15.ノエル、夫の現状から逃げる
第二章から、ノエルの一人称です。
夫の爪が伸びた。
「はい、親指から切っていきますよー」
「いたくはないの?」
「爪ですからね。なんの痛みもありませんよ」
小さな手に、小さな爪。
少し白く伸びたそれを、丁寧に、ゆっくりと切っていく。
パチン、パチン――音が響くたび、彼は不思議そうに、短くなっていく自分の爪を見つめていた。
――夫は結局、姿も中身も、完全に五歳の子どもに戻ってしまった。
彼の幼く屈託のない笑顔を見ていると、自然とこちらも笑顔になる。そして、同時に、どこか哀しくもなる。
この状態の夫と過ごし始めて、
すでに半年の時間が過ぎていた。
彼の姿は一向に元に戻る気配はない。
第一グループの解毒薬の開発も、自分への生活保障金の支払いが開始されると同時に、打ち切りになってしまった。
唯一の喜ばしいことといえば……最近になって初めて、彼の身体に少しずつ"普通の子供として"の成長の兆しが見られるようになったことだ。
ふいに手が当たった際、これまで短かった爪に引っかかれた。
こんな僅かな変化に、私を含め、屋敷の者たちはみんな喜んだ。
まるで、みんなで子育てをして、その日々の小さな成長を噛みしめているかのようだった。
シイル曰く、彼の中で薬の効能変化が完全に書き換わった証拠らしい。五歳のまま身体の成長をピタリと止めていた彼が、ゆっくりと、まわりと同じように年を重ねていく。
つまり、それは――もうあのときの彼は戻ってこないことを意味した。
夫は文字通り、第二の人生を歩み始めていた。
「はい、これでおしまいです。よく頑張りました」
「へへ、ありがとう」
屈託なく笑う姿は、とても愛しい。
まるで、自分の子供ができたかのように。
アレックス曰く、夫はこの年頃までは、今のように天真爛漫で、無邪気に笑う子供だったらしい。
けれども、度重なる誘拐事件で怖い思いをし、外出制限で引きこもった生活を送るうちに、
みんなの知っている“キングリー室長”のような、口下手で不器用な彼が形作られていったのだという。
そんな夫は、いま、この世界のどこにもいない。
シイルが来たあの日、彼はかろうじて私のことを「おくさん」と認識していた。
『ノエルは、ぼくのおくさん』
その翌日。
『ノエルは、ぼくのだいじなひと』
さらにその翌日。
『ノエルは、ノエル』
そして――
『?』
ある日、とうとう名前を呼ばれなくなった。
あまりのショックに、本人を目の前にして「旦那様のバカ」と泣いてしまった。
夫はそんな私を見ておろおろし、
そっと小さな手で、私の手を握ってくれた。
その温かさと、不器用な慰めが、
かえって私の中の悲しみを深く抉った。
いまは、使用人たちの教育の甲斐もあって、
自分のことを「ノエルという、母親みたいなお姉さん」と認識しているようだった。
私は――本当の意味で、「契約上の妻」になってしまった。
「前髪も、伸びてきましたね」
「そうかな?」
「今日の夜にでも切りますか」
「え、ノエルはかみをきることができるの!?」
「はい、切れますよ。弟が小さいころ、彼の髪の毛は私が切っていたんですから」
「そうなんだ〜」
当時のことを思い出して、ふと笑みがこぼれる。
私は別に髪を切るのが上手いわけじゃなくて、ただ弟の世話を焼きたかっただけだ。
ざんばらに切ったあと、両親が慌てて侍女に切り直すようお願いするのが、散髪の一連の流れだった。
「ノエルは、おとうとがいるの?」
「え?」
「いいなあ、ぼくも、きょうだいがほしいな」
(そっか……"この"旦那様は、私に兄弟がいることも知らないんだったわ……)
「サフィール様にも、ご兄弟がいらっしゃるんですよ」
「え!? でも、いちどもあったことがないよ!」
「何を言ってらっしゃるんですか。この間、屋敷に大きな男性が二人、やってきたではありませんか。
あのお二人が、サフィール様のお兄様たちですよ」
「え! ぼくのおにいさんって、あんなにおじさんなの!?」
ついこの間、サフィールのお見舞いに、キングリー家の当主である長兄マーカスと、街の警備隊に勤めている次兄ネイサンが遊びに来たのだ。
二人はサフィールの変わりように驚き、そして明るく笑い飛ばし、彼と思う存分遊び倒してから「また遊ぼう」と言って帰っていった。
元の夫の性格と違い、二人は非常に社交的な人物で、彼らが明るく話しかけてくれることで、実のところ、内心とても救われた。
「夫を自分好みに育て直すことができる妻なんて、世界であなただけだ」と言われてしまい、「確かに」と、なぜか納得してしまっていた。
「サフィール様と、そんなに年は変わらないはずなんですけどね……」
呟いた言葉は自分にしか聞こえない声量で、サフィールの興味はもう別のものへ移っているようだった。
(……そろそろ時間だわ)
「それじゃあ、私はお仕事に行ってきますね」
「ええ!? もういっちゃうの!? いつかえってくるの?」
「いつもと変わらない時間ですよ。お昼寝している頃に、こっそり帰ってきますから」
「ノエルはずっと、おしごとだよね……」
不貞腐れた顔で、夫が拗ねたことを言う。
自分でも本当にそう思う。毎日毎日、朝から夕方、ときには夜になるまで働いていた。
名前を呼ばれなくなったあの日、私の心は折れた。
彼と正面から向き合うのが怖くなったのだ。
まるで――結婚当初の夫のように、仕事に逃げた。
薬屋の仕事のシフトを増やしてもらい、これまで避けていた夜番も週に一回は入るようにした。
それに加え、実家の薬草の卸しの仕事の販路を広げるため、営業活動もするようになった。
――すべては、生活のためと言い聞かせるようにして。
魔術師塔から出ている慰労金、いわゆる生活補償金は、全額貯金していた。
これまでの様にたくさんの使用人を雇うことはできなくなったため、紹介状を書いて数名を残し職を辞してもらった。
「奥様、何もそこまでしなくても……」
アレックスの心配そうな声が胸に刺さる。
でも、こればかりは私の意地であり、私なりの夫への愛だった。
"今の夫"がこれから通うことになるであろう学校の学費や生活費は、今の私の稼ぎでどうにかなる。
けれど――
夫が成人を迎えるころ、私は三十代半ば。
きっとその頃には彼にもお似合いのいい人が現れるだろう。
そのときに正式に離縁して、結婚祝い金として貯金の全てを、彼にお返ししてあげるのだ。
――私からの祝福と、これまでの感謝を込めて。
「帰ってきたら、今日サフィール様がお勉強したことや、遊んだことを、私にたくさん聞かせてくださいね」
「うん……」
「それでは、いってきます」
そう言って背を向けた瞬間、スカートをくいっと引かれ、後ろからぎゅっと抱き締められた。
「……さびしい」
「サフィール様……」
彼の仕草に胸が、ぎゅっと締め付けられる。
以前も仕事に行く前に、こうやって抱き締められ、寂しいと告げられたことがあった。
あのときはまだ、夫が完全に精神退行する前だった。
急に我に返って、「一体、私は何を……」なんて戸惑っていたものだ。
(でも、今は、我に返るなんてこともないのよね)
あのとき出来なかったことを、今の彼にしてあげる。
身体を屈め、そっと小さくてか細い身体を抱き締め返す。
――彼の温かい体温に、心もジワリと温もりが伝わってくるようだった。
「また、夕方に会いましょうね」
髪を梳くようにして頭を撫でて、そのてっぺんにキスを落とす。
名残り惜しいが、近くで見ていたマーサに目線を送り、彼を引き取ってもらった。
引き剥がされるとき、彼の顔は最後まで見られなかった。
――私は、弱い。
いつまでたっても、前の夫に未練しかない。
それでも、折れそうな心をなんとか奮い立たせ、屋敷を後にした。
続きは明日夜9時頃更新




