死にたがり公爵令嬢の暴走
社会不適合者の貴族の娘が引きこもっている部屋として、最低限整えられた薄暗い離れの部屋から、ルエルは実に半年ぶりに家族が住む母屋に踏み入った。
侍女が慌てて整えた薄灰色の髪を揺らしながら、質素なドレスのスカートのしわを歩きながら伸ばす。
生気がなくて気味が悪いと罵られ続けた瞳は、不安に落ちた瞼とまつげに覆われて更に陰っていた。
震える手で執務室の扉をノックすると、「さっさと入れ」と鋭い叱責がルエルの肩を震わせる。
躓きそうになりながら急いで入室し、深く一礼する。目を合わせると怒鳴られるので、ルエルはそのまま俯いた。
「そんな風に俯いてないで、顔を上げろ。令嬢として、少しは美しく見えるよう気を遣わないか!」
声音こそ苛立っていたが、戸惑いつつも顔を上げたルエルの目に映り込んだ父親、アジェナ公爵の顔は、逆光でもわかるほど上機嫌に輝いており、その瞳に自分が映っていることがルエルは信じられなかった。
(うっかり目があった時は、害虫でも見てしまったかのように顔を顰められるのに。)
これはいったいどういうことなのだろう。
家族の喜びが己の幸せであるはずがないと、数年にわたり刷り込まれてきたルエルの両手は、無意識に己を護るように胸元で組まれた。
「急ぎのご用と窺い、参りました」
「喜べルエル。お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
「え?」
単刀直入に告げられるには、にわかには信じがたい言葉に、ルエルは数度目を瞬かせる。
酷く臆病で、大勢がいる場所では気絶してしまうと嘯かれ、デビュタントどころか茶会にも社交パーティにも出席させてもらえず、離れに閉じ込められて生きてきたのだ。
父と母の愛に罅を入れてしまったあの日から、このまま年老いて枯れるまで、ルエルは生涯をあの離れで終えるのだと思っていた。
(それなのに、どなかたに嫁ぐ? 私が?)
「い、いったい、どこのどなたが──」
うろたえるルエルを尻目に、アジェナ公爵は思わせぶりに口ひげを撫でた。
「ログウィル辺境伯の嫡子、ノクス・ログウィルだ。いやもう彼が当主か」
少し前、最低限の世話をしてくれる侍女たちが、国の英雄だともてはやしていた名だった。
先日発生した大規模な魔物の討伐戦で親子共々奮闘し、見事国境を守り抜いたが、その際に父親を失った悲劇の英雄。
怜悧な青い瞳に夜空を梳かしたかのような黒髪を持つ、大変な美丈夫らしい、と。
(容姿も端麗で実力もある御方が、私を?)
「お、お父様。なにかの間違いではありませんか?」
「間違いではない。国王陛下主催の祝賀会の席で、褒美に降嫁させようとした第二王女を断り、嫁を貰えるならばお前をと宣言したのだ」
(そんな馬鹿な)
会ったこともない、互いに姿も知らない相手に望まれる不可解さにルエルは俯いたが、握り締めた拳が触れた胸の奥で、喜びと期待がとくりと鳴ったのを自覚していた。
「当主様の婚約者が来たらしいぞ」
「嘘だろ、手紙が届いたのって3日前だよな」
堅牢な城壁の正門前、見栄っ張りの父親が用意した豪奢な馬車の中で、ルエルは膝に置いた両手をぎゅっと握り締めた。
聞こえてきた声音から、期待とは違う響きの──よく聞き慣れた疎む空気を感じたからだ。
(どうして? 私は望まれて──ここに来たのよね?)
周囲の批難を受けずにルエルを排除したかった公爵が、結婚の準備のためと、新たに当主となったノクトを支え、憔悴している義母の心を慰めるためにと最もらしい理由と並べ、早々に家から追い出したのは理解出来る。
しかしその申し出を、辺境伯側も大層感謝し喜んでいた、と──ルエルは聞いていたのだ。
(馬鹿ね、私。お父様の言葉を鵜呑みにするなんて。門番の会話を聞く限り、お父様の勝手な押し付けたんだわ──)
せっかく望まれたのに、印象を悪くするような初手をとらされるなんて。
当主という父親を失い、辺境伯という重大な責務を後を継いだばかりの青年に、婚約者を迎え入れる準備にまで気を回す余裕などあるわけがなかったのだ。
(もっと疑うべきだった。望まれたということに浮かれて、私も気が急いていたんだわ)
己の疎み、存在を無視する家族より、望んでくれた相手の所に、ルエルは行きたかったのだ。
場所が変われば、ルエルという存在を愛してくれる人達がいるかもしれないという希望が、胸から溢れて止まらなかった。
己の馬鹿さ加減に、恥ずかしさと後悔を混ぜ合わせていると、不意に馬車の扉が開かれる。
驚いてルエルが顔を上げると、無作法に気づいた青年がはっと眉をしかめた。
「申し訳ない。本当に貴方が来たのか、信じられなくて──」
確認もせずに開けてしまったと気まずげに視線を逸らした青年の無作法など、彼の美しさに目を奪われていたルエルには些末な事だった。
(本当に、噂通りなのね。なんて美しい人なの)
言葉を失っていたルエルの瞳に、戸惑い気味の青年──ノクスが映る。
ルエルは知らず止めていた息をはっと吸って、慌てて居住まいを正した。
「ルエル・アジェナと申します。申しわけありません。どうやら私は、タイミングを誤ってしまったようね」
謝意を口にしたのが良かったのか悪かったのか、ノクスの瞳から戸惑いが消え、苛立ちを思い出したかのように眉根が寄った。
「自覚があるようで安心した。こちらから申し出た手前、無茶振りに対して出来ることはしたが、婚約者を迎えるにはとてもではないが不十分な状態だ。どうかご理解頂くよう」
「は、はい。もちろんです」
しっかりと頷いたルエルを、スッと眇められたノクスの瞳が捕らえる。
胸に抱いていた期待に一滴の冷や水が落ちるのを感じながら、ルエルは差し出されたノクスの手を取って馬車を降りた。
滞在先として案内された場所は、婚約者どころか賓客としてすら扱われているか怪しいほど、薄暗い部屋だった。
それでも、実家で与えられていた部屋に比べれば清潔に整えられており、温かい。
ログウィルが有する領地は最北端に位置するため、秋にさしかかった今はもうかなり寒いのだが、暖炉にはしっかり火が入っており、時折パチリと音を立てていた。
「温かい。ありがとうございます」
文句の一つでも覚悟していたのか、礼を告げたルエルに対してノクトは息を詰めたが、すぐに「何か必要なものがあれば侍女に」と告げて出て行ってしまった。
傍についてきていた侍女も、「何かあればお呼びください」と一礼を残して出ていく。
部屋に一人残されたルエルは、馬車を降りてからここに来るまで、出会う人々からちくちくと向けられていた感情から解放された安堵に長い溜息をついた。
(帰れと追い返されていたほうが、まだ理解出来る空気ね。私は本当に、望まれてここに来たの……?)
その疑問の答えは、そう経たずに知ることが出来た。
朝の支度や食事の用意、暖炉の薪足し、入浴など、必要最低限の世話はしっかりしてくれるのだが、呼び鈴を鳴らしても誰も来ない。
一度、朝の支度の時に聞いたが、人手が足りず忙しくて聞き逃してしまったと深く頭を下げられてしまい、ルエルは何も言えなくなってしまった。
そうして、必要最低限の扱いをされて二週間。
ここでも、居るけれど居ない存在として扱われることに恐怖を感じたルエルは、勇気を出して部屋を出た。
見知らぬ堅牢な城内を恐る恐る歩き、中庭に出る。
開放感に深呼吸したところで冷風に肩を撫でられて、コートを羽織ってくればよかったと後悔した。
一度取りに戻るべきかと振り返ったところで、柱廊を歩いていた品のある女性と目が合った。
夜色の美しい髪で、ノクトの母親──ルエルの義母となるマグレナだとわかった。
慌てて挨拶をしようと体の向きを変えたルエルの顔に、バシリと何かが当たる。
痛みと驚きで硬直したルエルの前に、綺麗な扇がぽとりと落ちた。
「え?」
「図々しく、愚かな娘。誰の許可を得て私の庭を彷徨いているの?」
「も、申しわけありません。部屋を出てはいけないと言われてはいなかったので」
ルエルの言葉に眉尻を釣り上げ、つかつかと近づいてくる。
射殺しそうな眼差しは、背後に控えていた侍女二人からも向けられていた。
どくり、とルエルの心臓が嫌な音を立てる。
「お前は自分の立場がわかってないのね。公爵が恥ずかしくて外に出せないと嘆いていた理由が良くわかったわ。無価値で、無教養で、家に隠されて恥をかかないよう息を顰めているべきだったお前が、どうして息子に嫁げたと思っているの?」
「それ、は──そう、望んでくださった、から、と」
「そう、望んだの。ログウィル家がこれ以上力を持つのを恐れた王が、娘を降嫁させることで取り込もうとしたから。辺境を護るので手一杯なのに、貴族派との争いに巻き込まれている余裕なんてないのよ。だから仕方なく、中立のアジェナ公爵が厄介払いにとすんなり差し出してくれるだろうお前を、賢いあの子は選んだの」
「あ、私──は」
無知なルエルに対する、正当な怒り。けれど、何も知らされなかったルエルには、理不尽で残酷な現実。
それは微かな希望を抱いていたルエルの心を砕くには、充分すぎるほどの威力をもって、その胸を刺し貫いた。
よろり、とよろめいた体を、背後から誰かに支えられる。
驚いて見上げると、いつの間にか現れていたノクトの青い瞳と目が合った。
「あの、」
「ここは父が母に贈った大事な庭園だ。なぜ勝手に入った」
助けられたのだとは、表情からして思っていなかった。それでも、背を支えた温もりに微かな喜びを感じていたことに気づいて、ルエルは己の滑稽さに思わず口端を震わせた。
「何がおかしい」
笑おうとして痙攣しただけのようになったそれを失笑ととったのか、二人の表情が更に険しくなる。
ルエルは慌てて足に力を入れ直し、居住まいを正した。
「申しわけありません。誤解を招くようなことをしてしまいました。私はただ、己を笑おうとしたのです」
「苦しい言い訳だこと。嫁いでしまえば自分の勝ちだとでも?」
当たりの強い言葉だったが、もうルエルの心は痛まなかった。
自分でも内心驚いて、思わず胸を押さえる。
(ああ、そうか。ないものは痛まないわ)
不意に理解して、また笑いそうになった唇を噛む。一呼吸置いてから、ルエルは先ほど思いついたことを言葉にするために口を開いた。
「あの、お二人に提案があるのですが……」
口の端を指先で擦るように覆いながら、告げる。
ノクトもマグレナも先を促すように無言だった。この愚かな娘が己の立場を理解した今、何を言うのか確かめようとしているのだろう。
「事故にみせかけて、殺してしまいましょう。私を」
真剣に、本気で告げたルエルに対し、二人は同じようにぱかっと少しだけ口を開けた。
その表情がそっくりで、ルエルはああ親子だな、と他人事のように思った。
「勢力争いから逃れるために結婚はしなければいけませんよね? けど、不要になったからといって妻が自殺は体裁が悪いですし、最悪、家名に傷もついてしまいます。ですので、どうにかこう、完璧かつ確実に事故死に見える方法を、考えてくださいませ」
「……君は、何を言ってるんだ」
微かな恐怖すら滲ませて、ノクトが告げる。ルエルの肩に触れたままだった手に、ぐっと力がこもった。
己が至った心境の説明をするには、己の立場を知ってもらう必要がある。そう思ったルエルは、ぽつぽつと過去を語り始めた。
自分が父と母から疎まれ、それに倣うように弟妹から無視されるようになった、他人からすれば哀れでつまらない原因を。
「……父が若い侍女を困らせていたのを、私は見てしまったんです。幼い私は彼女が可哀想だったので、母にそれを伝えました。それ以降、私はあの家で夫婦に亀裂を入れた疎ましい存在になったのです。父を深く愛していたからこそ、母は私を憎みました。そして後ろめたさから逃れるために、父はそれに倣ったのです。弟妹が生まれてからは離れに押し込まれ、マグレナ様のおっしゃる通り、無知で無教養な私は、いないものとして扱われました」
怒りと侮蔑だけだったマグレナの表情に、戸惑いが混じる。けれどじっと床を見ていたルエルは気づかなかった。
「事情も知らず、ノクト様に妻にと望まれた私は……恥ずかしながら、場所が、人が変われば私も愛される存在になれるのではと思ってしまいました」
言葉尻が揺れたのは、悲しさからではなく、羞恥からだった。ルエルは熱を帯びた頬を隠すように、更に深く俯いた。
「けれど、違うのだと。そうではないのだと、今、理解して──理解したら、ふっと心が軽くなったのです」
「ルエル嬢?」
顔を上げ、ノクトから一歩離れることで、ルエルは二人と向き合う。先ほどまであった不安や期待が、嘘みたいに消えていた。
立っている場所は凍えるほど寒い場所なのに、清々しいほどにルエルの心は穏やかだった。
「こんなに楽になるなら、もっとはやく、私も私を手放してしまえばよかった」
満面の笑顔で告げたルエルだったが、その表情のままがくりと膝から崩れ落ちる。
ノクトが咄嗟に抱きとめると、驚くほど軽く細い体は両腕に余った。
意識を失ってもなおルエルは微笑んだままだったが、その眦から涙が一筋こぼれる。
それがぽたりと肩に落ちる様を黙って見つめたあと、親子は何かを確かめるように見つめ合った。
「…………夫を失って、私はどうかしていたようだわ」
「同感です、母上。領民の安寧のためだったとはいえ、望まぬながらも選んだ時点で彼女も俺が護るべき存在だった──」
マグレナの後悔に強く同意の頷きを返し、ノクトはルエルを抱え上げる。
先を歩きだしたマグレナの口から、ほぅ、と深い嘆息が零れた。
「ああきっと、今夜は夢に夫が出てくるわ。一晩中説教をされて、寝た気がしないでしょうね」
それはきっと自分もだろうと、ノクトも目を伏せる。
一人の人間の心が、砕ける瞬間を見た。
心が軽くなったと笑ったルエルの、なんと悲しいことだろう。
ノクトの胸に湧いた感情は、この瞬間こそ罪悪感からくる庇護欲に近いものだったが、それが深い愛情に変わるのに時間はかからないだろう。
だが、砕けた心のままにノクトの枷になるまいと決意したルエルに、再び愛を芽生えさせるのは、そう簡単なことではないことも、また事実だ。
夫のために完璧な事故死を遂げようとする妻の奮闘が、始まろうとしている。
冷遇からの逆転溺愛大勝利系って、いいですよね。
あるあるだと思いつつ、せっかく導入を思いついたので書きました。すっきり。




