20.ノエル、夫を攫われる
腹ごしらえをしたあとは、前もって予約していた服飾店へ足を運ぶことにした。
店に向かう途中、少し休憩したものの、夫はまだ疲れているように見えたので、
「抱っこしましょうか?」と声をかける。
けれども、
「ぼく、もうすぐ六さいだからだいじょうぶ」
と、誰かさんのように眉根を寄せて、きっぱり断られてしまった。
こちらからすれば、まだ五歳なのだから、もう少し甘えてくれてもいいのに、と思ってしまう。
……こういうところは、まだまだ母性が働く。これについてはもはや本能、致し方ないだろう。
ほどなくして、店の扉をカランと鳴らして開ける。
するとすぐに中から顔なじみの店主・アイラがこちらに気づき、挨拶をしながら駆け寄ってきてくれた。店は完全予約制なので、私たちの他に客はいない。
「いらっしゃいませ。
あら、サフィール坊っちゃんにノエル様!
ようこそお越しくださいました」
ここはキングリー家御用達の仕立て屋で、そして一着仕立てるだけでもかなりの値段がかかる高級店だ。
初めてサフィール様の服をここで仕立ててもらったとき、その金額には思わず目を見張ったものだ。
何しろ、私の実家は一時期、借金さえ抱えていたくらいだ。
というより、借金がなかった頃でさえ、これまで既製品の服しか身に着けたことがない。
そのため、オーダーメイドの経験など人生で一度もなかったのだ。
一着にいくらかかるのかも想像がつかないほど、私にとっては無縁の世界だった。
一方、夫はといえば――
私の実家の借金を全額肩代わりしても、なお揺るぎない資産を蓄えていた。
この店を御用達にしているのも、なんら不思議ではない。
彼の記憶が失われるまで気づかなかったが、夫はいくつかの薬の特許を取得しており、
その不労所得はかなりの額にのぼっていた。
だからこそ、以前アレックスに
「奥様がそこまで身を粉にして働かなくても」
と言われてしまったのも、無理はないのだろう。
今回、珍しくサフィール様が自ら新しい服を欲しがっているのかと思っていたが、どうやらその予想は外れたようだった。
「アイラ、もうできた?」
「はい、もちろんですわ。あとは奥様に着ていただいて、サイズを調整するだけです」
「?」
二人のやり取りに、思わず首を傾げる。
いつの間にか彼は、何かの服を注文していたらしい。
(でも、私が着るって、どういうこと……?)
アイラさんが別の店員に何か指示を出すと、
奥から女性物の服を着せたトルソーを抱えてやってきて、サフィール様と私の前に置いた。
「どう? かわいい?」
サフィール様が、私の顔色をうかがうように問いかける。
目の前の服は、全身が繊細なレースで仕立てられた、真っ白なワンピースだった。
装飾はほとんどなく、腰の後ろに小さなリボンが結ばれているだけ。
袖は透けるほど薄く、スカートの裾も同様に、向こう側がうっすらと見える。
腰はきゅっと絞られ、スカートはAラインに綺麗に広がっていた。
洗練された気品と、レースの可憐さが溶け合った、ひと目で心を奪われるほど魅力的な一着だった。
「……可愛いし、美しいと思います……」
ありきたりな言葉しか出てこなかったけれど、本心からそう思っていた。
しかもこのワンピースは、華美な装飾よりもシンプルなものが好きな私の琴線に触れる。
綺麗なワンピースから目を離せずにいる私に、夫が口を開いた。
「ぼくのたんじょうびは、これを着たノエルがいい」
「え?」
夫のほうを振り向くと、少し恥ずかしそうに頬を赤らめた彼がいた。
「これを着たノエルと、一日すごすんだ。
それで、ぼくは、きれいなノエルといっしょに、たくさんあそんでもらうんだ」
「そ、そんな……サフィール様の、せっかくのお誕生日に、私なんて……」
躊躇いを見せる私に、アイラさんが穏やかな声で口を挟んできた。
「坊っちゃんは、かなり前からこの計画を立てていたんですよ。
ノエル様がお仕事でいらっしゃらない間に、こちらへ何度も足を運ばれて、一緒にデザインしたんです。
『あーでもない、こーでもない』と、頭を抱えて悩んでいらして」
「……知らなかった……」
アイラさんに視線を向けていた私は、くいっと下からスカートを引かれる感覚に、そちらへ顔を向けた。
「ノエルのおたんじょう日、ちゃんとおいわいできなかったでしょう?」
サフィール様が、首を傾げて言う。
「だから、ぼくのたんじょう日のとき、ノエルもいっしょにおいわいしたいと思ったんだ」
「サフィール様……」
サフィール様から逃げるように仕事に忙殺されていた間に、私は二十二歳の誕生日をひっそりと迎えていた。
サフィール様は、私の誕生日を知らないだろう。
それに、旦那様も、私の誕生日を覚えていたかどうかは怪しい。
そう思っていた。
だからこそ、まさかこんな形で祝われることになるなんて、思ってもみなかった。
アレックスやマーサが一枚噛んでいるのは間違いないが、彼の気持ちが素直に嬉しい。
「ノエル様、よろしければ早速ご試着なさってみませんか?
細かいサイズ調整をして、お誕生日の日までにしっかり仕上げさせていただきます」
「ノエル、おねがい」
もちろん、私の返事は一つしかない。
「……ありがとうございます。では、早速袖を通させていただきます」
胸がいっぱいになりながら、サフィール様をその場に残し、試着室へと向かった。
◇
「奥様は、本当に幸せ者ですね」
私がワンピースを試着した状態で、ウエスト部分に針を留め、生地を詰めながら、アイラさんが言った。
「そうですね……そうかもしれません」
確かに、私は幸せ者だ。
あんなに小さな夫に、これほどまでに心を満たすサプライズを用意してもらえるのだから。
「私は、サフィール坊っちゃんが本当に小さい頃から、この店でキングリー家のお洋服を仕立ててきましたけれど……やはり、坊ちゃんはあの頃とは違いますよ」
針を動かす手を止めぬまま、アイラさんは穏やかに続けた。
「今の坊っちゃんは、幼いながらも、まっすぐにノエル様を愛していらっしゃる。
ちゃんと――“男の顔”をしていらっしゃいますよ」
「男の……顔、ですか」
思わず、その言葉を繰り返す。
そして、胸の奥に引っかかっていたものが、ぽつりとこぼれ落ちた。
「私……ちゃんと、あの人の“妻”に見えていますか?
なんというか……母親に見えたりは、しませんか?」
私が不安を隠しきれずに問うと、アイラさんは間を置かずに答えた。
「もちろんですとも。
私はここにいるときのお二人しか存じませんが、少なくともその間は――姿こそ親子に見えても、きちんと夫婦として向き合っていらっしゃいますよ」
そう言って、彼女は仮縫いの糸をパチンと切った。
「考えを押し付けず、互いを思いやって、ときには頼りにさえしている。お二人も、そうじゃないですか?」
「……言われてみれば」
私はサフィール様を自分の思うように育てようなんて、全く考えていなかった。
彼のやりたいことを尊重し、ときには自分の意見を伝え、彼もそれを素直に受け取ったり、反論したりする。
初めてこの仕立て屋に足を踏み入れたとき、気品あふれる空間に圧倒され、思わずサフィール様の小さな手を握ったことを思い出す。
そのとき彼は「きんちょうしなくて、だいじょうぶだよ」と優しく言ってくれて、どれだけ心が落ち着いたかわからない。
(ちゃんと私、あの人の“妻”をしているわ)
「さあ、できましたよ。まだ仮縫いの状態ですが、きついところや逆に緩いところはございませんか?」
「いいえ、とても着心地がいいです……本当に素敵」
鏡に映った真っ白なワンピース姿の自分は、まるでウェディングドレスを纏った花嫁のようだった。
昔からドレスには憧れがあった。そのため、入籍してすぐ、旦那様から「式は仕事が落ち着いてから」と言われたとき、あからさまにガッカリしたのは苦い思い出だ。
「とてもお似合いですよ。サフィール坊ちゃんはあなたの魅力の引き立て方をよく分かってらっしゃる。
早速見せて差し上げましょう、きっと喜ばれますよ」
「……はい!」
試着室を出て店内に戻ると、そこにいたのは、なぜか若い女性店員が一人だけだった。
「あれ、サフィール坊っちゃんはどちらに?」
アイラが彼女に声をかけると、店員はあっさりと答えた。
「サフィール様でしたら、お迎えの方が来られて、先ほど外に出られましたよ」
「お迎えの方?」
誰か屋敷の者が来たのだろうか。
「え、その“お迎えの方”って、どなたですか?
何か、私に伝言はありませんでした?」
「三十代か四十代くらいの、中年の男性でした。お名前はお伺いしていないのですが、『坊っちゃんを迎えに来ました』と仰っていて……。お二人で少しお話をされたあと、サフィール様は『すぐ戻る』と言って、一緒に出ていかれました」
「伝言は……それだけ?」
「はい。“すぐ戻る”と仰っていましたし、もう間もなくお戻りになるのではないでしょうか?」
中年の男性で、「坊っちゃんを迎えに来た」人物――?
アレックスは初老だし、呼び方からしてシイル先生でもなさそうだ。
兄弟のマーカス様たちなら、そもそも一緒にここへ来ているはずだし、何かしら伝言を残すはずだ。
室長時代の職場関係者だとしても、私になんの言付けもなく連れ去るなんておかしい。
――嫌な予感に、背筋を冷たいものが走った。
「……アイラさん。
私、その人に心当たりがありません」
私の言葉に、アイラさんと若い女性店員は顔色を変えた。
「あなた、どうして名前を確認しなかったのですか!
せめて試着室に来て、ノエル様に確認するくらいはできたでしょう!」
「す、すみません……完全に、関係者の方だと思い込んでしまって……」
アイラに責められ、泣きそうな顔をしている彼女は、普段見ない顔だった。最近雇った新入りなのかもしれない。
私も動揺しているが、ここで彼女を責めても何も変わらない。落ち着け、と自分に言い聞かせ、今からどう動くかを考える。
「あの、サフィール様が出て行かれたのは、どれくらい前のことですか?」
「ええと……五分くらい前だったと思います。そのとき一度時計を見たので、間違いありません」
「五分前なら、そう遠くへは行っていないはず。
あなたは外を見て回ってください。十分探しても見つからなければ、またここに戻ってきなさい。
私は警備隊に連絡します。その間に、ノエル様は一度お着替えください」
テキパキと指示を出すアイラに、店員は「はい! 申し訳ございません! 必ず探してきます!」と答えると、一目散に飛び出していった。
残されたアイラさんは、私に向き直り、深く頭を下げる。
「……こんな事態になってしまい、大変申し訳ございません」
「いいえ。まだ連れ去られたと決まったわけではありません。
それより、警備隊への連絡をお願いします。
私は着替え終わったら、すぐ街中を探しに行きます。
アイラさんは、サフィール様が戻られたときに誰もいないとまずいので、ここで待機をお願いします」
「はい、すぐに対応いたします。
中にはアシスタントがいますので、何かございましたらそちらにお申し付けください」
「ありがとうございます」
なるべく気丈に振る舞おうとしたが、手の震えは止まらない。
(サフィール様、一体どこに行ってしまったの……?)
きっと今頃、泣いているかもしれないし、最悪、乱暴されてる可能性だって考えられる。
――お願い、無事でいて。
そう祈らずにはいられなかった。




