18.ノエル、やっと返事をする
◇
「サフィール様、お加減はいかがですか?」
アレックスとマーサへの話が終わるとすぐ、夫の様子を見に寝室へ向かった。
すでに朝日が差し込んでいて、明かりをつけなくても、部屋は充分に明るい。
彼はまだベッドに横になっていたが、その目はすでにぱっちりと開いて、ぼんやりと天井を見つめていた。
「……」
(あら、昨日の今日だし、まだ熱が下がっていないのかしら?)
「少し失礼しますね」
ひと言断ってから、小さな額にそっと手を当てる。
けれども、昨日のような熱さはなく、薬が効いたのか、すっかり熱は下がっているようだった。
「お熱は大丈夫そうですね。今日は一日、ゆっくりしましょうか。
私も今日はお休みなので、一緒に何をしましょうかね」
ゆっくりと夫の小さな頭を撫でてやると、その視線が、天井から私のほうへ移った。
いつもの笑みはなく、感情の読めない表情で、じっと私を見つめている。
ふと、違和感を覚えたその瞬間、彼の口が開いた。
「夢を、見た」
「え?」
確かに、いつもと同じ高い声なのに、舌足らずな話し方だけが消えていて、どこか明瞭に聞こえた。
「とても怖くて、恐ろしい夢だ」
「恐ろしい夢、ですか?」
“サフィール様”になってから聞いたことのない静けさに、思わずこちらも声を潜めて問いかける。
「私が、君を忘れるんだ」
「……ッ!?」
「――私は変わらず、君を求める。
けれど、君は一緒にいるはずなのに、どんどん遠くなるんだ」
まるで独白のように、夫は続けた。
「前よりも、積極的に触れ合っていた。
それに、好意も隠さず、互いに口に出していた」
夫は横になったまま、私のほうへと手を伸ばす。
私は咄嗟に、その小さな手を握った。
「それなのに、君は遠ざかっていくんだ」
彼の指が、私の手をゆっくりとなぞる。
互いの視線は、交わったままだ。
私は息をするのも忘れて、彼の言葉に耳を傾けた。
「それが、どうしようもなく寂しくて、悲しかった。
どうすれば、君を“妻”として引き留められるのか……そればかりが、毎日、頭を締めつけた」
彼の顔が、わずかに歪んだ。
「でも、躍起になればなるほど、君の心は別の方向へ離れていく。
私は、ひどく悲しくなって、同時に、とても恐ろしくなった。
君に、いつまでたっても追いつけないんだ」
私の手を撫でていた指が止まり、次の瞬間、強く握りしめられる。
「私は……どうすれば、君の“夫”になれるんだろう」
夫の声は、絞り出すようなものに変わる。
「もう――わからないんだ」
(これは……私の幻覚?)
幻覚でもいい。
ここで気持ちを、ちゃんと伝えないと、きっと後悔する。
だって、彼に向き合うと決めたばかりなのだから。
空いていたほうの手で包み込むようにして、彼の手を握り返し、告げた。
「私は、ずっとあなたの妻です。
もちろん、契約上の話ではありませんよ?
心から寄り添って、将来をともに生きていたいって思えたのは、旦那様……サフィール様、ただ一人だけです」
もう、ほとんどプロポーズの返事だった。
昨日も、あのときも、言えなかった言葉を、ようやく口にできた。
その途端、涙で視界が滲む。
顔を伏せると、ぽたりと一雫、膝の上に落ちた。
――悲しい気持ち以外で泣くなんて、この半年で、涙腺がだいぶ弱くなったのかもしれない。
ふいに、子どものものとは思えない力で腕を引かれ、体勢を崩した。
彼のほうへ上半身が倒れ込み、気づけば、目の前には夫の顔があった。
彼は自分の服の袖で、私の頬をそっと拭う。
それから、小さな手で頬を包み込み――
額に、温かな感触が降りてきた。
ゆっくりと顔を離して、彼が言った。
「やっと、一番、欲しかった答えが聞けた」
その顔は、これまでに見たことがないほど晴れやかで、屈託のない笑顔で――
眩しいと思うと同時に、
それは、彼の記憶がなくなった日の笑顔に、酷似していた。
「ノエル、だいすき」
舌足らずな声でそう告げると、夫はそのまま私を抱き込んだ。
「サフィール様。私もですよ」
夢は、覚めてしまった。
けれど、落ち込んだり、がっかりなんかしていない。
むしろ――これからはもう、遠慮しないで済むのだから。
◇
「もー、ノエルはあっち!
見ないでってばー」
「いいじゃありませんか。減るものでもないでしょう?」
「やだよ! はずかしいもん!」
家庭教師の授業中、こっそり部屋に入って夫の様子を覗き見していたのだが、盛大に嫌がられてしまった。
「ノエル様。ほら、サフィール坊っちゃんの邪魔をしないでくださいね」
「えー……せっかく夫の頑張りを見守ろうと思っただけなのに」
文句を言いながら、マーサに引きずられるようにして部屋を出ていく。
(少し見ただけだけど、すごく集中してたな……)
元々、夫は侯爵家では三歳頃から家庭教師による授業を受けていたらしく、五歳の頃にはすでに読み書きができていたという。
そのため、先ほどの授業も年齢以上の内容で、
「え、私の五歳の頃なんて、お絵描きくらいしかしてなかったけど……」
と思わず驚いてしまった。
「じゃあ奥様、坊っちゃんのお勉強が終わる前に、おやつの準備を終えちゃいましょうか」
「そうね。ちゃっちゃと終わらせて、私たちが先に休憩しちゃいましょう」
マーサとともにキッチンへ降り、料理人に頼んでおいたおやつを皿に盛り付ける。
さらにお茶や食器をトレーに載せていく。
お勉強終わりのおやつ休憩は、最近のこの屋敷の日課のひとつだ。
夫は午前中と午後のどちらかに勉強の時間を入れているので、私もそれに合わせて屋敷の中で仕事をする。
卸しの仕事は順調で、主に魔術師塔からの発注が格段に増えた。
一度はなくなった契約だったが、夫の部署の人間が融通を利かせてくれて、再契約に至ったのだ。
ちなみに、夫はまだ休職扱いではあるが、研究室室長の席にはとっくに別の人物が座っている。
当たり前だが、仕事というのはそういうものだろう。
家庭教師代や、少し増やした使用人の人件費については、全額、貯めていた生活補償金から支出してもらっている。
もちろん私も目を通しているが、アレックスの絶妙な采配で、しっかりと管理してもらっていた。
フリーになった時間は、できるだけ一緒に過ごした。
夫の遊びに付き合ってあげたり、私の薬草畑の世話を一緒にしたり、森へ散策に出かけたり、お昼寝をしたり。
あまりにも穏やかで、結婚当初の手持ち無沙汰だった頃や、以前の仕事に追われていた日々が嘘のようだった。
「さあ、これで完成ですね」
庭に置いたピクニックテーブルにテーブルクロスを敷き、
その上におやつの乗った皿と、取り分け用の皿を並べる。
さらに、トレーの上にお茶を用意した。
マーサとともに椅子に腰掛け、一息つく。
おやつの時間は、マーサも一緒だ。
時折、他の使用人も混ざったりする。そのあたりは、いつも大雑把だった。
「あ、もう終わられたようですね」
マーサが庭に続くガラス戸の向こうに、夫の姿を見つけ、こちらへ来ることを教えてくれた。
私は立ち上がり、彼に向かって手を振る。
「サフィール様ー! お疲れ様でーす!」
大きな声で呼びかけると、彼は一目散に走ってこちらまで来た。
「今日のオヤツはなに?」
「料理人特製の大きなナッツクッキーですよ。味は二種類あるそうです」
「やった! じゃあ二つたべる」
「二つは多いんで、私と半分こずつしましょうね」
「えぇ~……」
眉間に皺を寄せて不満気な顔をするが、こればかりは聞き入れられない。二つも食べたりなんかしたら、夕食が入らなくなるのは目に見えている。
そんな風に二人で他愛ないやり取りをしていると、遅れてシイルさんがやってきた。
「シイル先生、お疲れ様です。どうぞお掛けください」
「いつもお茶にお招きいただき、ありがとうございます」
今日の家庭教師の先生はシイルさんだ。
彼には薬草学や魔法基礎を専門に教えてもらうよう、契約をしていた。
これまでは屋敷を訪れた際に、無償で勉強を教えてもらっていたのだが、
調剤師の仕事の副業として、家庭教師として雇わせてほしいと伝えると、
二つ返事で了承してもらえた。
それから週に二回、彼はサフィール様に授業をして、
授業後には、こうしてともにお茶をするのが習慣になっていた。
「そうだ。ノエルは、じゅぎょう見に来ちゃだめだからね」
「え、なんでですか。夫の頑張り具合を見るのも、妻の役目でしょう?」
「奥様、それは妻というより、ただの面白がってる人ですよ」
「そんなことないわよ。
あーまたサフィール様の頭が良くなってるわぁ、って間近で実感できるなんて、妻の特権でしょう?」
「ぜったい、ちがう気がする……」
呆れた表情のサフィール様に、シイルさんが「そういえば」と口を開いた。
「今日の授業は、薬草の種類や系統についてお話ししていたんですが、
サフィール君は、すべてご存じだったんですよね」
家庭教師を始めた当初、シイルさんは夫のことを『キングリー室長』と呼んでいた。
だが、それは誰のことかと夫に真顔で聞き返されて以来、
君付けで呼ぶようになっていた。
「全部ですか?
あれ……じゃあ、侯爵家にいたときに習っていたのかしら。覚えてます?」
「わかんない」
「ですよね」
(念のため、あとでアレックスに確認しておこうかしら)
ふと、夫の視線がこちらを向いていることに気づいたので、「どうしました?」と尋ねた。
夫は返事をせず、すっと腕を伸ばしてくる。内緒話でもあるのかと思い、顔を近づけた。
すると、
「ん、とれた」
私の口元についていたクッキーの欠片を、指で摘んでそのままパクリと食べてしまった。
「……」
呆気に取られている私に、マーサがすかさず夫をたしなめる。
「あら、坊っちゃん。お口についてるものを取ってあげるのは偉いですけど、それを食べちゃうのはいただけませんよ」
いいことをしたと思ったのに、逆に叱られてしまった夫は、プイッと顔を背けて言った。
「……妻のおこぼれの破片を食べられるのは、夫の特権だ」
いじけた言葉を、滑舌よく溢した夫に、私だけでなく、みんなが目を丸くして視線を向けた。
「サフィール君? きみ……」
シイルさんが思わず立ち上がって声をかけると、夫はバツが悪そうに自分のクッキーを頬張った。
「せんせいまで、怒らないでよー」
シイルさんは立ち上がった身体を、どこか拍子抜けした様子で、ストンと席に落ち着けた。
「……怒るつもりはありませんよ。私の場合、妻によくやってもらっていましたから」
「え! せんせいがおくさんにやってもらってたの!?
おはなし聞きたい!」
目の前の夫は、すでにシイルさんの奥方への興味で夢中になっていた。
(びっくりした……いつものサフィール様だわ)
でも、さっき――
ふいに見せられた彼の仕草や言葉に、私の胸がトクンとときめいたのは、疑いようもなかった。




