第1話 何かおかしい
生まれて初めて外に出た。
(冷静に考えれば、重力によって引っ張られている方が下だろう。なら、それとは反対の方向が地上だ)
土から出て虫の目で初めて見たこの世界に驚く。
まず、物が凄く細かく見えるのである。これはきっと、自分の複眼の性能が良いためだろう。
次に、周りの物が大きい。地面の上に落ちている葉っぱも、その葉っぱを生い茂らせている木も、とても大きい。当然と言えば当然なのだろうが。
(これが、昆虫の眼で見る世界か……)
感動から声を上げようとしたが、その代わりに「ギィギィ」と、腹から金属をこすり合わしたような音が聞こえた。
現在、自分は土から這い出た後、近くにあった木に登り、張り付いて待機している状態だ。なぜ待機しているのかと言うと、前羽が真っ白だからである。これが硬くなるまでは下手な動きが出来ないので、自分の体のことを観察する。一言で言うなら、ゴホンツノカブトのオスである。ただ、所々大きく違うところがある。
まず、口がカミキリムシとカマキリの口を足して二で割り……切れ無い、良く分からない形になっている。
これは、自分が雑食性の昆虫になった。ということなのだろうか? それとも、木に傷を付け、そこから樹液を舐めるタイプの虫なのだろうか。
個人的には、何でも食べることのできる前者の方が嬉しい。が、全体の外見からすると後者なのだろうな、と考える。
次に角の形がおかしい。まず、頭の角はあまり長く無い。といっても、他の角と比べてだが、まっすぐ真正面に向かって生えている。そして、何と言うのか……両刃の刀としか言えない、よく分からない形になっている。
そして、前胸部にある四本の角だが、コーカサスオオカブトのごとく長い上、すべて根元の部分に間接があり、動かすことができる。
外側の二本の角は、閉じる方向では、前方でぴったり合わせることができる。開く方向では、大きく開く事ができる。カブトムシの角、と言うより、もはやクワガタムシの大顎と化している。
内側にある二本の角は、斜めに生えているせいなのか、開く方向にはあまり動かない。しかし、閉じる方向には思った以上に動いた。外側の角が閉じた時の合わせ目のところまで動き、それ以上にまで下げる事もできるようだ。
そして、当然というのか必然と言うのか、五本の角は真正面で綺麗先端を合わせる事ができた。きっと、はたから見れば槍のような……いや、カブトムシサイズだから、矢じりのように見えるだろう。
次に、胸の外側と内側の角の間にも、どうやら複眼があるようだ。なぜそう思ったのかと言うと、真横が見えたからである。
さらに背後も見えた。と、いうことは、多分胸の真ん中にも複眼のようなものがあるのだろうと思う。
ちなみに視界は、パノラマビューのように見ることも出来るし、頭の複眼だけでじっくり見る事もでき、更にはその複合と言うのか、全方位が見えている。と、言うような(本当に自分は生き物か?)と思うような事ができた。しかも、それらを一切違和感なく変える事ができる。
ざっと見ただけで、これだけ色々おかしなところが見つかった訳だ。
(さて、本当に自分は虫なのだろうか? そもそもこんな生き物が地球上にいるのだろうか? ……そうだ。何かおかしいと思っていたんだ。何故だか残っている記憶……いや、知識か。そこから判断するに今、自分がいるところは、自分のような大型のカブトムシが居るような場所に生えている樹木がないんだ)
自分がしがみついている木をもそうなのだが、ここにある樹木は寒い地方。つまり、カブトムシはおろか、昆虫をはじめとした虫が生息していない地域に生えていそうな樹木ばかりなのである。
しかし、熱帯のような暑さも寒冷地のような寒さも感じない。これに関しては、自分が虫だから感じないだけなのかもしれないが、何が何だか分からない。そうやって、見えるものについて考えたりしているうちに、前羽が他の甲殻と同じ色になった。
(よし、考えていても仕方が無い、そろそろ行動しよう。まずは、自分の生態を見極めなければ。最初は食糧だ。この口で今しがみついている木に傷をつけて樹液を舐めるのか、それとも、木の樹皮そのものを食べていくのかを判断しよう。所詮、自分はカブトムシ、食べ物さえ確保できれば、あとはなんとでもなるはずだ)
まずは、ひと齧り。と、自分は止まっている木に齧りついた。なんの抵抗もなく、木は小さな破砕音をさせながら砕けた。
(なるほど、樹皮はこの顎で砕く事ができる。と言うか、飲み込んでしまった。となると樹木を直接食べるのか? いや、早合点はいけない。とりあえず、樹液が出るまで齧ってみよう)
齧っている内に気がついたのだが、この辺りの木にも、光る何かがあるのが見える。そう、土の中で見えていたあれである。
つまり、そこに向かって齧っていけば、今の目で確認できるという事で、つまりは土の中で食べたものが何か分かる。と言うことだ。
それに齧っている間に樹液も出てくるのだが、すぐに止まってしまうので、どちらにしてもどんどん齧っていかなければならない。
(何を食べていたかも気になるので、ソレを掘り出せるように齧っていこう。きっと、死ぬまでには見る事ができるだろう)
と、考えて齧り続けているうちに、周りが明るくなっていくのを感じた。そろそろ夜が明けるようだ。
(日中は外敵に襲われやすいだろうし、ひとまず土に潜って寝よう。空腹感は無いし、一応食事は終えているから、大丈夫だろう)
そう自分は考え、齧った木の根元に潜り、寝る事にした。
---------------------------------------------------------------
何故か夜になったと感じ、目が覚める。すぐに地面から這い出て周りを確認する。外は真っ暗になっていたが、何かが居て暗くなっているだけの可能性もあるためだ。だが、特に何もないので、昨日齧った木に登る。すると、登ってみると不思議な事があった。なんと、昨日齧った傷が殆ど消えてしまっていた。
(あれ? 登る木を間違えたかな?)
そう思ったが、そもそも、その齧った木の根元に潜り込んだので、間違えるはずが無いのである。
(傷が治った? にしては早すぎるし、綺麗に治りすぎている。木を間違えた? それとも木が移動した? いや、まぁただの自分の記憶違いかもしれない。けど、周りにそれらしい木もないしなぁ)
疑問に思いながらも、探しても見つからないので昨日と同じように齧る。そのうち、夜が明けそうになってきたので、今度こそと、根元に印を付ける意味でも深く齧ってからその場に潜って寝た。
---------------------------------------------------------------
さて、目が覚めて、地面から這い出し、印をつけたはずの木を見れば、綺麗さっぱり消えており、まさかと思って昨日と同じように木に登ってみると、やはり傷は無かった。
しかし、印とは違い今回は辛うじて跡のような物は残っていた。なので、今日はその跡の部分を齧っていった。そして、そこそこの深さまで進んだ頃、夜が明けそうなので、土に潜り寝た。
---------------------------------------------------------------
齧っては土に潜って睡眠をとり、次の日また齧っては潜る。そんなふうに、一週間ほど過ごした。
(流石におかしい。二日目まではまだ分かった。もしかして、木を間違えているのか? とか、それとも登る場所を間違えた? なんて考えた。だけど、流石に三日目でそれはあり得ないと分かった。跡のような物が残ったからだ。四日目に同じ場所に行けば、同じように跡が有った。そこで、自分は同じ木を齧っている事を確信した。
しかし、その後三日間ずっと同じ木の同じ場所。つまり、跡が有った場所に齧りついていたにもかかわらず、大きな跡をつける事ができない。と言うのはおかしい。いくら、光る場所に着くまで時間がかかると考えていても、それは木に何かしら、傷でもなんでも、何か自分がやった。という証拠のような物ができなければやる気がでないし、腹も立つ。なんというか、努力を無駄にされた気がする)
そんな、いら立ち交じりの、完全に八つ当たりで、木に頭の角を叩き付けた。
そもそも、カブトムシの角は他のカブトムシを掬い上げて投げ飛ばすためのものだから、木に傷が付くなんて期待していなかった。
それに自分の体の構造的に、頭の角が木に当たるとは思っていなかった。だが、叩き付けた角はスッと一切の抵抗もなく、木に刺さった。
(なんの抵抗もなかった!? この角の鋭さはおかしいだろ! それよりも、そこまで曲がるのか、この頭は!? と言うかこれではもし、この木より相手の甲殻が柔らかかった場合、縄張り争いの際に相手をほぼ確実に殺してしまう。
いや、別に相手を殺してしまうのはいい。だが、それならそれで、自分が同種族と争った場合危険だ。なにせ、相手も自分と同じような角を持っているのである。
そんな存在と争った場合、最悪自分は殺されてしまう。そんな事にならないよう、うまく立ち回らねば……ところで、もしや他の角も同じような鋭さをもっている。なんて事は……ないよな?)
そう考え、他の角を木に刺し入れた所、これもまたスッと入り込んでしまった。
(なるほど、なるほど……道理で地面に潜る時簡単に潜れるなぁと思っていたんだ……。これは、同族とは出来るだけ会いたくないなぁ……なんだよこの鋭さ、間違いなく自分も危険じゃないか。いや、でも今は助かる。とりあえず、これでどんどん進んでいこう)
もしもの事を考えても仕方がないので、目的の光る何かに向かって頭、胸、角をうまく動かし、体全体を、まるで手のように使って木をえぐりながら、たまに齧りつつ、樹液を舐めつつ、進んでいった。
途中(あ、これ齧ってるだけだったら角が引っかかってどっちにしても無理だったか)等と間抜けな事を思いながら、齧っている時とは段違いのスピードで木を掘り進んだ。
そうしてある程度掘り進んだところで、一晩で木の傷が治っていていた秘密を発見した。自分が完全に木に入り込めるほど進んだところで、後ろがドンドン塞がっていくのだ。
(ありえないだろ……。これは、見つけたらさっさとどうにかして出ないと、木に閉じ込められてしまう……だけじゃなくて、飲み込まれてしまうな。木なのに、食虫植物みたいな能力を持っているなんて、どんな土地だよ、ここ)
そうこうしているうちに、光る何かにたどり着いた。多分、抉っていった感じと木の太さからして、丁度、木の中心部にある場所なのだろう。見つけた光る何かは、ドクンドクンと、脈打つような輝きを放っている宝石のような物であった。
(これが、土の中で食べていた物か……宝石みたいだけど何なのだろう? 色から考えたら、エメラルドとか、もしくは緑玉髄のような、緑色の宝石なんだろうけど、発光してるしなぁ。というか、コレを食べていたのか、土の中にいた時は……。なんというか、勿体無いことをしていた気分だ)
だが、自分がここまで木を齧り、抉り、掘り進んできた目的は、この光る宝石のような物を確認し、その上で、食べるという事だ。
なので、容赦なく宝石? に角が当たらないように周りの木をえぐり、宝石を口に入れた。
あまり抵抗も感じず、陶器が割れるような音が鳴ったと思うと、既に宝石の感触は口の中には無かった。
一瞬(顎の方が砕け散ったのか!?)とも思ったが、顎の感覚は消えていないので、宝石を砕いたのであろう。そして砕いた瞬間、土の中でも感じた感覚と同じようなものを感じたので、幼虫の時に食べていたのは本当にこれなのだと確信した。
(しかし、食べると力が溢れてくる宝石というのはなんなのだろう? いや、それよりもさっさとここから出るか)
そう考え、真正面を掘り進んで、反対側から出ようと再度木に角を刺そうとした時、変化が起こった。自分が入っている木が、急速に枯れて行くのである。
それは、中に居ても分かるほどであった。見れば、塞がり始めていた入り口が、ボロボロと崩れてきているではないか。
(このままここに居ると、この木と運命を共にしてしまう!)
そう感じた自分は、前には進まず、後ろの崩れて再度開いた出口から、一気に飛び出した。そして、飛び出してから気がついたのだが。飛び方が分からない。
(ああああああああああああああああああ!!! 前羽を開いて、後ろ羽を開く。それを羽ばたかせることによって飛べる。と、いうことは知っている。飛ぶ練習も、木に登る前に少しはしていたが、結局一度も成功しなかった!)
つまり、自分は落ちていくしかない。このままだと、転落死確実である。思わず腹から「ギュイギュイギュイギュイ」と、高速で威嚇音が鳴る。
しかし、自分はカブトムシで、下は落ち葉が積もってできた腐葉土。更に、獣道のように動物に踏み固められた風でもない所を見ると(落ちても大丈夫なのではないのだろうか?) と、感じる。
そもそも、そんな土でなければ毎晩毎朝土を掘って潜ることも、這い出る事も出来ないのだから。
だが、自分の角の意味の分からない鋭さと、何故かやらなければ死ぬような気がした。死の予感に関しては何故かは分からないが、直感的にそう感じた。なので、自分は一度も成功しなかった飛行をすることにした。
(まず、前羽を開く。そして、そのまま後ろ羽を開く。そして羽ばたく!)
弦の緩んだ弦楽器のような音が無様に鳴り響く。だが、自分は飛べていない。
(よし、飛べない! 後ろ羽がヘロヘロで全然駄目だ! どうする!? ヘロヘロ? なんでヘロヘロなんだ? そうか! 伸ばさないと! そうか、これを忘れていた! 羽を畳んだ状態で羽ばたいても、飛べるはずがない。何故、気がつかなかったんだ……自分。だが、今なら飛べる!)
さっきまでとは違い、前羽に力を入れ、ピンと張った後ろ羽を羽ばたかせる。すると、昆虫が飛ぶときの、あの独特な羽音と共に自分の体は宙に浮いた。
(飛べた! 飛べたぞ!)
思わず、飛べたことが嬉し過ぎて「ギィッギィッ」と、鳴きながら宙返りやらバレルロールやらやってしまった。そして、ひとしきり好きに飛んだ後に気がついた。
(なぜこんなに飛べる? この飛行能力は異常だ)
カブトムシ、という種類の昆虫は飛ぶのが苦手な虫である。それは、自重の何倍もの物を引きずれるその強靭な筋肉と、全身を覆う硬い甲殻の重さに加え、後ろ羽が体に対して小さいためだ。と知識にはある。飛行距離で言うならば、他のコガネやクワガタと言った種類の昆虫の、約半分以下だったはずだ。
だが、ついさっき自分は曲芸じみた飛行をしたのにも関わらず、今はホバリングしているのである。カブトムシが、ホバリングしているのである。カブトムシが。
(自分は一体何になってしまったのだろうか……)
必要以上に動く角や体の可動範囲。
本来の数を越える五つもある複眼。
カブトムシにあるまじき強靭な顎。
カブトムシにあるまじき飛行能力。
どういう進化をすれば、こんな風になるのか……色々と逸脱しすぎている。そして、こんな生き物が居るここは一体どこなのだろうか。
(きっと、自分が知っている場所ではないのだろうな)
そう、音を立てて崩れ去る木を見ながら思った。自分を見つめる視線に、気がつく事も無く。