きりんそば
日曜の昼下がり。梅雨入りしたのかしていないのか、気温はそれほど高くもないが、湿度があるので、部屋はやや蒸す。なので団地の部屋の窓は開け放していた。
そうしていると、涼しい風と共に、お昼時の香ばしい匂いが流れ込んで来て、それを嗅ぎつけたらしい、私の腹の虫が、大きく鳴った。
私は卓袱台をはさんで妻と向かい合わせに座り、テレビを見ていたのだが、あまりに大きな音だったので、ふたり顔を見合わせてしまったほどである。
それでも恥ずかしがったり、笑ったり、驚いたりなどは何もない。このふたりは、そういった時期をとうの昔に通り過ぎ、今や少々のことでは、お互い微塵も動じない。そういう仲である。
安定しているとも言えるし、変化に乏しいとも言える。
妻は、そんなことは百も承知という風で、つまらなさそうにテレビに顔を向けた。
テレビは、どの局も一様にお昼のバラエティ番組が流れている。妻は気怠そうにはしていたが、テレビのリモコンをこまめに動かし、次々とチャンネルを変えている。
どうやら、食べ物関係の番組を避けているようだった。
と、突然、妻がこちらを見向きもせずに。
「ねえ、きりんそばって知ってる?」
ぼそりと呟いた。
ややあって。
「きりん? 今、きりんそばって言った?」
と、 私は応えた。
「言ったわよ」
「いや、知らない。何だろう、きりんが入ってるの?」
私の問いに対する妻の応えは、ため息であった。
「あのさ、たぬきそばに、たぬきは入ってる?」
「入ってません」
「じゃあ、きつねうどんに、きつねは入ってる?」
「入ってません、ねえ」
「少しは、考えてから喋って欲しいなあ」
「は、すいません」
なぜか、妻に頭を下げる私である。
少し、妻は苛立っているようだ。私に対してなのか、それとも何か他のものに対してなのか。どちらにしても、あまり刺激するのはまずい。
私は努めて明るい口調になるよう心掛け、言った。
「とすると、きりんそばっていうのは、何かこう、きりんを連想させるものだったり、関連するようなものが入っている、そういうそばってことなのかな?」
「まあ大体そうよ」
「うーん、なんだろう、きりんで連想することと言ったら。首が長い、とか」
「そうそう」
「えー、首の長いものが入ってるのかな? それともそばの首が長いのか」
「うーん、ちょっと違うんだなあ」
妻は、ようやく私の方を向いて言った。
「あのさ『首を長くする』とか『首を長くして待つ』って言うじゃない」
「言うね」
「意味は知ってる?」
「まあ大体は」
「言ってみて」
何となく、妻のこういう口調に小学校の担任だった女性教師を思い出す。
私は、不安を感じながらも、おずおずと応えた。
「えーと、こう、何かを待ち焦がれる、みたいな」
「まあ、間違ってはいない」
そう言ったきり、妻は私の顔を見つめている。改めてまじまじと見つめられると照れてしまうのだが。
長いまつげのせいもあってか、切れ長の目が大きく見える。その間を、すっと通った鼻筋。小振りな唇に、それを支える少し丸みを帯びた可愛いあご。首筋がすらりとのびて、鎖骨へと繋がっている。
それにしても長い首だ。子供の頃にバレエをやっていたとかで、妻はすこぶる姿勢がよい。そのせいで、ますます首が長く見えるのだろう。
長い首、首を長くする。きりん。そば。
ふと、私の頭に、ひとつの答えが思い浮かんだ。
「あ、分かった」
「思ったより、早かったね」
「きりんそば、ね。ははは。うまい、座布団一枚」
私は、自分の尻に敷いていた座布団を妻に差し出したのだが。
「いらない」
と、すげなく断られた。
しばらくして、また腹の虫が鳴いた。
今度は、さきほどのものと比べても遜色ない鳴き声であったのだが、お互い見向きもしなかった。
妻は、卓袱台のふちを、トントンと指で叩いている。先ほどよりも、だいぶイライラしているようだ。
それというのも、ずいぶん前に注文した、そば屋の出前が、まだ来ないのである。あんまり時間がかかるので電話で確認したのだが、愛想の良い店主の声で、今出ました、と言われてから、三十分は過ぎていた。
私たちの住む団地から、そば屋までは歩いても十分とかからないはずなのだが。
と、妻の、卓袱台を叩く指が止まった。玄関の外に、人の来る気配があったのだ。
少しあってチャイムが鳴った。
妻はまるで立ち上がる様子を見せない。
仕方なく、私は「よいしょ」と立ち上がり、財布を片手に玄関へと向かった。
どうやら、きりんそばが、来たようだ。
ふと思い付いて、書き上げた作品。
楽しんでいただければ幸いです。