10.サフィール、謎の対抗心を燃やす
すべての荷物をまとめ終えたあと、居室に置いてある箱は屋敷まで送っておくよう、サフィールが職員に指示を出した。
もう用はないと、サフィールがノエルと共に魔術師塔を後にしようと廊下へ出たとき、第一グループの責任者である課長が「お待ちください」と二人を呼び止めた。
「どうした」
まだ何かあるのかと、サフィールはわずかに眉根を寄せて問いかける。
「いえ、奥様にまだご挨拶が済んでおりませんでしたので……。
はじめまして。第一グループの責任者を務めております、シイルと申します。
この度はご主人を大変な目に遭わせてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
シイルと名乗ったその男性は、年の頃は四十代後半ほど。
やや白いものが混じり始めたブラウンの髪をふさりと蓄え、顎には控えめな髭をたくわえている。いわゆる“イケオジ”と呼ばれる部類の人物だった。
これまで直接言葉を交わしたことはなかったが、第一グループの面々から「うちの課長は本当にいい男なんですよ」と聞かされていたため、ノエルも間接的には彼のことを知っていた。
「あの、お顔をお上げください」
自己紹介と謝罪をシイルから一度に受け、慌てて姿勢を正す。
「――はじめまして、ノエルです。主人がいつもお世話になっております」
ノエルも軽く会釈し、妻らしい挨拶をしてみせる。
おそらく――結婚してから、こうして“妻として”挨拶するのは、これが初めてのことだった。
(こんなセリフ、結婚して一か月経って、ようやく口にしたわ)
そのとき、ノエルはふいに下の方から視線を感じた。
「ん?」と思ってそちらへ目をやると、眉間の皺が取れたサフィールが、じっとこちらを見ていた。
(あれ、何かまずかったかしら……)
怒っている様子でもない。
けれど、ノエルにはサフィールの今の感情が掴めなかった。
「――それで、解毒薬についてなんですが」
シイルが話を切り出したため、ノエルは慌ててそちらへ向き直る。
「なんとか形にはできたのですが、まだ完成には至っていない、というのが現状です」
シイルはひどく申し訳なさそうな顔で、正直な進捗状況を伝えてきた。
「そう、なんですね」
さきほどサフィールが進捗がよくないと言っていたが、やはりそのとおりだったようだ。
ノエルの表情が僅かに曇る。
「ですが、必ず完成させて、ご主人を元の姿に戻してみせますので。
それまでご心配をおかけすると思いますが、何卒よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ。引き続きよろしくお願いいたします」
そのとき、くいっと何かに引かれる感覚がして、ノエルはそちらへ目をやった。
見ると、サフィールが仏頂面で、彼女のスカートの裾をつまんで引いている。
「? どうかされました」
「……そろそろ帰るぞ」
「え」
「ああ、何かご予定がおありだったのですね。
引き留めてしまい、申し訳ございませんでした。
キングリー室長も、ご不便をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「……問題ない。それではな」
サフィールはノエルの手を取り、足早にシイルの前を立ち去ろうとした。
ノエルは慌てて「失礼します」とシイルに頭を下げ、それから手を引かれるまま歩き出した。
◇
「あ、あの旦那様」
廊下から外へ向かう途中、ノエルは、手を引いてずんずん先を行くサフィールに呼びかけた。
「どうした」
足取りは緩めないまま、握られている小さな手に、きゅっと力が込められる。
「あ、いえ……何だか急いでいるようだったので。
どうかされたんですか?」
急にシイルの前から立ち去ろうとしたことが不思議で、
まだ魔術師塔の中ではあったが、理由を尋ねてみた。
「……」
サフィールは少し歩みを緩め、しばらく考えるように黙り込んだ。
「? 旦那様?」
ノエルの探るような呼びかけに、とても言いづらそうに、ようやく口を開く。
「――強いて言うなら」
「早く元の姿に戻りたい、という衝動に駆られただけだ」
どこか悔しさを滲ませた横顔を見て、ノエルは「あ」と思い当たった。
(まさか、イケオジのシイルさんを見て――!?)
夫の謎の対抗心。
――可愛いが、過ぎやしないか?
「そうですよね。でも、今の旦那様も、可愛くて素敵ですよ」
ノエルとしては、最大級に褒めたつもりだった。
しかし、サフィールは眉間に深く皺を寄せ、またもや一言を落としてきた。
「……可愛いは余計だ」
そして速度をさらに早め、引くようにしてノエルの手を引っ張った。
(こういうところ、絶対に元の姿に戻っても、そのままなんだろうな……)
顔が見えない位置にいることをいいことに、ノエルは隠すことなくニヤつきっぱなしだった。
自然に繋がれた手は、とても小さくて温かい。
「旦那様の手、ぷにぷにしてますね。それに小さい。
ずっと握っていられます」
「……元の私の手はゴツゴツしていて君のものより大きい。元に戻ったら覚えていろ」
そんな風に軽口を叩きながら廊下を歩いていく二人に対し、
「あら、パパの職場見学に来たのに飽きちゃったのかしら?」
「ママと仲良く職場見学? エライねえ」
と、違う部署の職員たちが次々とサフィールに声をかける。
塔を出るまでに、彼の眉間の皺がどんどん深まっていったのは、言うまでもなかった。
次は昼12時頃投稿
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