01.瞼:矢崎詩音は途方に暮れていた
「うう、どうしよう」
私、矢崎詩音は、寮の前で途方に暮れていた。
手にはあまり大きくない旅行カバン、後ろには締め切られた門。
三月の空は薄青くて、冷たい風が吹いていた。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
中学一年の終業式が終わったあと、担任の先生に呼び出されたところから話は始まった。
「矢崎さん、今回の面談も親御さんはいらっしゃらないの?」
「すみません、仕事が忙しくて」
「矢崎さんを責めているわけではないけど、入学式から一度もいらしてないでしょう?」
「申し訳ありません……」
泣きたい気持ちのまま、頭を下げた。
いっそ泣いてしまえば、先生はあまり深く聞かないでいてくれるのかもしれない。
でも、親が私に時間なんて使わないのは当たり前のことで、泣く気にさえなれなかった
「ともかく、親御さんに手紙を出しますから、春休みの間によくよく話し合ってください。それから」
やっと終わった、と思った。
ほっとして顔を上げたのに、話は全然終わっていなくて、むしろここからが本番だった。
「知っているとは思いますけど、春休み中は寮の使用は不可となります。明日中に帰宅してください」
「えっ」
「矢崎さんは夏休みも冬休みも、ほとんど帰省しませんでしたね? 春休みはそうはいきません。わたくしも意地悪で申しているのではありませんよ。新入生の受け入れのために、クリーニングを行うのです」
「あー……そうなんですね。わかりました」
先生は気まずそうに困った顔をして、軽くうなずいて去っていった。
私はずり落ちそうになったカバンを持ち直して、とぼとぼ寮に戻った。
自分の部屋に向かうと、同室の寧々子が荷造りをしていた。
「お土産たーっくさん買ってくるから、楽しみにしててね!」
「うん、ありがとう」
わかってる。
私だって、わかってるよ。寧々子が普通だってことくらい。
パパとママが帰りを楽しみにしてくれて、「おかえり」って言ってくれるのが普通。
私みたいに、「まだいるの? 早く戻りなさい」なんて言われるほうが、きっとおかしい。
そんなこと、寧々子に言ったって仕方ないから、私は笑顔で見送るけどさ。
でも、それはそれとして、私も荷造りをしないといけない。
瞼を閉じて、数秒してからまた開けた。
一番大きなカバンを出して、教科書や服を適当に突っ込んでいった。
そして、冒頭に戻る。
昨晩家に電話をかけたら、
『どうにか残れないか聞いてちょうだい』
とだけ言われて、すぐ切られた。
「どうにかって、何さ」
呟いてもどうしようもない。
突っ立っていたって、誰も助けてくれない。
とにかく駅に向かって歩き出した。
本当はバスに乗れば早いけど、できるだけ引き延ばしたくて歩いた。
教科書やノートが全部詰まったカバンはバカみたいに重たい。
だから、仕方なく、私はゆっくりゆっくり歩いた。
駅に着かないように、家に向かう電車に乗らずに済むように。
でも、そうはいかない。
歩いていたら、いつかは駅に着いてしまう。
あと一つ角を曲がったら駅が見える。
一瞬ためらって足を踏み出したら、大きな人にぶつかった。
「ご、ごめん! 大丈夫!? って、詩音ちゃん!?」
「えっ……匠海、さん……?」
転んだ私を見て目を丸くしたのは、友達のお兄さんの匠海さんだった。
「詩音ちゃん、起き上がれる?」
差し伸べられた手を取った瞬間、私の目から止めどなく涙があふれた。
「た、たくみさ……」
「お、どうした? めっちゃ泣くじゃん」
匠海さんは笑って私の荷物を拾った。あんなに重いのに、匠海さんは軽々と肩にかけた。
「こんなとこでしゃがみ込んでないで、飯行こう。さっき、おしゃれカフェ見かけたから、付き合って」
「は、はい……」
大きな手に引かれて立ち上がった。
起き上がると匠海さんは手を離そうとしたけど、私はどうしても、その手を離せなかった。
「ご迷惑をおかけしました……!」
「全然。こっちこそごめんね。痛いところとかない?」
「はい、大丈夫です」
カフェの奥まった席に案内されて、私は頭を下げた。
匠海さんは笑顔でメニューを広げて、私に向けてくれる。
「何がいい?」
「あ、えっと……コーヒーで」
「ケーキセットあるよ」
「あの、でも」
つい遠慮したら、匠海さんがニヤッと笑った。その顔が友達にそっくりで、また泣きたくなった。
「俺、この春から調理とか栄養とかの大学に入るんだ。だから、いろんな店でいろいろ見てみたくてさ。試食するから、付き合って」
「……えっと、じゃあイチゴのタルト食べたいです」
「おっけー。俺はチョコレートケーキにしよ。あとさ、俺まだ昼食ってねえんだ。食べていい?」
私が頷くと、匠海さんは楽しそうにメニューをめくり始めた。
店員さんにあれこれ頼んでメニューを片付けたあと、匠海さんが改めて私を見た。
「詩音ちゃんの中学ってこの辺だっけ」
「はい、山の上です」
「すげー、めっちゃお嬢様学校じゃん」
「そうなのかな。全寮制だから選んだだけで……」
「今は? 春休み?」
「はい。……実家に、帰らないといけなくて」
「あ、そうなんだ。ごめん、引き留めちゃって。俺も家に帰るとこだったんだ。家からここまで微妙に遠いだろ? だから部屋借りて、さっき契約してきたんだ。んで、来週この辺に引っ越すから、また飯食うの付き合って」
匠海さんはニコニコと私を見ていた。
……匠海さんは、友達の川瀬美海のお兄さんだ。
ここから、私の実家とは反対方向にある小崎町という小さな町で、ご両親と美海、匠海さんの四人で暮らしていた。
母方の祖母が小崎町に住んでいるから、小学生のころは長期休みのたびに小崎町に通っていた。
同い年の美海と、その隣に住む佐々木夜と三人で宿題をしたり、海で遊んだりした。
今でも手紙のやり取りは続いていて、三連休には会って遊ぶこともある。
二人とも、私が実家と仲良くないことを知っているから、『いつでも遊びにおいで』って声をかけてくれていた。
でも、中学に上がってからは祖母の体調がよくなかったこともあって、あまり行けなくなっていた。
小学生のころは春休みや夏休みのあいだずっと小崎町にいたのに、去年は一泊しかできなかった。
――匠海さんの部屋探しが大変だった話を聞いているうちに、ケーキやコーヒー、サンドウィッチが運ばれてきた。
「やべ、頼みすぎちゃった」
「あはは、テーブルがいっぱいになっちゃいましたね」
「食べよ。俺、腹減った」
「はい、いただきます」
差し出されたフォークを受け取って、タルトのてっぺんのイチゴを食べた。
甘酸っぱい。
匠海さんは大きな口でサンドウィッチを食べている。
「うまいなー。詩音ちゃんも一個食べる? ちょっと辛子入ってるけど平気?」
「私は大丈夫です。匠海さん、お腹空いてるんですよね」
「このあとグラタンも来るから、気にしなくていいよ。詩音ちゃんの感想も聞きたいしね」
「ありがとうございます。いただきます」
サンドウィッチを受け取って口に運んだ。
「おいしいです。すごい、レタスがシャキシャキだ」
「ね、うまいよね」
胸の奥がぎゅっとして、また泣きたくなった。
昔から、匠海さんはいろんなものを食べさせてくれる人だった。
美海に会いに行くと、高校生だった匠海さんがパンケーキや小さなパフェを作って、食べさせてくれた。
「おいしい」
って言うと嬉しそうで、美海も
「お兄ちゃんは何作ってもおいしいから」
なんて自慢気にしてた。
それが、私にはすごく羨ましくて……思い出しただけで胸が痛くなった。
「詩音ちゃん? やっぱちょっと辛かった?」
頭の中がぐちゃぐちゃになって俯いた私に、匠海さんが心配そうに声をかけてくれた。
ダメだ、心配かけちゃ。
「ごめんなさい。前に、美海と一緒にデザートを食べさせてもらったことを思い出しちゃって……」
「ああ、いろいろ食べてもらったもんな。また食いに来てよ」
匠海さんはさらっとそう言って、サンドウィッチの残りをぺろっと食べた。
店員さんがサッとやって来て、ホカホカのグラタンと空の皿を交換していく。
「去年の夏、詩音ちゃんあんまり来なかっただろ? 美海と夜が寂しがってたよ」
「えー、でも美海と夜は二人でイチャイチャしてたんじゃないですか? 私がいたら、お邪魔虫です」
小崎町に長くいなかった理由は、実はそっちだった。
一昨年の夏の終わりに、美海と夜がようやく両思いになった。
二人はずっと両片思いで、なんでくっつかないんだろうって思っていたから、両思いになったのは嬉しかった。
でも、私が少し寂しくなったり、気が引けたりするのも本当で。
なのに、匠海さんは少し呆れたような顔をした。
「それ、気にしてた? 美海に言ってみなよ。めっちゃ怒るから」
「……そうでしょうか?」
「うん。夜だって、詩音ちゃんが帰ったあと寂しがって、すげーぼやいてたよ。宿題のことも聞きたかったみたいだし」
「そうだったんですね……」
匠海さんはまたニコッと笑った。
「あいつらも言ってたと思うけどさ、おばあさんの家が居づらいなら、うちでいいじゃん。部屋空いてるし」
「えっ」
「俺は詩音ちゃんが帰りたくないところになんか、行かなくていいと思うよ? まー、未成年だから、もちろん許可はいるけどさ。あ、一口食べる?」
わざわざ新しいスプーンを出して、匠海さんはグラタンを一口すくって私に差し出した。
ヤバい、泣きそう。
美海と夜にも同じことを言われていたのに、どうして私は忘れていたんだろう。
口を開けて、グラタンを食べた。
「おいしいです……」
「ね、うまいよね」
「……あの、春休みの間、お邪魔してもいいでしょうか?」
「もちろん。親にも確認するから待ってね。詩音ちゃんも親御さんに許可もらっておいて」
「はい!」
私の親は、二つ返事でオッケーだった。
美海の親御さんに渡すようにと、食費と滞在費まであっという間に振り込まれていた。
「うちはオッケー。美海が楽しみにしてるって」
「ありがとうございます!」
今度は我慢できなくて、私はまたボロボロ泣いた。
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