移植狂想曲
移植狂想曲
私の名は、高遠瞬。世間は私を、神の手を持つ外科医と称賛した。そして、彼女の名は美咲。全身が衰弱していく奇病に侵された、私の愛しい恋人。私は彼女を救うため、禁忌を犯し、臓器の移植をすることにした。
狂気の深化:記憶の連鎖
最初に、私は彼女の心臓を移植した。手術は成功。メスを置いた瞬間、私の右手に微かな震えが走った。疲労か、それとも…。私はその違和感を振り払うように、麻酔から覚めた彼女を抱きしめた。
しかし、麻酔から覚めた彼女は、時折胸をかきむしり、震えながら囁いた。「行かないで…行かないでくれ…マキ、行かないでくれ…」それは、事故で亡くなった若者の最期の言葉だった。他人の記憶が流れ込むことに、彼女はひどく怯えていた。私は彼女を抱きしめ、囁き続けた。「大丈夫だ。君は一人じゃない。この命は、君の中で生き続けるんだ」私の言葉は、彼女の心の奥底に、歪んだ安堵を植え付けた。
私は、彼女の命を繋ぐため、臓器の移植を続けた。肝臓、腎臓、肺。彼女の体は次第に健康を取り戻していったが、彼女の精神は、ドナーたちの記憶の断片に深く蝕まれていく。次第に、彼女は、記憶が入り込む恐怖さえも「生」の強烈な証だと喜ぶようになっていった。もはや元の美咲ではなかった。その瞳の奥には、様々な人生の記憶が混ざり合い、複雑な光を宿していた。
ある日、彼女は突然、子供のように目を輝かせながら私に訴えかけた。「先生、私の目を。もっと、世界を見たいの。あの、無垢な瞳で」それは、交通事故で命を落とした幼い子どもの眼だった。移植後、彼女の世界は一変した。道端の小石一つ、空を舞う鳥一羽、全てが鮮烈な色彩と輝きを放ち、彼女の心に純粋な感動をもたらした。同時に、信号無視のトラックが迫り来る瞬間の、凍りつくような恐怖も、彼女の視界を覆った。しかし、その恐怖でさえも、彼女にとっては「生」の強烈な証であり、その記憶に身を委ねるたび、彼女の顔には歪んだ笑みが浮かんだ。私は、彼女のそんな表情を見るたび、私の中に潜む、ある感情がざわめくのを感じていた。それは、恐怖とも、好奇心ともつかない、歪んだ歓喜だった。
数週間後、彼女は再び私に懇願した。「先生、私の右足が欲しいわ。あの、芝生の感触を覚えている足が」それは、将来を嘱望されていたサッカー選手の右足だった。手術後、彼女はリハビリ室で、無意識にボールを蹴るようなステップを踏み、空中を跳ねる幻のボールを追った。その瞳には、スタジアムの熱狂と、ゴールを決めた瞬間の歓喜が宿っていた。私は、彼女がその記憶の奔流に身を任せるたびに、恍惚とした表情を浮かべるのを見て、私の愛が彼女を怪物に変えてしまったのではないかという恐怖に襲われた。だが、同時に、私の心の奥底では、この狂気の実験がどこまで進むのかという、ある種の期待感が膨らんでいた。
そして、彼女が求めたのは、殺人犯の右腕だった。「先生、この腕が欲しいの。あの、人を殺めた時の震えを、私が感じたい」私は背筋が凍った。しかし、私はメスを握りしめた。手術後、彼女は私に向かって、にこやかに言った。「先生、移植してくれてありがとう。この手も喜んでいるみたい」その言葉と同時に、彼女の右腕が、まるで蛇のように跳ね上がった。狙いは、私の首筋。病で衰弱しているはずの体から発せられたとは思えないほどの、鋭い速度だった。私は微かに首を傾げるだけで、その腕を紙一重でかわした。その瞬間、体の奥から激しい痛みが走る。私はそれを堪え、冷や汗を流しながらも、彼女の瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳は、まるで「ああ、先生も、私と同じ狂気を持っているのね」と囁いているかのようだった。私は、この手にいつ殺されるかわからないという、危険な状況の中で、移植手術を続けることにした。彼女の体をメスで切り裂くたび、彼女の体はびくつき、その度に私は、その手が私に襲いかかるのではないかと身構えていた。
最後の選択、そして究極の支配
全身が取り替えられた彼女の体に、もはや元の美咲の面影はなかった。彼女は、ドナーたちの記憶で満たされた、全く新しい存在になっていた。そして、彼女は最後に、私に微笑んだ。「先生、最後に、あなたの脳を、私にくださいな」私は、メスを置いた。そして、狂気の瞳を宿した彼女の顔に、優しく触れた。あの雨の日に出会った、儚げで愛おしい美咲の面影を探すように。「分かったよ。美咲。永遠に愛している」私の言葉は、彼女の心の奥深くに届いた。彼女の唇が、震えながら私の名を呼んだ。「…瞬…」その一瞬の、純粋な愛の交錯。
「ありがとう。これで私たちは永遠に一つになるわね」そう言って、彼女は目を閉じた。
手術は成功した。
しかし、私の体に入った彼女は、うめき声をあげた。「…先生…身体が苦しくて辛い…」彼女の顔は、驚愕と恐怖に歪んでいた。一方、私は、彼女の体を借りて、鏡の前に立った。私の頭には、彼女の記憶がすべて流れ込んでくる。しかし、私の脳は、その記憶をすべて吸収し、塗り替えていく。彼女の記憶は、私の脳にとって、新たな臓器の一つにすぎなかった。
「お前が愛したこの身体は、もうすぐ死ぬ」私は、彼女の体を借りて、冷たく囁いた。「俺は生まれたときから、決して治ることのない病を抱えていて、余命いくばくもなかったんだ」
彼女の顔は、絶望に凍りついた。ベッドに横たわる、私の体に入った彼女は、最期の瞬間に、自分が騙されていたことを知る哀れな獲物だった。私は、彼女の人生と狂気をすべて手に入れ、新たな人生を歩み始める。私は、彼女の狂気の実験を、究極の支配という形で、完成させたのだ。
「お前はこのままでも死ぬが、どうやらこの右手が、最期までお前を苦しめたいと望んでいるようだ。」
私は、鏡に映る自分の姿を見つめた。その瞳は、狂気に満ちた彼女のそれと同じ光を宿していた。




