦の子鞠。僕はその頭に、恐る恐る右手を乗せて、頭を撫でてあげてみた。少し体温が高いのか、暖かい。そして、柔らかい髪の毛に獣耳。

 うわあ、いいなあ、子鞠の頭いいな。銀露はもちろん、汰鞠も頭撫でさせてくれそうな感じがしないんだけど。子鞠ほど小さな子なら、なんの抵抗もなく撫でさせてくれるんだな。


「んんー……っ」


 それにとても心地良さそう。なるべく頭のお耳には触れないようにしないとね。銀露が触られるの嫌がるってんだから、子鞠にとっても嫌なはずなんだ。


「その綺麗な鞠は子鞠のなのかな?」

「こまりの……」

「そうなんだ。鞠なんて実際に見るのは初めてだけど、雅な感じがするよね」

「みやび……、こまりよくわかんない」


 子鞠は小さく首を傾げて、その仕草に萌えまくっている僕の表情は、とろけまくってるんだろう。もう自分がどんな表情してるのか、ちくさよくわかんない。


「兄様、少しよろしいでしょうか」

「ん? どうしたの、汰鞠」


 子鞠とお話ししている最中に、汰鞠は僕に話したいことがあるようで、子鞠を後ろに下げた。


「兄様をここにご案内したのには、理由があるのです。一つは、わたくし共の姿を知っていてもらいたいがため。そして一つは、死角の世がどのようなところか知ってもらいたいがため。そして最後の一つは……、この死角の世の危険性を、分かってもらいたいためでございます」

「危険性……?」

「はい。兄様、生を受けるあなた様にとってこの世界は珍しく、儚く、そして刺激のあるものに見えるでしょう。しかし、ここはいつ何が起こるかわからない、危険な一面を持つ場だということ。努努ゆめゆめ忘れぬよう、お願い致します」


 危険な一面……、そう。今まさにそのなんらかの危険に対して、対策されているのが目の前にあるじゃないか。

 銀露のお屋敷だ。銀露がいないから、雲で隠す……ってことはだ。つまり、銀露のお屋敷に危害を加える何がしかがあるということなんだ。

 それがなんなのかはわからないけれど、この死角の世は、現世とはまた違った意味での危険を孕んでいると……。


「この死角の世は、現世のことわりから外れた者が多く流れこむ場でございます。死してなおこの世に執着し続けるもの、様々な歴史の記憶。悪戯者の魑魅魍魎など、決して触れてはならぬものも沢山ございます。そのほとんどは、神格化された銀狼様、その他の様々な神にとっては、なんでもないようなことなのですが。しかし、我々のように現世で生を受けている者にとっては、悪影響を被ることが多々ございます。この死角の世のみならず、現世でも。かつて、銀狼様が村を荒らしていたように」


 言い伝えのことか……銀露もまた、死角の世に住む理から外れた者、なんだろうな。それは神様になっても同じことなんだろうか。

 汰鞠は真剣な顔でそこまで言うと、少し怖がっているような、考えごとをしているような、僕の心中を察したみたい。

 打って変わって、穏やかな表情に戻り……。


「脅しているわけではありませぬ。そう構えないで下さいませ」

「あ、うん……ごめんね。でも僕も。今言われたことについては考えさせられたんだ。こんな、幻想的な世界があって、ここ以外にはどんなところがあるんだろうって、そんなことで頭がいっぱいだったから」

「兄様は珍しいお人です。このような理解しがたい場所へきてしまえば、取り乱すが世の常でございましょう。取り乱すこともせず、人の姿をとった我々と向き合っても、興味と歓喜の色しか見えませぬ」

「そうかな、あはは。でも驚きはしたよ」


 幻想的な、世界への憧れは人一倍強かったから。だからこんな世界があるんだって知って、浮かれることしかできていなかった。


「兄様のその、懐の深さは好感が持てます。わたくし共に対して、兄様に興味を持ってもらえれば、お話が早いので」

「そりゃあもう、興味津々だよ。でも、汰鞠に言われたことはちゃんと、心に留めておくね。危なそうなことがあったら、近づかないことにするよ」

「それが……いえ、そうですね。これ以上は、あまり私が口を出すことではありませぬ」


 兄様には、銀狼様の加護がございますので安心でしょう。そう言って、汰鞠は笑みを浮かべる。汰鞠がそう言うのだから、銀露は本当に頼りになる存在なんだろうな。


「兄様、そろそろ日が傾いて参ります。沈んでしまえば、この辺りは危険でございますので……」

「そうだね、そろそろお暇させてもらおうかな」

「ああ、そうでございます、兄様。これを銀狼様にお渡ししていただけますでしょうか?」


 そう言って、汰鞠が差し出してきたのは、大きな陶器。壺のようなものだった。ずしりと重いそれを受け取ると、水が跳ねる音が中から聴こえてくる。

 

「これは?」

「酒瓶でございます。中に入っているのは、銀狼様が好んでお飲みになられている霊吟醸酒でして……。この酒瓶を銀狼様にお持ちするのは、私共にはできませんので助かります」


 んん? まだ持って行くと決めたわけじゃないんだけど! ちがうんだ、持って行ってあげたいのは山々なんだけど、これ結構重くて……。持ったまま問題なく、山を降りられるか心配なんだよね。


「あにさま」

「なにかな、子鞠」

「ありがとー……!」


 屈託のない笑顔で、僕の腰に飛びついてくる子鞠。ぴこぴこと跳ね頭の耳が、腕に擦れてくすぐったい。

 

「はは、こやつめ」


 うん、重いとか、そんなの知らない。頑張ろう。僕は意外とゲンキンな野郎だった。


「では兄様、ここから出る際は、決して後ろを振り返らぬよう御願い致します」

「振り向いちゃダメなの?」


 見送られる時、後ろを振り向いて見送ってくれている人に僕は、高確率で手を振り返すことをする。東京のおじいちゃん、おばあちゃんの家から出て行くときもそうだったから。


「ここを出るには出口へ向けて、まっすぐ歩いてもらう必要があるのです。この雲の中では、その中から出ようとしている者が、一度でも出口から目をそらすと、もう一度出口へ進路をとるのが難しくなるのです」

「うわ、そこまでしっかりしたセキュリティだったんだ……」

「あにさま、せきゅりてぃってなあに……?」

「危ないものから、大事なものを守るもののことだよ」


 そか……。なんて、口足らずな感じで言いながら首を傾げているところを見ると、理解できていないんだろうなあ、なんて。


「じゃあ、僕はもう行くね。ここを真っ直ぐだっけ?」

「はい。必ず、まっすぐ進んでくださいませ。振り返ってはいけませんよ」

「うん、またね、子鞠、汰鞠」

「お気をつけて」

「ばいばいあにさま、またね……!」


 僕は二人に背を向け、出口だと言われる方向に歩き出した。

 右手には銀露の酒瓶。中にまだお酒が入っているからか、やっぱり重い。歩くたびにチャプチャプと揺れてくれるから持ちにくいし。


 淡い光の球が飛ぶ、真っ白な雲の中。なんだか空を飛んでいるような感覚になってくる。まっすぐ向いているとはいえ、今自分がどこを歩いているのかがわからない。肌にまとわりつく湿った空気。足元は砂利道で、歩くたびに小石が踏まれてこすれ合う音が鳴る。


 まっすぐ、まっすぐ、まっすぐ。進んでいれば、いつの間にか山に出ているはずだ。


「まっすぐ、まっすぐ……」

《へくしッッ!!》

「うわあお!!」


 突如聞こえてきた大きなくしゃみの音! ただでさえ、周りが見えなくてビクビクしてたんだ。そこに、不意を突くようにして後ろから聞こえた小さな女の子のものと思われるくしゃみ。


「……あっ」


 後ろを振り向いてしまった。まずい、ダメだって言われていたのに……。

すぐに向き直ったけど、これ3秒ルールとか適用されるんだろうか。


 足の向きは幸い変えてなかったから、このまま進めば向かっていた方向なんだろうけど……。

 振り向いた直後に感じためまいが、もう手遅れだということを物語っていたのかもしれない。


……−−。


「まだ兄様がいるというのに、くしゃみをするなんて……。後ろを振り向かれていたらどうするつもりなのですか?」

「ごめんなさい……こま、くしゅんしちゃった……」

「もう、仕方のない子ですね。しかし心配です。兄様は、無事に出られましたでしょうか。お屋敷に戻り、様子を伺いましょう。銀狼様の寝所のお片づけはまた明日です」

「うん」


……−−。


 心の中で、ずっとまっすぐと唱えていると、何がまっすぐでなんでまっすぐなのかわからなくなってくるな。

 足元がふらついているような感覚もあるし、地面がなんだか、柔らかな綿みたいだ。

 自分の体が浮ついてるのか、本当に地面が綿になってしまっているのか、もうわからなくなってきた。途中から、自分の息づかいと酒瓶の中で跳ねるお酒の音しか耳に入ってこなくなった。


 前後不覚になる直前、さっきまでの周りの見えなささが嘘みたいに霧が晴れてきてた。地面が固く、踏み心地のあるものへと変わる。

 太陽の明かりをその目に収めた時、どこかへ行ってしまいそうだった僕の心は、しっかりと自分を取り戻した。


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