11.ノエルの母性と夫の不調
二人が帰宅してすぐ、サフィールは自室に籠ることになった。
「すまないが、しばらくの間、私は解毒薬の分析と、うまくいっていない部分の改良方法の検討にあたる」
「はい、わかりました。あの……無理はなさらないでくださいね」
なにせ、泊まり込みで仕事に没頭するような人である。
このまま自室から出てこなくなる未来が、容易に想像できた。
心配そうに告げるノエルに、サフィールは「もちろんだ」と即座に返事を返す。
「――なにせ、私は休暇中だからな」
「……ですね。休暇中、ですものね」
(だったら第一グループに任せて、ゆっくり休めばいいのに)
という本音は、なんとか胸の内に飲み込んだ。
「休憩する際は、声をかけてくださいね」
それだけ言って、ノエルは夫の私室の扉をそっと閉じた。
◇
ノエルが遅めの昼食をとっている間も、サフィールは食堂へは降りてこなかった。
一応、下へ降りる前に部屋をノックして声をかけてみたが、
「今はいい」と言われてしまったのだ。
(このまま何も召し上がらないつもりかしら……)
心配にはなるが、邪魔もしたくない。
ううんと葛藤した末、ノエルはおやつの時間に、再度部屋を訪ねることに決めた。
コン、コン。
結局、おやつの時間になっても部屋から出てくる気配はなく、
ノエルは夫の私室をノックしに行った。
「旦那様、そろそろ休憩しませんか?
お腹、空いていません?」
扉の外から声をかけるが、中からは何の物音も聞こえない。
(集中していて聞こえていない?
それとも――まさか、中で倒れていたりしないわよね?)
一度気になり始めると、悪い予感のほうで頭がいっぱいになる。
迷った末に、ノエルは「失礼します」と声をかけてから、そっとドアを開けて中へ入った。
ノエルがサフィールの私室へ足を踏み入れると、そこは彼女の部屋とは違い、シックな家具で統一され、壁紙もオフホワイトで清潔感を前面に押し出した装いだった。
壁一面には本棚が設えられ、難しそうな本がぎっしりと並んでいる。
部屋の中央にはシングルサイズのベッドが置かれ、窓際の壁には机と椅子があった。
サフィールはその椅子に座り、机に突っ伏すようにして動かない。
「旦那様!」
やはり倒れていたのだと勘違いし、ノエルは慌てて傍へ駆け寄った。
「……!」
そこには、本を開いたままペンを握りしめ、器用に眠りこけているサフィールの顔があった。
うつ伏せで横に顔を向けているせいか、口元からはわずかによだれまで垂れている。
(あ、これ……)
ふと視線を落とすと、昨日ノエルがプレゼントした猫のぬいぐるみが、机と彼の身体の間に挟まっていた。
どうやら、膝の上に乗せたまま作業をしていたらしい。
ノエルは、彼がぬいぐるみを大事にしてくれていることに、ふと笑みをこぼした。
そして、夫のあどけない寝顔に、母性のようなものをくすぐられる。
(もう、お昼寝の時間だものね……久しぶりの職場で、疲れてしまったせいもあるのだろうけど)
先にベッドのシーツをめくってから、サフィールの元へ向かい、
そっと握りしめられていたペンをペン立てへ戻す。
それから、静かに彼の身体に手をかけた。
このまま起きてしまっても、別に構わないと思っていた。
朝食以降、何も食べていないのだから。
けれども、「ううん……」と小さく声を漏らすだけで、
一向に目を覚ます気配はない。
よいしょ、と椅子から抱き上げ、そっとベッドへ下ろす。
夫は身体を小さく丸めるだけで、やはり起きる様子はなかった。
ノエルは彼の隣に猫のぬいぐるみを置き、
その上から、そっとシーツをかける。
「……おやすみなさい」
静かに頭を撫でてから、彼女は部屋を後にした。
◇
ノエルはあの後、庭の薬草畑の手入れをしてから自室で本を読み、普段どおりに過ごした。
サフィールと顔を合わせたのは、夕食の席についてからだ。
少しふてくされた顔で食堂に降りてきた彼に、
「よく眠れましたか?」と問いかけると、
「寝過ぎだ。仮眠のつもりだったのに……」
と、不機嫌を隠そうともしない様子でぼやいた。
(仮眠にしては、爆睡していたように思うけど)
口にしたら、ますますサフィールの眉間の皺が深くなると思い、ノエルの心の中だけに留めておく。
代わりに、話題を変えるように夕食の内容について話を振った。
「朝ごはんのときから何も召し上がってないから、お腹が空いたんじゃありませんか?
今日はお魚ですよ」
本日の夕食は、白身魚の香草焼き。
例によって、サフィールの分には香草の代わりにソースがかかっていた。
てっきり、その美味しそうな見た目と、湯気の立ちのぼる脇のスープに、さぞ食欲をそそられただろうと思っていたのだが。
「魚か……」
漏れた言葉は、どこか気落ちした響きを帯びていた。
あまり感触のよくないその呟きに、ノエルは「おや」と眉根を上げる。
(苦手、なのかしら)
サフィールは乗り気でない様子のまま席に着き、メインの皿を静かに見つめた。
「もしかして……旦那様は、お魚が得意ではないのですか?」
ノエルとしては、からかうつもりもなく、ただの確認のつもりで口にした。
けれど、サフィールはそう受け取らなかったらしい。
「な、そんなことなどない!」
いつもならもう少し冷静に反論するところだが、今日はやけにムキになっている。
「そうですか。でも、誰しも得意不得意はありますからね」
これも受け流すつもりで言ったのだが、サフィールはさらに噛みついた。
「だから、魚が苦手だなんて誰も言ってないだろう!
大体、僕は好き嫌いは……」
そこまで言って、サフィールははっと目を見開き、
しまったと言わんばかりに口をつぐんだ。
もちろん、ノエルにはばっちり聞こえていた。
そして同じように、思わず目を見開いてしまう。
(僕!? いつも“私”と言っている旦那様が……!)
少しの沈黙が、二人の間に落ちる。
そして何事もなかったかのように、サフィールは食事を始めた。
(こ、これは触れないほうがいいやつよね……)
気まずさを抱えたまま、ノエルも食事に手を付ける。
あまりにも静かで、何か話題を振らなきゃ、と思うが――
先にボロが出たのは、サフィールのほうだった。
口に運ぼうとした魚はぽろりと落ち、
スープも飲むたびに、わずかにこぼしてしまう。
結果、給仕の者が甲斐甲斐しく世話を焼く羽目になった。
サフィールは終始眉根を寄せたままで、ノエルもそれを見て見ぬふりをした。
(ああ、今日はもう、大人しくしていよう……
たまには静かな食卓でも、いいでしょう)
――だが。
思えば、このときから、異変は始まっていたのかもしれない。
そのことにノエルが気づくのは、もう少し先の話になる。
次は夜9時ごろ更新。




