14.ノエル、夫の現状に打ちのめされる
昨日はあの後、サフィールは一度も起きることはなかった。
何度か心配になって部屋を覗いたが、薬の効果もあってか、穏やかに眠りについていた。
ノエルは遅くまで起きて夫の様子を見にっていたが、そのうち頭が船を漕ぎ始めたので、久しぶりに自室のベッドで寝ることにした。
目を閉じる前に、窓際の花瓶に目をやる。
そこには、サフィールからもらった花がまだ元気に咲いていた。
もらったときより数が少ないのは、いくつかは本に挟んで押し花にしている最中だからだ。
不器用な夫からの心のこもったプレゼントを、いつまでも形にして残しておきたかったのだ。
――一か月後に返事をするって、そう決めたけど……
そのとき夫は元の姿に戻っているのだろうか。
不意に、不安が頭を過ぎる。
(……ううん、一週間でなんとかするって言ってたもの。明日か明後日には、きっと解毒薬も完成しているはず。
大人に戻った彼に、ちゃんと自分の気持ちを伝えたいわ)
ノエルは夕方の夫からの不器用なプロポーズを思い出しながら、幸せな気持ちで静かに眠りについた。
◇
翌朝――
(重い――)
足の上の謎の重みと、いつの間にか落ちていたシーツのせいで目が覚める。
寝ぼけ眼で身体を起こすと、足元に丸まる人影があり、思わず声をあげた。
「ッ!? 旦那様!?」
ノエルの私室のベッドに夫が丸まっており、シーツは奪われ、腕に猫のぬいぐるみを抱えて寝ていた。
(寝ぼけてここまで来たの……? 私が寝ている間に、熱でせん妄でも起きたのかしら……)
念のため額に手を当てると、すっかり熱は下がっている様子だった。
(しょうがないなぁ)
私室に、許可もなく潜り込んでくるなんて。
――でも、病み上がりだし、可愛いから今日のところは許してあげよう。
そう思ってしまうあたり、この数日で自分は夫にすっかり絆されてしまっているのだろう。
このまま寝かせておこう――そう考え、顔を洗いにベッドから降りたところ――
「ノエル」
名前を呼ばれた。
ハッと振り向くと、寝転がったまま、なんともすっきりした表情で、それでいて本物の天使のように屈託のない笑顔を浮かべてこちらを見つめるサフィールの姿があった。
「あ……お、おはようございます、旦那様」
急に名前を呼ばれたこと、そしてこれまで見たことがないくらい邪気のない笑顔を向けられ、ノエルは思わず挨拶の言葉が詰まってしまった。
しかし、サフィールは首を傾げる。
「旦那様?」
「え……」
(こ、これは……私にも名前を呼べってこと……!?)
じっと見つめる視線に耐えられなくなり、ノエルは観念したように告げた。
「間違えました。……サフィール様」
ノエルの言葉に、一度消えた笑顔が、再びサフィールの顔に戻った。
「おはよう、ノエル」
再び名前を呼ばれ、朝からノエルの胸はドキドキが止まらない。
(朝一でこの笑顔はキツイ……犯罪だわ!)
しかし、その胸のドキドキは、すぐにざわつきへと変わっていった。
「ねえねえ、きょうは、お仕事おやすみなんでしょう?
いっしょに、なにしてあそぶ?」
「はい?」
思わずあっけにとられて疑問を返してしまう。
まるで本物の幼児のような言い回しだ。
喋り方も、どこか舌足らず。
ポカンとするのノエルに、サフィールは猫のぬいぐるみをぎゅっと抱き締め、口を尖らせながら、幼い子供らしい声で再度問いかけてきた。
「なにをしてあそぶっていったんだ。ぼくのいってること、きこえなかったの?」
「いえ、聞こえてはいるんですが……」
内容が頭に入ってこない。
(なに、この『あそび』……旦那様、こんな趣味があったの……?)
いくら子供の姿とはいえ、子供になりきるフリをするなんて。
少しばかり……無理があるのではないだろうか。
ノエルが戸惑いを隠せずにいると、サフィールはまたも子供らしい口調で話しかけてきた。
「おねつも下がったから、お外もいけるよ!
そうだ、森をたんけんしにいこうよ。
ノエルにあんないしてあげる。
ぼく、ひみつのぬけみちもしってるんだよ」
「え、ええ……それは、とても楽しそうですね……。
……じゃなくて、だ、……サフィール様。
解毒薬の解析作業は、今日はやらなくてもよろしいのですか……?」
今度こそ、ちゃんと確信をついた質問を口にすることができた。
彼の返答によっては――緊急を要する案件になり得る。
(お願い、「そうだった!」って我に返って!)
しかし、そんなノエルの祈りも虚しく。
「げどくやく?」
キョトンとした顔で、舌足らずな言葉で反芻する。
「それって、なに?」
ノエルの顔から、血の気が引いた。
「……」
夫の表情から、本当にその単語の意味すら知らないようだった。
ノエルは額に手をやり顔を俯かせ、なんとか頭を働かせる。
(待て待て落ち着いて、私。冷静に、一個ずつ手をつけていかなきゃ……)
「あの……一緒に遊ぶ前に、ほんの少しお時間を貰っていいでしょうか?」
「? うん、いいよ」
夫の許可を得たノエルは、すっと扉の方へ向かう。
そしてドアを開けるや否や、屋敷全体に届くくらいの声量で、全力で叫んだ。
「アレックスーーーーッ!! 今すぐ魔術師塔のシイル様に連絡を!
マーサーーーーッ!! 旦那様の子守りをお願いしますっっっ!!!」
明らかに様子がおかしい夫に、ノエルは一人で抱えきれず、すぐさま助けを呼ぶことにした。
◇
「ああ……やはり、恐れていた事態が起きてしまいましたか」
「恐れていた事態、ですか」
今、ノエルは屋敷の応接室で、シイルから夫の変貌について話を聞いていた。
あの後のアレックスの行動は凄まじく早かった。
即座に魔術師塔へ伝令を走らせ、会議へ向かおうとしていたシイルを捕まえ、半ば強引にすべての仕事を放棄させて屋敷へ連れて来たのだ。
ちなみにサフィールは今、マーサや他の使用人たちに任せている。
……おそらく、絵本でも読んでもらっているのだろう。
「ええ。先日、解毒薬は形にはなったとお伝えしましたよね」
「はい、確かにそうおっしゃっていました」
「解毒薬は完成していました。ただし――その解毒薬が効くのは、高い魔力耐性がない人間に限られます」
「魔力耐性がない人間……え、ってことは、夫は魔力耐性が高いと言ってたから……」
あ、と気付いた様子のノエルに、シイルがゆっくりと頷きを返す。
「その通りです。あの方には、通常の解毒薬は効かない。
だからこそ、原因究明にキングリー室長自らが身を乗り出したのです。でも……さきほど聞いた室長の様子からだと、彼にもまだ原因は解明できていなかったんですね」
「ええ。残念ながら……ちょっと、不幸が重なりまして……」
子どもの体力の限界。
そこに追い打ちをかけるように起きた突然の発熱。
不測の事態だったと言っていい。
大人の身体であれば、二日もあればどうにかなっていたのかもしれない。
――今となっては、それすらわからないのだが。
「今回の元凶となった『肌を若返らせる薬』ですが、これも、彼の魔力耐性が強すぎたことが、あのような『姿そのものを若返らせる薬』へと効果が変貌してしまった原因でした」
「どういうことですか?」
「治験段階では、この薬はうまくいっていたんです。
塗り込んだ部分の肌年齢を一時的に若返らせる。そんな、手軽な化粧品のような感覚で使える薬でした」
「……」
本当の効能を聞いて、ノエルはがっかりした様子を見せた。
(なんだ、一時的なのね……)
普通に考えればわかることだが、
てっきり“死ぬまで若い肌でいられる魔法の薬”だと思い込んでいた。
急な落ち込みを見せるノエルに、イケオジのシイルは
「ご期待に沿えず申し訳ございません」と、どこか苦笑い混じりに頭を下げた。
「それで、夫はその薬を全身に浴びたということでしたが……
本来なら、全身の肌が少し若返る、という効果が出るだけだったんですよね?」
「はい、その通りです。
しかし――室長は違った」
シイルは言葉を選ぶように、わずかに間を置いて続ける。
「浴びた瞬間、身体中を巡る魔力が、薬に対して強い拒否反応を示したのでしょう。
ただし、魔法薬の効果を“打ち消す”のではなく……
“吸収して、成分そのものを書き換えてしまった”
――それが、私と室長の見解です」
「……」
ある意味、この薬が市場に出回る前に、夫で試してみて良かったと言えるのかもしれない。
サフィールと同じように魔力耐性が高い人間がこの薬を使えば、何が起こるかわからない。
この薬は、そんな“爆弾”のような代物だったのだ。
――そして夫は、
『まだ治験が必要』
そう、報告書を読んだだけで気付いていた。
それなのに……結果はこの有り様だ。
不幸としか言いようがない。
「あの、それで……
今までは、身体が子供の姿になっても、精神年齢は元のままでした。
なのに、急に……一気に子供になってしまったみたいで……」
昨日の夜までは、確かに“大人のサフィール”と会話をしていた。
それが、一夜明けただけで――
中身まで本物の幼児になってしまったのだ。
「急に、ではないと思います」
「……え?」
シイルは即座に否定した。
「何か、心当たりはありませんか?」
「心当たり……」
(そう言われてみれば――)
最初は、離縁の話が出たとき。
彼はしゃくりあげて、涙を流した。
次は、好き嫌いを指摘されたとき。
やけにムキになって反論し、
ついには一人称まで変わっていた。
それに、食事のときの動作も、どこかぎこちなかった。
寝起きの子供じみた発言もそうだ。
それから、ノエルが仕事へ行こうとしたときだって、
急に甘えてきて、「さびしい」と呟いた。
――振り返ってみれば、
精神が退行している片鱗は、あちこちにあったのだ。
「体中を若返らせているのです。
それは、脳も例外ではありません」
「……!!」
「今は、あなたのことも“奥方”として認識している、とのことでしたね。
ですが……おそらくこのまま進行すれば、記憶も次第に曖昧になっていき、最終的には五歳前後の年齢まで――
記憶そのものも遡ってしまう可能性があります」
ノエルの目の前が、真っ暗に染まった。
(記憶が――消える)
結婚してから、まだ一か月。
ノエルとの思い出なんて、真っ先に消えていくのだろう。
それどころか、この数日一緒に過ごした時間も、
昨日のプロポーズでさえも――
「……一週間以内に解決しろ、と室長が最初におっしゃっていたのは、この事態を懸念されていたからでした。
薬の量から吸収にかかる時間を逆算して……」
シイルは、苦しそうに視線を伏せる。
「……私は、とんでもない方に、とんでもないことをしてしまった」
項垂れるシイルに、ノエルはかける言葉が見つからない。
罵倒することも、泣き叫ぶことも、できなかった。
ただ、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「他に……治療方法はないんでしょうか」
震える声で、
それでも一縷の望みをかけて、ノエルは尋ねた。
しかし――シイルは、残酷にも首を振った。
「残念ながら、今のところ手だてはありません。解毒薬も、室長のケースがレア過ぎて、再現性が無く、手の打ちようがない状況です」
「……」
「ただ、元の『肌が若返る薬』は、その効果は一時的なものです。
ですから、浴びた量に応じた効果が切れるのを待つ――
それが、現時点で唯一の“解毒”です」
「じゃあ……」
「しかし、通常使用量の何倍もの量を浴びたこと、
そして彼の魔力耐性による反作用が、どのように影響するかも未知数です。
正確に、いつ元に戻るのかは……わかりません」
シイルの言葉に、ノエルの浮上しかけた気持ちが一気に沈む。
「無責任に希望を持たせることはできません。
……本当に、申し訳ない」
彼は頭を下げたあと、ノエルの顔を真っ直ぐ見つめて告げた。
「今回の件は、魔術師塔の上層部から重大事故として認定されました。
彼が働けなくなった期間の生活保障は、
ご家族であるあなたに支給されます」
「そんなの……! 必要ありません!」
感情が抑えきれず、ノエルは思わず声を荒げた。
「必要かどうかではありません」
シイルは、逃げるように視線を伏せたまま、言葉を続ける。
「――サフィール・キングリーという人間を、
もう一度“育て直す”ための資金だと、そう思ってください」
シイルの残酷な言葉に、ノエルは思わず両手で顔を覆った。
胸の奥に溜め込んでいたものが、ついに堰を切ったように溢れ出す。
今度こそノエルは、堪えることができず――
人前で、涙を流すこととなったのだった。
第一章おわり。
続きの第二章は明日の夜9時頃更新します。




